日暮れて道遠: 伍子胥と范蠡

 

2005年8月3日

日暮れて道遠: 伍子胥と范蠡

一度は伍子胥のことを、そして范蠡のことを書いてみたい、と思い、(3ヶ月も前に)臥薪嘗胆から書き起こした。臥薪嘗胆エピソードの活劇、私の心のスクリーンの上で最も生き生きと活躍する人物は、闔閭・夫差や勾践ではなく、伍子胥と范蠡である。もとから私は、夫差も勾践も好きではない。前回の文章でも書いたように、私自身は「臥薪嘗胆」で頑張るのが好きだけど、所詮、烏龍茶をPR茶にレベルダウンする程度のお茶のみ話でしかない。臥薪嘗胆をしたのは呉王や越王である。もしも、私が当時の呉か越か、あるいは楚(#補足参照)に生まれていたとしたら、(歴史に「もしも~たら」は、禁物であるが)、夫差や勾践として生まれてはいない。生まれたときから、硬く冷たいベッドに寝起きし、まずいはずの胆もごちそうに思える庶民の子に生まれ、「いまに見ていろ」という育ち方をしたに違いない。私の意識の中では、夫差に生まれ変わることが、どうしてもできない。王様になれない私にとっては、「臥薪嘗胆」は、全く縁のない努力の範疇に属する。臥薪嘗胆の努力は、どこにも必要ない。忘れがたい恨みがもし有ったとするなら、薪の上に寝て部下から毎日思い出させてもらわなくとも、苦い胆を嘗めなくても、忘れはしない。

この臥薪嘗胆の物語と交差し合いながら、伍子胥の人生が同時進行する。伍子胥こそ、「決して忘れない男」であった。日暮れて道遠、死者を鞭打つ、その姿は二千五百年の歳月を経た今日でも、余りにも壮絶な映像フィルムである。呉王夫差が、「父王闔閭が殺された恨みを忘れるな」と部下たちに毎日ことさら言わせることなど、伍子胥の眼には児戯に等しいと映ったことであろう。陳舜臣さんの「小説十八史略」(*注)では、その辺りを上手に脚色して描いてあり、私も全く同感である。たとえ父親の仇であっても、人を恨み、憎み抜いて、相手かあるいは自分のどちらかが滅び尽くすまで、どろどろの世界で戦い続けることなど、生まれながらのプリンス、夫差には難しいことであった。ちっとも美しくない。潔くもない。きれいさっぱり水に流せないものか。夫差の気持ちはその後の歴史の進行が雄弁に物語っている。夫差は、実に才能豊かな英雄である。会稽での勝利の後、中原へ兵を進め覇者をめざして飛躍することとなる。(##補足参照)

以前、私は、「要は、癌と戦う気持ちを忘れなければそれでよいのだ」と書いた。私の難病への想いは、ほんのちょっぴりかもしれないけれど、伍子胥の楚王への想いに似ている。「初心消えかかるのを 暮らしのせいにはするな そもそもが ひよわな志にすぎなかった**注」—私は、もともとそのような「ひよわな志」しか持たず、少年の頃から中途半端、挫折ばかりを繰り返してきた。そんな私が、(低調な失敗の連続ではあったが)こうして25年も難病治療の研究を続けてこられたのは、その大きさ激しさ重さすべてにおいて伍子胥に遠く遠く及ばないのを承知の上で、敢えて語れば、伍子胥とどこか同質の執拗な想いがあるからだ。死者を鞭打つ伍子胥の姿に、おぞましく鬼気迫る狂気を見、眼をそむけ、後ろを振り向くことなく逃げ出してしまいたい、それが普通だ。が、司馬遷ならきっとそうしたであろうように、もし、私がその場に傍観者として立っていたならば、その場に立ちつくし、その姿を脳裏に焼き付け、歴史の一ページに書き留めようとしたことだろう。眼をそむけたいのに、逃げ出してしまいたいのに、できない。そうだ、伍子胥の生き様そのものが、私たちが忘れてはならない貴重な「歴史」なのだ。日暮れて道遠、私自身も最近ときどきこの言葉を人前で口にするようになった。その時、頭の中をよぎるのは、この伍子胥の姿。「必樹吾墓梓。梓可材也。抉吾目、懸東門。以観越兵之滅呉。」呉の国が滅びるよりもずっと前に、伍子胥の死体は揚子江に投げ捨てられてしまう。その最期までも壮烈。

さて、しかし、私が最も注目する「臥薪嘗胆」の故事の登場人物は、実は、范蠡である。私のふるさと津山の西部、院庄には、作楽神社(明治2年にできたもの)の史跡がある。後醍醐天皇と児島高徳(こじまたかのり)の故事、「天莫空勾践 時非無范蠡」(太平記)のゆかりの地である。私の小学校の遠足でははるばる歩いて行ったし、また、中学校の体育会ではこの漢詩の謡いに合わせてみんなで演武を舞わせられたりしたので、「天莫空勾践 時非無范蠡」の句を、40年近く経った今も忘れないのである。子供心にも、「ハンレイ」という人物、立派な人に違いないと信じていた。この范蠡、別名で何度も登場し、史記列伝のなかでも、私が最も注目すべき人物である。日暮れて道遠、となってしまった今だから負け惜しみで言っているように思われるかもしれないが、私はすでに15年ぐらい前から「粘りにでる作戦」にストラテジーを切り替えた。すなわち、医学研究分野での「早雲」たらんとする方針に切り替えたのである。北条早雲の若い頃のことは不明である。彼が、小田原で一国一城の主となったときすでに60歳。そのまま数年で死んでいれば、北条3代の繁栄は無かった。88歳まで地に足をつけて、しっかり生きたからこそ、諸国の大名から政治面でも生活面でも尊敬される「北条早雲」となったのである。中国の歴史(たとえば史記列伝)の中には、熟年で頑張った人物たちが、さらに大勢登場する。人生を二毛作か三毛作で生きた人々である。(これからの時代は四毛作***注 であろう。) なかでも范蠡は、呉越戦争終了後、越王勾践ときれいさっぱり縁を切って、さっと旅だってゆく。あの潔さがたまらない。素敵な生き様だ。しかもそのまま「去りゆくのみ」ではない。カメレオンのように姿を変えて颯爽と、今度は貨殖列伝のなかに登場する。先に述べたように、たとえ想像上の仮定でさえ、プリンス夫差になれない私が、現実になんとか范蠡を先生としたいと思っているのだから、不思議な矛盾に驚かされる。呉の国を滅ぼしてしまったように、(たったひとつでも良いから)難病をなんとか粘って滅ぼした暁には、あの范蠡のように、さっさと勾践を見限って、また新しい挑戦の旅に船出してみたいのである。  「だから決めた できれば長生きすることに  年とってから凄く美しい絵を描いた フランスのルオー爺さんのように   ね  ****注」   だから私の墓には梓の樹を植える必要はない、と思いたい。しかし、いかに超持久戦に持ち込んでいるのを自覚している私でも、「日暮れて道遠」は、見つめなければならない重い現実である。范蠡のように勝利を得てさらに高く飛翔することが、理想。しかし、第一目標が達成できない私のような研究者は、伍子胥のように最期まで、鬼気迫る面持ちで、薄氷を踏むような実験を重ねてゆくことになるのだろうか。念のため、梓の種を蒔き、小さな苗から育て始めても、尚早ではないかもしれない。梓の樹ってどんな樹なのか? 北海道でも育つのだろうか?

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注* 陳舜臣 小説十八史略 毎日新聞社 1987年。

注** 茨木のり子詩集 自分の感受性くらい <新装版> 花神社 2005年(初版は1977年)。

注*** 石津謙介 人間的な かっこいい貧乏人の人生四毛作論 三五館 1998年。

注**** 茨木のり子 わたしが一番きれいだったとき 茨木のり子詩集 見えない配達夫 童話屋 2001年復刊(初版は1958年)。

#補足: 楚は現在の湖南、湖北両省の地域を指す。

##補足: そして西施も登場し、「顰み(ひそみ;眉をしかめること)にならう」という故事も生まれる。夫差の死、すなわち呉国の滅亡の後、西施がどのような生涯を送ったのか、史書に記載がない。(西施の名は「春秋左伝」や「史記」などの正史には見えない。)陳舜臣さんの「小説十八史略」では、范蠡と共に越を去り、新たな人生を歩んだように描かれている。私も西施には幸せに生き延びてもらいたい。しかし、范蠡の経営する八百屋の店頭に立って、大声を張り上げて野菜を売りさばいている商売上手の女将さんの西施の姿を想像することは、私の想像力をもってしては難しい。400年後の司馬遷の頃には西施の記録はすべて失われていたことだろう。あるいは、西施の行方は、夫差の死後すぐに、だれにもわからないものになったのかもしれない。陳舜臣さんのような優れたストーリーテラー(###補足参照)に任せるべきテーマ。

###補足: 小説と歴史について  陳舜臣の「小説十八史略」は、文字通り、小説である。司馬遼太郎の歴史小説が大衆小説であるのと同じ意味で大衆小説である。私(HH)は、陳舜臣や司馬遼太郎の歴史小説を興味深く読みはするが、しかし、しばしば、「いや、本当は別のことが起こっていた」と思い始めると、余り楽しめなくなる。すなわち、私は、小説よりも「歴史」の方がずっと好きである。こんなことがあったとしたら面白いだろう、という小説よりも、資料を精確に評価して真実を追究してゆく「歴史」を読みながら、考えることが好きである。皆さんも歴史小説が「小説」であることを忘れずに。是非、オリジナルの「史記」その他の歴史書も読んでいってください。

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日暮れて道遠: 伍子胥と范蠡  以上、2005年8月3日付けWEBページより再掲

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猫町を誘致

私の部屋に「猫町」を誘致

 

2005年8月2日

 

日曜日に札幌駅の本屋さんの詩集コーナーで、萩原朔太郎の「猫町」* を見つけた。金井田英津子さんの画の本で、装幀も美しい。これを買ってきて、職場に持ってきて、朔太郎の写真集「のすたるぢや(詩人が撮ったもうひとつの原風景)」** と並べて立てた。朔太郎が使っていたのはフランス製のステレオスコープ。「僕はその器械の光学的な作用をかりて、自然の風物の中に反映されてる、自分の心の郷愁が写したいのだ。」**、という。

 

「猫町」は極めて不思議な世界だ。不意に紛れ込んだ「景色の裏側」の世界。

 

一方、アラーキーと森まゆみさんの「人町」*** も私の部屋に飾ってある。この「人町」のタイトルから「猫町」を連想しない人はいないと思う。が、ひょっとして、「猫町」を知らない人が聞いたら、「人町」は当たり前の真ん真ん中過ぎて、全く意味をなさない。すなわち、「景色の裏側」のはずの「猫町」が存在しなければ、「景色の表側」である「人町」も存在し得ない、という、奇妙な論理の反転が生じている。パロディーの世界では、この反転現象が生じやすい。不思議な世界をもう一回さらに不思議の方向に回転させると、極めて当たり前の世界に戻ってしまうのである。

 

さて、私の職場の本棚。この「人町」と「猫町」を並べて立てるか、離してたてるか、迷っている。たとえば谷中(東京、台東区)の街並みは、天才アラーキーにかかれば、「猫が来るといいな、というとどこからともなくニャーオ。」という町に変わる(「人町」の森さんのあとがきより)のであるが、朔太郎にとって通常は、「終日白っぽい往来」*(猫町、8ページ) に見えるであろう。が、ある時、突然、詩人は「第四次元の別の宇宙(景色の裏側)」(猫町、79ページ)を見るのである。そんな経緯を考察すると、景色の表と裏の関係にある「人町」と「猫町」、とりあえずは、並べて立てておいても、猫と人とで喧嘩することもなかろう、と思う。

 

私の部屋を訪れる人は、是非、この不思議なマッチとミスマッチを見つけて楽しんで欲しい。

 

 

* パロル舎 1997年。

** 萩原朔太郎写真作品 のすたるぢや 新潮社 フォトミュゼ 1994年。

*** 旬報社 1999年。

 

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「安心な老後」と「末は小町」

 

一読すると、なるほどと感心する文章だったのに、しばらくしてから、スッキリしないものがホコホコと浮かんでくることがある。 WEBページに公開されている「末は小町をめざして」という田中優子さん(以下TYさん)の文章もその一つである。私なりにあれこれ考えてみてたどり着いた結論から先に述べると、TYさんの文章の全体の論旨には共感させられるのだが、「安心な老後」と対比された「末は小町」という言葉の使われ方に私独特の引っかかりを感じているのである。以下にWEBページから一部を引用しながら何がそしてどうして引っかかるのか考えてみたい。少し長い引用となるがご容赦いただきたい。

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<以下引用>  http://onnagumi.jp/koramu/anosuba/anosuba44.html

なぜかしきりに、今までの様々な事柄からリタイアしたいと思っている。今は、従来の発想ややりかたを墨守していては切り開いていかれない時代だ。自分自身が変わりたいからだが、それより何より、二〇代から四〇代の人たちが思い切り力を発揮できる環境が必要で、そのスペースを空けたい。同じ世代の中には、これから権力を握ろう、これからいい思いをしよう、という人たちもいるのだろうが、そんな人間が多くなったら最悪だ。最低限のことを伝授しつつ、道を譲る時なのである。このごろはふと気がつくと、その「伝え方」と「あけかた」を考えていることが多くなった。

江戸時代では、それを隠居といった。隠居は世間的な価値とは異なる生き方をする時間で、可能な人であれば三〇代から隠居した。そう極端でなくとも、五〇歳にでもなれば隠居し、運良く生き延びれば、次の地平で異なる生き方をしたものである。隠居には後身に道を譲る、という意味も含まれる。だからたとえ重要な仕事をしていて、しかも元気であっても、隠居は早くすべきなのだ。そうでないと社会が停滞する。

「そんなこと言っても老後が不安で」という人が多い。不安でない老後を保障しろ、という人もいる。しかしそうなのだろうか。江戸時代の隠居は、年金がないから自分で稼いだお金で隠居生活を送った。そのために、若い頃から節約するのは当たり前だった。湯水のように金を使った人まで「不安の無い老後を」というのは虫が良すぎる。華やかな生き方をするのであれば、「末は小町」を覚悟すべきだろう。この場合「小町」とは「卒塔婆小町」の意味で、老齢のホームレスの女性を言う。

老いたら、この先自分はどうなるのか、いつまでどのように生きられるか、不安なのが当たり前だ。しかしその不安と引き替えに「自由」がある。それが隠居という生き方である。芭蕉は隠居後、金を持たずに旅をし続けた。それは「野ざらし」を覚悟の上の、生き方としての旅だった。地位も金も肩書きもない、何も持たない己れと向き合う、実に深淵な自由である。日本には、そういう老いかたの伝統がある。

私は、「安心な老後」など送りたくない。千年以上の文化が作り上げてきた深みを、崖っぷちから覗きたいのである。 <引用終わり>

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今回はいくつかの問題提起を箇条書きで並べてみたい。順不同である。

1.衰老落魄説話のヒロイン小町: 小町は奈良平安時代の貴族文化の担い手の中でさらに伝説の中のアイドル。貴族たちの生活の基盤は律令制の下での租庸調すなわち庶民の労働に支えられているものであった。この時代の社会は、武士による封建制支配へと移行する前の時代、すなわち貴族による奴隷制支配の社会構造である。貴族の生き方は寄生的であり生産に携わることがない。小町が貴族の零落した姿であったとしても、奴隷・庶民にまで堕ちたのではない。如何に辺縁に押しやられたとはいえ、貴族の集合の中の要素であり続けているのである。「地位も金も肩書きもない何も持たない己れ」ということとそれでも貴族であることとの間に明確な矛盾が存在している。

2.出家、その象徴としての西行: 奈良時代の国家事業としての仏教、平安貴族の栄耀栄華の持続を願う呪術事業としての仏教、この時代の中で僧侶といえども国家のお抱えであり、いわゆる国家公務員・官僚である。この社会制度のもとでは、僧侶であること自体、「地位も金も肩書きもない、何も持たない己れ」には成れないことを意味する。芭蕉の敬愛する西行、彼が武士を捨て妻や幼い子供を捨てて出家してもなお、「地位も金も肩書きもない何も持たない己れ」には成れないのである。西行は、世を捨てて仏教を選んだというよりもむしろ他の(すべてとはいわないまでも)非常に多くを捨てて芸術を選んだというべきであろう。実際、西行には豊かなサポートがありしっかり暮らしてゆくことができた。もし西行が武士を捨てた上にさらに本当に「地位も金も肩書きもない何も持たない己れ」になってしまえば(あり得ない仮定ではあるが)現実的に生活してゆくことの重みが両肩に重くのしかかり決して芸の道に生きることはできないのである。

3. 芭蕉: 江戸での俳諧の高名な師匠としての暮らしは、今でいうところの芸術大学のタレント教授のような持てはやされる暮らしであろうか。それら安定した暮らしの選択肢を捨て、晩年になっても病身となっても旅に生きる。TYさんの文章にあるように「芭蕉は隠居後、金を持たずに旅をし続けた」ことはほぼ事実かも知れない。が、各地にそれぞれ支援者の層が厚く、旅の姿は乞食のようであっても本当の乞食ではない。芭蕉が芸の道に生きることはそのまま封建制度下の米作り百姓に寄りかかって生きていることになる。「実に深淵な自由」ではあったかもしれないが、芸を売って米を買わねばならぬという意味で、百姓の生産労働に依存した範囲内での自由と考えねばならない。これは本当の自由と言えるのか。

4.  翻って、現代の筆者TYさんによる「末は小町をめざして」: 筆者は言う、「日本には、そういう老いかたの伝統がある。私は、「安心な老後」など送りたくない。千年以上の文化が作り上げてきた深みを、崖っぷちから覗きたいのである。」と。

「千年以上の文化が作り上げてきた深み」は、平安女流文学そして西行・宗祇・芭蕉に代表される文芸文化を意味されているのだろう。それら価値の高い文化を継承すべき私たちにとって「安心な老後」を否定して、それら古人の求めたものを求めて老いを過ごし死を迎えたいという主張には共鳴させられるものがある。

しかし、視点を変えて考えてみよう。 判然としないのは、「末は小町をめざして」の「小町」のイメージである。作者は同じ文章の中で、「この場合「小町」とは「卒塔婆小町」の意味で、老齢のホームレスの女性を言う」とわざわざことわっている。卒塔婆小町は能作者らによって作られていった衰老落魄説話として中世社会に広く語り継がれたという。しかし、現代に生きる筆者によって、老齢のホームレスの女性、その通りの意味で小町という言葉が使われているのか。どこかに捻れが隠れていないか。

庶民の中に紛れ込んでいることはあり得るかもしれないが、小町は貴族、それもたとえ過去の栄光とはいえ文芸界のアイドル・ヒロインである。筆者TYさんは、小町の所属する貴族・文芸を愛して生きる集合の中の一員として最期の自分を想定し、また、大学教授や知識人たちで構成される仲間たちに呼びかけているのではないだろうか。この零落小町を自分の老後に想定される危険の最悪レベルと想定している人が、「安心な老後」を否定したとしても、否定された末に残る最悪の「安心でない老後」はそれほど悲惨な老後ではない。すなわち、自分は衣食の生産に携わらなくとも衣食が他者から供給されるという十分に守られ依存した老後、そして普通の医療が受けられ人並みの利便生活が確保された老後、それぐらいは当たり前としている言論ではないか。であれば、ここに否定されている「安心な老後」というのは、大学教授や知識人たちいわゆる現代の貴族ともいえる人たちを基準とした贅沢な老後であり、現在の一般庶民が想定しなければならない「安心でない老後」を念頭に置いていないのではないか。

私は、「安心な老後」という言葉は、「贅沢な老後」とは違うと思う。より良い社会を作ってゆく上で決してなくしてはならないものとして、否定してはいけない形で使われるべき言葉だと思う。私は「安心な老後」としてたとえば以下のようなものを想定してみる:

a. 家族そして地域や社会の中で人とつながり、役割を担い果たしてゆくこと: 生産への参加

b. 衣食住と医療介護などが必要に応じて他者と等し並みに得られること: 生存の平等

c. 仲間たちや子孫たちが今よりも少しずつでも良い方向へと向かう社会を築いていくだろうと期待して生きていられる老後:  社会幸福の漸増

d. 私たちの積み重ねてきた価値あるものが仲間たちや子孫たちに価値あるものとして継承されると安心していられる老後:   文化・価値の継承

このような観点からは、戦争や原発事故による家族や地域社会ないし国や世界の突然の壊滅を想定することは、「安心な老後」の否定形の最たるものだと思う。

西行・宗祇・芭蕉のような芸術家は民族の歴史の中で、千年にひとりか二人の逸材である。他のすべてを捨ててその道一筋につながって芸を磨いてゆく「老いの伝統」というべきものがもしあったとしても、私たちにはその伝統を安易に模倣できるとは考えない方が良い。むしろ、地域のそして世界の人々とつながりながら安心な老後をひとりひとりが確かに得られるような、そんな社会を築くことを目指してゆくべきではなかろうか。実に平凡に聞こえるかもしれないが、私はそう思う。

2014年7月16日 水曜日

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追伸:

文章をそれ単独で読んで理解する立場から離れて考えてみるのも良いかもしれない。たとえば、どういう状況に生きている人が書き、それまではどのようにして生きてきたか、そして(過去の文章であれば)書いた人はその後どのように生きていったか、という歴史である。視点をさらに展開させて、その文章が読む人によってどのように受けとめられていったか、時代の流れによってそれがどのように変わっていったかなど、歴史的な視点から資料を集めてみると、また違った理解が可能かもしれない。いわゆるメタ解析である。いずれは「末は小町」のメタ解析を試みてみたいとも思った。

しかし、今は7月、夏の真っ盛り、農繁期。照りつける太陽を浴びながらの畑仕事で多くの時を過ごしている。私自身にとっても切実な課題ではあるものの、「安心な老後」に関するさまざまな発言や考察に関するメタ分析はまたいずれかの機会に。

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田中正造の問題

 

2010年7月6日

 

宇都宮に出かける所用があり、空いた時間を利用して佐野を訪れた。

宇都宮から東武線で栃木へ。約40分。栃木から両毛線に乗り換え。といっても1時間にせいぜい1本ぐらいのローカル線のため、待ち時間が一時間近くもできたため、蔵の街栃木を散歩。駅前通には学習塾が並び、教育熱心な地域と感じる。

栃木から両毛線。宇都宮から栃木・佐野・足利経由で前橋・高崎に向かう両毛線。この鉄道に乗ったのはこれが初めて。前橋まで行って朔太郎ゆかりの利根川の畔も散策したかったが、今日は佐野と決めている。栃木から数駅で佐野へ到着。駅の北側が城山公園、藤原秀郷ゆかりの佐野城趾。

城趾の遺跡を巡った後、駅の南側に回って駅前通沿いでラーメン屋さんに入り、チャーシュー麺でお昼とする。チャーシューという言葉を聞くと、金子光晴が友達をチャーシューになぞらえた晩年の詩がひらめいて思い出し笑いしそうになる。当分この習慣が続きそうだ。

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日光例幣使街道(旧50号線)へ曲がって、秋山川を渡ってしばらくいってから左手に曲がると佐野市郷土博物館。

正面の一室が田中正造関係資料の常設展示。表装され巻物になっている「謹奏 田中正造」。正造の加筆訂正の墨の上に捺印の朱の色彩。幸徳秋水が「臣ガ狂愚」としたものを、「臣ガ至愚」と訂正捺印、そのほかにも多くの訂正加筆がある。

遺品の石3個も、有名なものであったが、今回初めて実物を見ることができた。その隣には菅笠なども展示されていて、正造の姿が偲ばれる。

田中正造関係地図の脇に、大正2年8月、病床にあった時に、「(見舞いの人々は)田中正造の病気に同情しても、田中正造の問題に同情している人はいない、帰ってもらえ」、と看護の女性に言った、と書かれていた。

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郷土博物館を出て、田中正造生家に向かった。7月の梅雨の合間。曇り空とはいえ、陽射しも明るく、30度を超える猛暑である。札幌暮らしに慣れた私にはこの炎天下を歩くのは厳しく、すぐにぐうの音をあげてしまいそうである。しかも当日は金曜日で、正造翁の生家は休館日(週に3,4日しか開館されない)。たどり着けても、中の資料などを見せてもらうことはできない。

270号線を北上し、菊川町の交差点までも歩けばかなり遠かった。日頃、白石サイクリングロードで鍛えているにしては、すぐに足の裏が痛くなって歩きが苦痛になってきた。

 

 

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237号へ左折。しばらくゆくと右手に榎木の大木と看板を見つけたので、道を渡って行ってみた。堀米地蔵堂。明治2年、正造29歳の時にこの地で手習い塾をしていたとのこと。明治39年、晩年の正造が木下尚江らを案内した当時の写真が看板になって掲げられていた。若き正造が手習いの師匠をしていた時分には「子供の手ほどの」小さな榎の木が、40年近くを経て大木に育っていた。計算すると、今ではさらにそれから104年、上の写真のように立派で元気なまま立っている。虫が食って中が洞になったりはしていないので、まだまだこれから。これからも地域の人々に守られて、そして地域を見守ってゆく榎木。

梅雨の時期とあって道沿いの溝の水は増水している。水は意外ときれいだ。あっと驚いたことには、足元を流れる溝に大きな真鯉が泳いできた。5,60センチはあろうか。増水で池から泳ぎ出てきたものかもしれない。私の田舎の近所の小川でも、梅雨の大水の後はよく、普通には見たこともないような大物が泳いでいたことを思い出す。佐野の237号線沿いの溝はせいぜい幅1メートル程度の小さな流れであるが、よく見ると10cmばかりの緋鯉や、同じぐらいの大きさのフナやコイのような魚が幾匹も元気に泳いでおり、水もきれいで、なかなか豊かな感じである。

足も痛くなり、のども渇いて、ほぼへとへとになりながら、正造翁の旧宅に到着。今度のコースは、余程の健脚か余程の思い入れのある方以外には徒歩では奨められない散歩道と言える。バスなどの公共交通機関も無いわけではないが、数時間に一本なので、時刻表に照らしてうまく往くことができても復路は歩かねばならないだろう。トラックは多く行き交うが、何時間も歩いてもこの街道筋ではバスやタクシーには行き会うことがなかった。私が佐野駅の案内所でもらってきた観光地図には距離が書かれてない。概念的な略図なので、意外と歩けば近いかもしれないという錯覚に陥る場合もあり、このように歩いてみようという無謀も(観光客によっては)やってしまうのかもしれない。ただし、当日は金曜日ということもあり、観光客と言えるような人には一度も一人にも会うことはなかった。

小中町の旧宅。

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ご覧のように小さな民家で、お隣・裏隣のお家も近接している。タクシーが停まる駐車場や観光バスを止めるスペースもない。よって、今回の私のように徒歩でやってくることが推奨され得ないとすると、自転車で訪ねるのがベストと思われる。
生家の道をはさんで向かい側には分骨されたお墓があり、今日も新しい百合の花が生けられていた。97回忌の卒塔婆、その隣にはカツ夫人の74回忌のものが立てかけられてあった。

翁のお墓の隣にあったブランコにすわってゆっくり考える。さて、私は、田中正造のお墓に詣でることはあっても、田中正造の問題に立ち向かうことはない、と正造翁から叱られないだろうか。

私の場合は、私の本業とする医学や生命科学、学問や教育の中でも、多くの人々を苦しめている難題が存在する。それらの問題のどれか本当に大切な問題を見つけ、それに本当に真摯に立ち向かい闘い続けることが、正造翁の遺志に添うことだと思う。私が、がんの治療法の研究を始めて、今年が30年目に当たる。何とか結果が出せるよう、あきらめないで、さらに少しだけでも続けてみたい。

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佐野の郷土博物館で見せてもらった資料によると、渡良瀬川の大洪水の折にも、ここ小中町までは洪水が押し寄せなかったという。洪水が広がったのはここから南側の地域である。次回、もし機会があったら、渡良瀬川流域、谷中方面もできるだけ広範に歩いてみたいと思う。また、足尾の方も訪ねてみたい。健脚とも言えないので、やはり自転車の旅を計画すればよいのだろうか。

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正造翁の旧家を少し先に進むと、増水した濁流の旗川に出た。今回の歩きはここまでということにして引き返す。

途中、人丸神社にもお参り。池の睡蓮が美しかった。これからは諸国の柿ノ本人麿のゆかりの地にも是非足を伸ばしてゆきたいものだ。(去年の7月は太宰府辺りをたっぷり歩くことができた)

帰りは菊川町交差点で237号を直進し、佐野の街の北側を歩いて佐野駅の南口へ。佐野の歩きが5時間にも及び、強行軍であった。(弱音を吐いては、正造翁に叱られそうで、頑張らねば、と思うのだが。) 栃木に着いた頃から雨が降り出し、東武宇都宮線では、雷と大夕立。宇都宮駅前で名物の餃子のお店に入って雨宿り。出てきた頃にはほぼ雨上がり。少し運が良かった。

旅から帰って、着ていたノースリーブの下着を見てみれば、汗が乾いて白い塩の線となり、それが何本も等高線の地図を描いていて、すさまじい発汗量であったことがわかって面白かった。

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以上、2010年7月6日付けWEBページより再掲

 

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怪力乱神を語ろう

 

怪力乱神を語ろう: 肺癌プロジェクト開始

2005年6月24日

先日、DVD版ウルトラQを借りてきて見てみた。ウルトラQは、40年近く前、私も夢中で見ていた数少ない想い出のテレビ番組であり、懐かしの映像をDVDで見られるのかと思ったら、今回のDVDは、驚いたことに完全な新作であった。観ると、実に怖い。現在の東京、現実の風景の中で、怪異の現象が起こり、人は孤独の中で恐れにとらえられ、現実と夢との見分けさえつかなくなってしまう。「らくがき」、「わたしはだれ?」、「顔のない女」など、短い時間に展開されるストーリーなのに、極めて複雑で、実に怖い。

 

ティガ以来、ウルトラマンの造形は極めて美しい。私は、ティガ、ダイナ、ガイア・アグルと続くウルトラマンをすべて観てきている。劇場映画もほとんど欠かさず映画館で観てきた。ムナカタ副隊長・レナ隊員・ダイゴ隊員、など、今もすらすら懐かしく思い出す。私はティガのファンである。(隊長の女性の名前を今、忘れしてしまった。歳はとりたくないものだ。)私は、浅草ロックのウルトラマンのビルにも何度も通い、レアもののバルタン星人なども購入した。(もちろん、プレゼント用である。) さらに、主題歌の最初の和音だけでどのウルトラマンか当てるクイズなどにも参加したので、今でも多くの主題歌を歌える。ガイアの主題歌を道で歌っていて、どうしてそんな古い歌を歌うのかと、たしなめられたこともある。しかし、ガイアの歌詞を知っている方なら、この歌がどんなにいい歌か、先刻ご存じであろう。古いというなら、初代やセブンの歌もちゃんと覚えているので、我ながら不思議である。ただし、私は、特に、高山ガムとガイアのファンである。ガムのような天才科学者であったらどんなにすてきなことか。札幌に移ってきて、コスモスの頃はしばらく遠ざかっていたが、今のネクサスには、非常に熱中している。リコが死んでしまった場面など、コモン君にすっかり同化してしまうのを抑えられなかった。夢の中でうなされて、汗びっしょりで深夜に目覚めてしまった。主人公の恋人が死んでしまうなんて、ウルトラマン40年の歴史の中でも初めてのことではなかろうか? としたら、私が悪夢でうなされるのも当然だ(と思いたい)。明日の土曜日は、恐らく、ネクサスの最終回。レンは助かるのか、ナギ副隊長にどんな恐ろしいことが降りかかるのか、ネクサスとビーストの戦いは最終的にどうなるのか、とても心配だ。

 

ウルトラマンの存在しない現実世界での、ウルトラQの救いようのないサスペンス。これは、本当に怖い。(40年前の)怪獣は塩に弱いナメクジ怪獣だったりしたので、人間だけの手で何とかやっつけられることもあったのだが、もし、もう少し強かったら人類の文明は簡単に滅びてしまう。そうでなくても、日常の何気ないことの中にも、怪異が潜む。逃れようがない。地球に住む私たちは、絶えず不安にさいなまれる。それがウルトラQの世界だ。ウルトラQとウルトラマンの関係がどうなのか、別に詳しい考察を要するが、私の子供のころ、ウルトラQが終わって、そして、ハヤタ隊員と光との遭遇があり、ウルトラマンが始まったのである。ウルトラマンの顔はアルカイック・スマイル、広隆寺の弥勒菩薩像の顔である(注*)。

 

そこで、今日は、何が言いたいかというと、私たちのグループの「肺癌プロジェクト」開始、である。多くの肺癌は、簡単には見つからない。見つかったときにはすでに手遅れである(場合が多い)。なぜか、肺癌による死亡はこの50年でぐんぐん伸びている。喫煙が悪いと知られていながらも、最近も、女性の喫煙は増えてきており、今後も肺癌が増え続けると考えられている。この、忍び寄る、少しずつ増えてゆく日常の恐ろしさが、どことなく「ウルトラQ」の怖さに似ていると思うのである。

 

標的化分子の検出を利用した診断法で肺癌を早期発見し、手術できないものに関しては新しい標的化治療で治す、これが、私たちのストラテジーだ。私たちのグループでもようやくメソッドが確立してきたので、いよいよ肺癌プロジェクトに真剣に取り組んでいきたいと考えている。また10年かかるプロジェクトかもしれないけれど、これから、はじめてゆく。

 

(注*)参考文献: 成田亨 特撮と怪獣 わが造形美術 フィルムアート社 1996年

 

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以上、2005年6月24日付けのWEBページより再掲

 

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