「子ギツネヘレンがのこしたもの」感想文

 

「子ギツネヘレンがのこしたもの(偕成社)」を読んで

 

2005年10月2日

 
私が最近読んだ、竹田津実さんの動物の診療所日記の第2巻。深く感動した本である。

障害を持つもの、物言わぬものに対して、人が何をなすことができるか、何をなしたか、何を理解できるか、何を分かってもらえるか。

人はわがまま勝手なものではあるが、障害を持つものに対して、どれだけ暖かく「なすべきこと」を考えてあげられるか、実際になしてあげられるか。

ただ、これを小学生に理解してもらうのは難しいかもしれない。小学生と言っても経験はさまざまで、上記のような概念(ことば)を押しつけても理解してはもらえないだろう。こどもたちも、人となってゆく過程でさまざまの経験をし、次第に深く物事を考えるように成長してゆくのであるから。

医者や看護師が、職業人として、患者のヘレンに対して「できること」は少ない。できることを行うこと。すべきでないことを行わないこと。また、どのような場合でも医者や看護師は脇役に徹すること。あくまでヘレンと「その家族」が主役であること。ただ、この場合、ヘレンは孤児(みなしご)で、看護に当たる竹田津さんの奥様と竹田津さんとが「家族」として生きなくてはならない。

安易な安楽死は、ヒットラーの殲滅収容所と、意外と近い関係にある。一方で、安楽死をとらないかぎり、できることは極めて限られており、人は優しければ優しいほど、深く悩みながら行動を選んでゆくことになる。が、それが本当の生き方だろう。確信している。そのようなパラドックスの中にだけ、本当の人の生き方があることを。

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さて、ヘレンの障害に関して:
交通事故による脳挫傷や脳内出血では、嗅覚・視覚・聴覚喪失の3重の障害を同時に説明するのは難しいように思う。平衡感覚系統には障害は少なそう。脳神経のVIII番(聴神経)が交通事故などの外傷により両側やられたということはやや考えにくい。症状の記載からは、骨伝導による聴覚がどれほど温存されているか、わからない。もちろん、ヘレンにめまいや耳鳴りがひどかったかどうかも、わからない。ただし、ヘレンの写真を拝見する限り、斜視などは明らかではないので、脳神経でもIII、IV、VIには特に問題なさそう。以上のことから、ヘレンの疾患を考察すると: 両側の中耳炎(局所の細菌感染症)がひどくなって、さらに脳炎へと波及し、脳神経のI(嗅覚)とII(視覚)に傷害を残したか。あるいは内耳組織への自己免疫ないしウイルス感染などで、聴覚を失うとともに、脳神経のIとII両側に炎症ないし感染(脳炎)が波及し、大きな障害を残したか。もとより、私の乏しい臨床経験では、このような難病の患者を診察したことは無い。いつか機会があれば、耳鼻科や眼科、神経内科などの専門の先生にお話を伺ってみたいと思う。

 

以上、2005年10月2日付けのWEBページより再掲

 

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免疫沈降を巡る今昔物語

2004年9月17日

私が癌研の鶴尾隆先生のお部屋に初めて伺ったのは1983年の12月14日。先輩の渡邉俊樹先生のご紹介である。以来、2000年の3月24日まで16年余、癌研での研究生活を送ることとなった。

私にとって、研究の第一歩は、抗癌剤耐性を克服するモノクローン抗体のスクリーニングである。「星の時間」と言えるのは、免疫沈降法(以下、IP)によって抗原決定に成功した瞬間だろう。1985年3月から始めたIP。やっと成功したのは6ヶ月後、9月半ばのことである。その間、大学を退職し医局も離れて、無給なのにアルバイトもせず、生活の全部を打ち込んだ。

学んだこと:自分の手で実験し、失敗し、失敗の原因がなぜか考えて、工夫してやってみて、やはり失敗し、失敗の原因がなぜか考えて、さらに工夫してやってみて、やはり失敗し、、、失敗の連続、、、決してくじけず、、、いや、ほとんどくじけそうになりながらも、、、そして最終的に成功する(に違いないと思って続ける)。これが、研究だ。

20年後、今では、眼の調節の問題から、細かい実験操作は難しくなってしまった。しかし、自分の手を動かす個々の実験が医学研究の根本。若い研究者と一緒に、96ウェルアッセイの生データを見ながら何かをつかむこと、予想が当たったかどうか自分の目で顕微鏡をのぞいて確かめること、そこに科学することのおもしろさを見つけたい。だから(?)昔話を語るのではなく、今を現役で生きることが大切。

そこで、今回は、IPの技術に関して、20年前と今とで、何が変わって何が変わらないか私見を述べてみたい。ただし、IPと一口に言っても、抗原が多岐にわたり実験目的が雑多であれば、ここで論じ尽くせない。20年前に対象となり、今も私のメインプロジェクトである、生きている動物細胞・生体組織の膜表面に結合する新規モノクローン抗体に関して、未知の標的タンパク抗原を同定しようとする場合に限定する。

個々の抗体と膜表面抗原のペアによっては、IPの難しいものが多い。膜タンパクをネイティブな構造のままで可溶化するのが難しく、可溶化によってエピトープの構造が変化し、抗体と抗原がくっつかなくなってしまう。何の工夫も必要なく、最初のトライアルでIPに成功することもある。しかし、どうしても抗原を決められない難しいものもある。予測不能。気まぐれとも言える難しさだ。

1.ウェスタンブロット(WB)法vs免疫沈降(IP)法。

WBが本領発揮するのは、SDSによる変性と電気泳動(SDS-PAGE)で、短時間で抗原の分子量を決定できる場合である。複合体の中のサブユニットを認識する抗体の場合には、IP法では抗原のみならず複数の結合タンパクが落ちてくるが、WB法では抗原分子を選別できる。

一方、WBはSDSで抗原を変性させる操作を伴うため、WBによる検出が不可能な抗体も多い。特に、標的の機能修飾ができる「機能性抗体」は、標的タンパクの高次構造を認識する場合が多く、多くはWB不能である。WB不能の抗体に関しては、特に粘ることなく、IPを工夫してゆくのが得策と考える。

2.タンパクないし細胞のラベル法、検出法。20年前、カーボン14ロイシンでメタボリックラベルした。オートラジオグラフィーを3日目で開け、抗原バンドが得られない場合は、一週間から10日のエクスポージャーで何とか抗原バンドが見えないかと粘った。20年前、IPの繰り返しで6ヶ月の時間を要した。この多くの部分は、オートラののエクスポージャー待ち時間である。待っている間は、(万が一)失敗していたら次はここを改良してみよう、という実験プロトコールの考案に当てた。現在の実験のテンポと比較すれば、ずいぶんのんびりしたスケジュールである。が、失敗が重なると先が真っ暗で焦燥感がつのる。失敗していても次にトライする改良実験を思いつくのが困難である。

蛍光イメージアナライザーが癌研の研究所に導入されたのが、それから数年後のことである。実験のペースは大きく加速した。この時代の流れの中で、カーボン14によるラベルは余りにもペースが遅く、今では免疫沈降の場面で用いられることは稀である。また、現在では、ラジオアイソトープを使う実験自体、非常に少なくなった。現在、私たちはリジンのイプシロンのアミンをビオチンラベルする方法を汎用している。生きた細胞の表面タンパクのリジン残基を極めて簡単にラベルすることができる。ビオチン化によってもエピトープ認識が維持されていることを、FACSなどで確認したうえでIPに取りかかる。

3.膜の可溶化法。20年前、最初に使った可溶化剤がNP40。NP40は、教科書には最もマイルドな可溶化剤と書かれていたので、ファーストチョイスで用いた。が、これがつまずきの始まりであった。ずっと後になって、さまざまの可溶化剤を系統的に調べてみたところ、私が追い求めていたことになる膜12回貫通のP糖タンパクと私の抗体の組み合わせでは、CHAPS、デオキシコレート(DOC)、コレートではIP可能、NP40、nオクチルグルコシドなどではIPできないことが明らかとなった。ABCトランスポーターのATPase活性を可溶化剤ごとに検討したところ、CHAPSではATPase活性が得られたのに対して、DOCでは全く活性が認められなかった。現在の私たちの方針:まず、TritonX100など、代表的な可溶化剤でIPをトライ。これで抗原バンドが得られない場合は、第2段として、先入観無く、各種可溶化剤を(できるだけ多く)トライ。それでも難しい場合には、第3ラインとして、以下の化学架橋を試みる。

4.化学架橋による抗原と抗体の共有結合を利用する免疫沈降。20年前、13回目のIPで、架橋化剤DSPを使用。あらかじめ抗体を細胞に結合させたあと、架橋剤を加えて抗原と抗体を共有結合で結びつける。そのあと、可溶化。この方法では、どんな可溶化剤でも抗原同定可能なので、一種類の可溶化剤を用いる。DSPによって抗体と抗原がリンクされているので、(もともとのエピトープと抗体の結合がはずれてしまうが)IP法によって抗原の分子量を同定することができた。これが、私の最初のIP実験成功。

どんな場合でも架橋は成功するのか? 先日、ピアス社から売り出されている架橋化剤のリストを調べてみた。システインのSH基を利用するもの、糖鎖のCHOを使うものなど、若干数あるが、大多数はリジンのイプシロンのアミンを利用するものだ。従って、基本的には抗体のリジンと抗原のリジンを架橋できるかどうかが、この方法の汎用性を決める。架橋化剤のアームの長さは10オングストローム程度で、選択可能である。残念ながら、アームの長さを変えてさまざまトライした経験はない。

IPに関連して、語りたい話題は多い。プロテインA、プロテインG、プロテインL、どれを使って抗体抗原コンプレックスを落とそうか? 得意としている遺伝子操作によるIgMからIgGへのサブクラスの変換。抗原の同定法としての、ペプチドシークエンサー、質量分析。発現ライブラリーの抗体反応スクリーニングによるcDNAクローニング。抗原が既知のものとわかった場合、どこまで粘るか? 特許出願は? そして、目指すは、抗体の臨床応用。今の自分を眺めてみると、何度トライしても成功しないIP実験で、バンドが現れないオートラのフィルムを洗いながら、赤いぼっとした光のともる暗室の中で一人っきりで沈み込んでいた20年前の自分と、基本的にほとんど同じ研究者を見いだす。20年前に癌研で始めた仕事を今も続けている。次のIPは成功させるぞと、唇を噛みながら。

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以上、2004年9月17日付けのWEBページより再掲
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私は真実を知りたい

 

2012年9月5日 水曜日。

 

藤永さんの今日(注:2012年9月5日)のブログから。去年のリビヤに関するコメントの引用。 <以下引用> 「しかし、今こうして彼らの発言とマスメディアの報道を蒐集保存しておけば、 3年も経たない内に、彼らが正しかったか、それとも、私の悲観的見方が正しかったか、がはっきり分かると思うからです。「それが分かって何になる」という声が聞こえてくるような気がします。その通りです。あと3年、生きているかどうかも全くあやしい私にとっては、尚更のことと言えましょう。けれども、やはり、私は真実を知りたい。生半可な絶望の中に没するよりも、絶望を確認してから死ぬほうが、日本人らしい選択だとは言えませんか?」 <引用終わり>

予定ではデッドリフトの日なのだが、日曜日のスクワットの脚の疲労が抜けず、昨日の夜の頭痛のこともあり、トレーニングの用意を持ってラボをでたものの、バス停に着く頃には今日はデッドを延期して早めにうちに帰って休むことにしてしまった。

会議が延々と3時間も続いていたことも疲労の原因かもしれない。ただし、教授総会と研究科委員会との合間の数分を利用して、持参したホットケーキ3切れとにんじんジュースを廊下の端でぱっぱっと食して、続く長時間の会議に備えることができたので、比較的疲労なく夜を迎えられてはいたのだが。

食料を少しでも用意して、会議の間に食べるようにするとからだが保てそうだ。次回も用意してバッグに詰めて会議に臨むことにしたい。

久しぶりにバーミヤンで夕食。鶏肉とカシューナッツ炒め、エビとホタテと夏野菜のこしょう炒め、それにライス。

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以上、2012年9月5日付けの日記より  2年前のこの頃は単身赴任で八王子に住んでおりました。

 

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四万十川 あつよしの夏

 

少年の成長の物語: 四万十川 あつよしの夏

2005年8月13日

前回に続いて、本の紹介。笹山久三さんの「四万十川 あつよしの夏」河出書房新社 昭和63年。主人公の篤義は小学3年生。生まれた順が早い、とあるから、9歳になったばかり。四万十川、津野川地方の自然に囲まれて、成長してゆく少年の物語である。例によって、私は余分なことをできるだけ語らず、本文から何箇所か書き抜いて紹介したい。

<「あの頃は、泣いたら全部いけんようになって、何もかもおしまいんなる思ちょったがじゃなかっつろうか。・・・・・生活が、そうじゃったがじゃけん」 「兄ちゃん、いっぺんも泣いたことないもんね。オラ弱むしじゃけん、いっつも泣きよる」 「あはっ!・・・・・アツ。人前で泣かんがと、いっぺんも泣かんがとはちがうがぞ・・・・・」 和夫は続けて何か言いかけたが、それで黙った。(同書 82ページ)> 和夫は篤義のお兄さんで、実に、兄らしい兄なのだ。篤義に鰻取りやイダ釣りを教える。喧嘩の指南もする。帰ってこれなくなった篤義を迎えにいく。 <「オラァ、クロを護った時のお前が好きぞ」(同書 136ページ)>と、弟を励ます。頼れる兄。

<「この世の中じゃあ、差別も、いじめものうなるこたああるまい・・(中略)・・確かに、何しても無駄みたいに聞こえるろう。けんど、どうかかわるかが大事ながじゃ思うがよ。大人んなっても、自分の中でじっくり考えて正しい思おたらそうすることよ。まちごうちょる思おたら、ちっとばかっし苦しゅうてもぶつかるとこは、ぶつかるがよ。それ繰り返しよるうちに、世の中を支配した考えから自立できるけん。自分がその努力をせにゃあ、周囲は変えられんけん。子育ても、おんなじよ」(同書 132-133ページ)>・・・これは、一家の食卓を囲んで、お父さんの秀男が、妻と子供たちに語りかけたことば。

<「オラ、なせあんなこと言うたかわからんが」
「アツ君。その分からんとこ、そのまんまにしてええがじゃろか?」
「オラ、いけん思う」(同書168ページ)>  クラスメイトの千代子が着せられた濡れ衣を巡っての、終業式の前日の殴り合いのケンカの後、担任の吉田先生と篤義の会話。

<ぼくは、あのときただやめろいうたら、ケンカんなる思ったがです。
じぶんがとった言うたら、ケンカせんでもやめてもらえる思ったがです。ケンカするががこわかったです。
そのときぼくは、とうちゃんにこうてきてもろうてもどせばええ思いよりました。
じゃけん、じぶんのせいにしたがです。
こすいかんがえじゃ思います。
けんど先生。ぼくは、どうしても、ちよこたすけたかったがです。
よわむしのかんがえでたすけたけん、あんなことになったがおもいます。(同書173ページ)> 夏休み前半でしっかり考えて、担任の先生に宛てて書いた篤義の手紙。

作者の笹山さんの描写は非常に的確であり、短い文章の中に、精密に描き込まれて、成長してゆく少年少女たちも、家族も動物も、そして春から夏の豊かな自然も、生き生きと生きているのである。

ところで、これは余談であるが、私は18歳の春まで津山(岡山県の北部、美作地方)で育ったので、この「四万十川」の文章の方言が、ほぼ完全にわかるのである。四国の津野川地域の方言は、「伊予なまりと、土佐なまりと、中村の影響か、京都弁と、大分の言葉が、複雑に組み合わされたような独特の言葉文化になっている。(同書 166ページ)」とのこと。つまり、美作や備前の方言とは異なるのであるが、基本構造が同じなため、非常に親しみ深くなつかしく感じることばなのである。

さらに余談であるが、私のコンピュータのお馬鹿なこと。ワープロで漢字仮名混じり文にするのに大いに骨が折れた。唯一の救いは上記の「篤義の手紙」の引用であり、漢字が少ないので、ワープロで漢字変換の必要がなく、本当にスムーズであった。きっと、わたしのワープロでは、「どんぐりと山猫」に出てくる山猫の手紙などは、すごい名文だと(機械は勝手に)思うに違いない。そのうち書き写してみよう。

 

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夜と霧のパラドックス

 

2005年8月12日

以前、2005年3月20日付けで「南氷洋の「洋」」と題して、ガラード「世界最悪の旅」を紹介しました。わたしの友人、Aさんが、早速この本を注文購入して読んでくださっている、とのこと。わたし自身、この本からの長い引用をときどき読み返してみています。その後、植村直己の「極北に駆ける」山と渓谷社、2000年(初版は1974年、文藝春秋)、本多勝一の「極限の民族 第一部 カナダ・エスキモー」朝日新聞社、1967年、さらに、フリッチョフ・ナンセンの「極北 フラム号北極漂流記」中公文庫、2002年(原書は1897年刊)など、読み進んでいます。いつか、これらの本についても紹介したいと思っています。

さて、今回は、別ジャンルの二冊の本を紹介します。ともに、非常に重い、深い内容なので、ここでは気軽なタッチの私のコメントを置いたりするのは、差し控え、ただ単純に引用し紹介させていただきたいと思います。私も、折に触れて、これらの本を読み、考え、そして生きていきたいと思います。

以下は、「フランクル著作集1 夜と霧 123ページ みすず書房 1961年。」からの引用です。

「私は彼女の励まし勇気づける眼差しをみる—そしてたとえそこにいなくても—彼女の眼差しは、今や昇りつつある太陽よりももっと私を照らすのであった。」

「夜と霧」では、しばしば逆説的表現(パラドックス)が現れます。以下にいくつかひろってみます。

「人間がそれについて悟性を失う事物というものは存する・・・・・そうでなかったならば、人は失うべき悟性を有しないのだ」とかつて述べたのはヘッベルであったと思う。異常な状況においては異常な反応がまさに正常な行動であるのである。(フランクル著作集1 夜と霧 99ページ みすず書房 1961年。)

元来精神的に高い生活をしていた感じ易い人間は、(略)、収容所生活のかくも困難な外的状況を、苦痛ではあるにせよ、彼等の精神生活にとってそれほど破壊的には、体験しなかった。なぜならば、彼等にとっては、恐ろしい周囲の世界から精神の自由と内的な豊かさへと逃れる道が開かれていたからである。かくして、そしてかくしてのみ繊細な性質の人間がしばしば頑丈な身体の人々よりも、収容所生活をよりよく耐え得たというパラドックスが理解され得るのである。(同書、121ページ。)

収容所では一日の長さは一週間よりも長いと言ったとき、私の仲間はいつも賛成してくれた。(同書、173ページ)

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次に、原爆に関して、家永三郎「戦争責任」 岩波書店、1985年、より以下に引用します。

<バーンスタインは、「われわれは今では、原爆が遺伝的傷害をもたらし、この悪質な遺産をのちの世代に伝えることを知っていますが、1945年にはだれもそのことを知らなかったし、政策決定者層も科学者もそのことを予想せず、警告しませんでした」と言っているけれど、重大な結果をもたらす行為の実行を決断するものは、それによって生じる結果について責任を負わねばならない。もし1945(昭和20)年当時にそれが予見できなかったとしても、あれだけの破壊力を認識できたものにとって、そこまで予見できなかったとすれば、予見できなかったことについて少なくとも重大な過失がある、とされねばならないのではあるまいか(同書、324ページ)。>

戦争責任に関して、家永さんの同書から、以下にいくつか取り上げてみます。

<戦争責任の追及から積極的生産的な効果を導くためにはさらに慎重かつ複眼的な配慮が望ましいと考える。(同書、384ページ)>

<まず自分自身の、たとい戦争に協力しなかったにせよ、不作為の消極的戦争責任への反省から出発することが第一の急務であったとも思われるのである。(中略)戦争責任の問題を真剣にとり上げようとするときに何よりも先に自己の戦争責任の問題にたじろがずに直面することは、そのような没主体的思想彷徨に堕するのを防止するためにも、避けてはならない課題であったのである。(同書、383ページ)>

<日本国憲法が「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」、戦争の放棄と戦力の不保持とを決意したのは、かような「民」のレベルでの「信頼」関係の累積・発展に期待をかける意思の表明であって、「諸国家の公正と信義」を盲信する意味と読んではならないと確信する。地の塩ともいうべき良心の持ち主は、国境と人種とを越えて世界のいずこにも見いだし得るという事実を知ることは、あまりにも非人間的な状況にみたされた世界であるだけに、私たちにとりいっそう大きな救いとなるのである。(同書345ページ)>

「戦争を知らない世代」にも責任はあるか: <それは、世代を異にしていても、同じ日本人としての連続性の上に生きている以上、自分に先行する世代の同胞の行為から生じた責任が自動的に相続されるからである(同書309ページ)。> <国家・民族に所属する一員として世界人類社会に生きているかぎり、国家・民族が集団として担う責任を分担する義務を免れないのは当然ではないか。しかも、個人の独立が強いからこそ、その責任を個人の自発的意志により進んで背負うのである(同書311ページ)。>

家永さんの本から最後の部分を以下に引用します(家永三郎「戦争責任」 401-402ページ、岩波書店、1985年、より引用。)

「ただし、人間の力は有限であるから、どれほど誠実かつ全力を傾けても、必ず目的を達成できるとは限らない。不幸にして核戦争を阻止できず、もはやその「惨禍」を惹き起した責任を問うものも問われるものも地上に存在しない状態が現出しないという保障はない。それにもかかわらず、人が人であるかぎり、相対有限の中でなすべきことをなすことによって相対有限の世界にありながら絶対無限の世界に超出し、時間を超えた永遠の生命を獲得することができるのである。それは形式論理では解くことのできないパラドックスではあるけれど、人の人たるゆえんは、そのようなパラドックスの内にのみ生きるほかないところにある、というのが、ありのままに人の生き方を直視したときに明らかに見えてくる事実(Sache)である。戦争責任は、単なる相対有限の人と人との間で生ずる責任にとどまらず、相対有限の人が絶対無限なるもの(ここでは有神論に立つ「神」に限定して考える必要はない)に対する責任でもあるのである。最悪の事態を想定しても、戦争責任を償うための努力が無に終ることはないとの確信に立ち、そして最悪の事態を回避する選択肢が現に存在する今日、その選択肢を選ぶことを誤らないように、もっとも理性的かつ良心的に努力することが、戦争責任を償おうとするもののとるべき唯一の道として私たちの前に開かれているのである。」

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夜と霧のパラドックス  以上、2005年8月12日 付けのWEBページより再掲

 

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