Maugham, Of Human Bondage, again, 2018.

2018年12月14日 金曜日 ほぼ一日中降り続く激しい雪。 今日のお昼過ぎ、本州からブドウ苗が届いた。最高気温はマイナス3~5℃ぐらい。
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W. Somerset Maugham, Of Human Bondage, 1915 (今私が手にしている紙の本は、Robert Calder 氏のイントロの付いている1992年版のペンギンブックス; 聴いているのは David McCallion 氏ナレーターのオーディオブック2017年版である。)
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・・ If he (=Mr Perkins, the headmaster) had given him (=Philip) one more chance Philip would have changed his mind, but he (=Mr Perkins) seemed to look upon the matter as settled.  ・・・(中略)・・・ His (=Philip) school-days were over, and he was free; but the wild exultation to which he had looked forward at that moment was not there.  He walked round the precincts slowly, and a profound depression seized him.  He wished now that he had not been foolish.  He did not want to go, but he knew he could never bring himself to go to the headmaster and tell him he would stay.  That was a humiliation he could never put upon himself.  He wondered whether he had done right.  He was dissatisfied with himself and with all his circumstances.  He asked himself dully whether whenever you got your way you wished afterwards that you hadn’t.  (Maugham, chapter XXI, ditto)
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補註: precinct のアクセントは頭にくる  /ˈpriː.sɪŋkt/
precinct  noun
UK  /ˈpriː.sɪŋkt/ US  /ˈpriː.sɪŋkt/

precinct noun (SHOPPING AREA)

[ C ] uk a part of a city or a town in which vehicles are not allowed, used for a specialpurpose, such as shopping:
a shopping precinct
a pedestrian precinct
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補註:
アイキャッチ画像は、ゴーギャン。「月と6ペンス」でモームとの関わりも深い。
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上記に引用した「人間の絆」では、主人公のフィリップはパブリックスクールを卒業まであと数ヶ月のところで中退して、ドイツに留学する。順当にオックスフォードに行って聖職者に任命 (ordained) される道を回避する。
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このお話から数十年遅れて、ジョージ・オーウェルも大学には進まないで、ビルマで警察官として過ごす。ちょうどこの「人間の絆」が出版された1915年ころのことかもしれない。
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一方、オックスフォードに進んで素晴らしい教育を受け云々の道を選んだ有名人は数多いが、私のよく読んでいる中では上の写真のドーキンス氏を思いつく。
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一方、蛇足になるかもしれないが、日本の経済学者・宇沢弘文さんは、オックスフォードやケンブリッジにスタッフとして残ることを潔しとせず、日本に帰ってきた。
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秦の趙高、漢の王莽、梁の周異、唐の祿山: 梁の周伊とは誰か?

2018年12月9日 日曜日 雪(M市は大積雪・S市は大した積雪はない)
祇園精舍の鐘の聲、諸行無常の響き有り。沙羅雙樹の花の色、盛者必衰の理を顯す。奢れる人も久しからず、只春の夜の夢の如し。猛き者も終には亡ぬ、偏に風の前の塵に同じ。遠く異朝を訪へば、秦の趙高、漢の王莽、梁の周異、唐の祿山、此れ等は皆、舊主先王の政にも隨わず、樂を極め、諫をも思い入れず、天下の亂む事を悟らず、民閒之愁る所を知ざりしかば、久しからず亡びし者どもなり……— 『平家物語』巻一、一「祇園精舎」
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杉本圭三郎 新版 平家物語(一) 全訳注 講談社学術文庫 2017年(オリジナルは1979〜1991年刊の講談社学術文庫全12巻、今回手にしているのはこれを4冊にまとめたもの)
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「遠く異朝をとぶらへば、秦の趙高、漢の王莽、梁の周伊、唐の禄山」
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梁の周伊 朱异(しゅい)が正しい。梁の武帝の臣、梁滅亡の因を作った。「梁書」に伝がある。(杉本、同書、p19)
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・・この序章は、盛者必衰の理が貫徹する歴史への旺盛な関心を示して物語の世界へ享受者を導入しようとするものであって、哀調を帯びた表現ではあっても、厭世的な無常観のなかに人を誘うものではない。(杉本、同書、p20)
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補註: 朱异(しゅい): 秦の趙高、漢の王莽、唐の禄山の3者は、いわば華々しい有名人(有名臣?)であるが、梁の朱异(しゅい)の方は、彼らと肩を並べるほどの問題があったとは思われないのであるが・・。
ウィキペディアによると・・<以下引用>
朱异(しゅい、中国語: 朱异; ピン音: Zhū Yì、483年 – 549年)は、中国南北朝時代の南朝の政治家、学者。は彦和。は异で、その異字体である「异」の訛字「异」が日本に入って定着した。
呉郡銭唐(現浙江省)の人。寒門の出身だったが広く諸学に通じ、梁の武帝の寵愛を得て頭角を顕わし、やがて国政の枢機に参画して権勢を誇った。548年に北朝の東魏に見切りをつけた侯景が自身の支配する州郡を手土産に梁への帰順を申し出ると、その受け入れをいったんは容認したものの、侯景と梁軍が東魏に大敗すると、手のひらを返して侯景を見捨てて東魏と和平を結ぶことを武帝に勧めた。これが侯景の立場を微妙なものとし、侯景の乱を誘発した。朱异は首都建康防衛の責任者である中領軍であったが、軍の指揮を執ることが出来ず、代わりに侯景と同じ降将であった羊侃の尽力で防衛される有様であった[1]。549年、建康が侯景軍に包囲される中、病死した。享年67。死後、武帝により特例として尚書右僕射を追贈されている。
朱异は武帝が推進した九品官人法の改革と武官の台頭の抑制によって儒教的教養を持つ人材を登用・抜擢しようとする賢才主義によって登用され、長く中書舎人を務めていることからも有能な人物ではあったが、侯景の帰順を巡る彼の判断ミスに加え、武官の台頭を嫌って軍の要職に武官ではない朱异を任じるという武帝の人事・軍事における政策ミスが、梁に致命的な打撃を与えることになった。
<以上、引用終わり>
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ちなみに、以前に梁の武帝・蕭衍(しょうえん)について私のサイトに記載したことがあるので、以下に再掲する:<以下引用>
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魏晋南北朝 梁の武帝・蕭衍(しょうえん)
2016年4月18日 月曜日 曇りときどき小雨
川本芳昭 中華の崩壊と拡大 魏晋南北朝 講談社 中国の歴史05 2005年
江南貴族制社会
社会のあらゆる場面に生まれた下克上の動き: ・・南朝では身分制が強固に存在していたが、にもかかわらず卑しい身分からはい上がろうとする下克上の動きが社会のあらゆる場面で生じていた。・・上に立つものはその下にあるものから発するそうした圧力を陰に陽に受けていた。藩鎮に赴任した皇子たちは、その配下の人々の上昇欲求を受け、究極的には帝位さえも狙うことを求められていたといえるのである。・・当時の史書は、皇帝に取り入って権勢をふるう、そうした人々を恩倖(おんこう)と称している。・・(皇帝が)そのような権力集中を行うとすれば、当然その手足となって働いてくれる人々が必要となる。こうした為政者の欲求と庶民層の台頭とが一致したところに、(劉宋の)文帝のときにもその萌芽が見られなかったわけではないが、孝武帝以降の南朝において顕著に見られる恩倖政治が出現するのである。(川本、同書、p146)
貨幣経済の発展: この恩倖には商人出身であるものや商人と結んだものがかなりいたことがわかる。このような人々の政界進出は、南朝における貨幣経済の発展が大きく関係している。(川本、同書、p147)
梁の建国: 武帝(蕭・・梁の武帝の時代の治世は南朝史上まれに見る安定と平和を享受し、武帝が五〇年近い間、政治を行い得たために、後世、「南朝四百八十寺、多少の楼台煙雨の中」とうたわれるような文化の隆盛がもたらされることになったのである。(川本、同書、p153)
(梁の)武帝が実行した四度の「捨身」: 仏教が中国に根を下ろし得た背景には、四〇〇年にもわたる安定した漢帝国の崩壊を受けて始まった、この魏晋南北朝という動乱の時代の民衆が、それまでの儒教的価値観ではなし得ない自己の救済を、異国の宗教である仏教に求めたからにほかならない。 また、この時代に中国へ移住してきた非漢民族にとっても仏教は、同じ異国に起源をもつ宗教であるだけに、受け入れやすい教えであった。(川本、同書、p159)
武帝の失政: 武帝の政治が放縦に流れ、また、仏教への傾倒がもたらしていた危機は、しかし、武帝の深く認識するところとはならなかった。武帝自身はよき政治を実現している、行っていると固く信じて疑わなかったのである。(川本、同書、p161)
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補注 ウィキペディアによると・・・https://ja.wikipedia.org/wiki/蕭衍
蕭 衍(しょう えん)は、南朝梁の初代皇帝。464年生549年没。
補注 侯景の乱 ウィキペディア「蕭衍」によると・・・
太清2年(548年)、東魏の武将侯景が梁に帰順を申し出てきた。武帝はそれを東魏に対抗する好機と判断し、臣下の反対を押し切って、侯景に援軍を送り河南王に封じた。しかし、東魏と彭城(現在の江蘇省徐州市)で戦った梁軍は大敗し、侯景軍も渦陽(現在の安徽省蒙県)で敗れてしまう。
その後、武帝は侯景に軍を保持したまま梁に投降することを許可するが、やがて侯景は梁室の諸王の連帯の乱れに乗じて叛乱を起こし(侯景の乱(中国語版))、都城の建康を包囲した。以下、ウィキペディアには詳しく記載されている。(略)
補注 「文選」: 武帝の長子、昭明太子(しょうめいたいし)蕭統(しょうとう)によって編まれた。
ウィキペディアによると・・・
『文選』(もんぜん)は、中国南北朝時代、南朝梁の昭明太子によって編纂された詩文集。全30巻[1]。春秋戦国時代から梁までの文学者131名による賦・詩・文章800余りの作品を、37のジャンルに分類して収録する。隋唐以前を代表する文学作品の多くを網羅しており、中国古典文学の研究者にとって必読書とされる。収録作品のみならず、昭明太子自身による序文も六朝時代の文学史論として高く評価される。
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<以上、引用終わり>
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ウィキペディアによると・・・
蕭 衍(しょう えん)は、南朝の初代皇帝。ウィキペディアの画像より引用。
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チャペック わたしはなぜコミュニストでないのか

2018年12月6日 木曜日 曇り
カレル・チャペック いろいろな人たち チャペック・エッセイ集 飯島周・編訳 平凡社ライブラリー90 1995年(原著は1924年など〜)
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チャペック、わたしはなぜコミュニストでないのか 原著は1924年12月4日付け
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わたし自身は、習慣的にこの世を特別にばら色に塗り立てるべきだとは考えていない。しかし、コミュニズムの非人間的な否定と悲劇性に出逢うたびに、それは真実ではない、そのすべてはそんな風に見えない、と怒りに満ちた抗議の叫び声をあげたくなる。・・・(中略)・・・この世には、本当の悪よりもはるかに多くの狭量な考え方がある。それでもここには、人間の世界に滅びの杖をふりかざすことができるようにするよりも、もっと多くの同情と信頼、愛着と善意が存在する。(チャペック、わたしはなぜコミュニストでないのか、同訳書、p237)
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今日の世界は憎しみを必要としていない。必要なのは、善意、自発性、一致と協力である。世界に必要なのは親切な道徳的風土である。当たり前の愛と誠実さがちょっぴりありさえすれば、それでも奇跡を起こせるだろうとわたしは考えている。(チャペック、わたしはなぜコミュニストでないのか、同訳書、p239)
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菅原千恵子 満天の蒼い森 若き日の宮沢賢治

2018年10月7日 日曜日 雨
 
菅原千恵子 満天の蒼い森 若き日の宮沢賢治 角川書店 平成9年(1997年)
 
・・この世では金儲けにだけ精を出し、何一つ自分を変えようとはしないくせにあの世ではしっかり極楽浄土に行こうとする父親の信心とは一体なんなのか。それが父の浄土真宗なのか。(菅原、同書、p129)
 
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・・「トルストイに打ち込んで進学したのは珍しい。」
と賢治がいうと、
「芸術は、大地を相手とした労働から生まれた時、本物となり、本物の芸術だけが文化となって残っていくのではないですか。僕(補註:=保坂嘉内)は農業と芸術の融合を目指したい。」・・・(中略)・・・
 しかし、この保坂嘉内という男は、不思議な男だ。啄木やトルストイを口にしながら、百姓こそ真の芸術の担い手と言ってはばからない。
(菅原、同書、p144)
 
盛岡中学のバルコニーの場面(菅原、同書、p148)
 
補註: 下記のサイトに啄木・賢治の時代の盛岡中学校の写真が載っていた。
啄木・賢治の青春 盛岡中学校
 
 
岩手県立盛岡中学校 『東宮行啓紀念写真帖』より
 
岩手山 『東宮行啓紀念写真帖』より
 
石川啄木『一握の砂』より
 
盛岡(もりをか)の中学校の
露台(バルコン)の
欄干(てすり)に最一度(もいちど)我を倚(よ)らしめ
 
教室の窓より遁(に)げて
ただ一人
かの城址(しろあと)に寝に行きしかな
 
不来方(こずかた)のお城の草に寝ころびて
空に吸はれし
十五(じふご)の心
 
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 ・・どうしても法華経を背負って共に歩きたいという賢治の願いに嘉内は応えられないことを自覚したのだ。法華経から離れることは賢治との仲が完全に遠くなることを意味する。もはや、嘉内が共に進む同志たり得ないことを賢治が知ったらどうなるだろうか。嘉内はとても、それを今言い出す勇気がない。そしてそれを伝えた時のことを想像するのは耐えられない苦しさだった。三月二十二日の日記で、友情の遠くなるのをかみしめていた。(菅原、同書、p286)
 
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 ・・嘉内は叫んだ。
「おれは天上に自分の世界を持たないだけなのだ。おれが命をかけて戦うのは、この汚く貧しく寂しい者達のうごめく、この地上なのだ。おれの神はおれの内にある。」
 なんという自信に満ちた言い方だろう。賢治は完全に打ちのめされ、言葉を失った。(菅原、同書、p296)
 
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 ・・そして、いつもぼんやりとした頭の中に浮かんでくるのは岩手山でふり仰いだ満天の星空だけだった。その下に太古の昔のままに蒼い森が深く連なっている。やがて朝とともに始まる音と光の洪水を前にして、あの時二人の若者は森の静寂さに身をゆだね、何かわからぬ予感にふるえていた。星くずがまるで音をたてているように思われた。乳色に横たわる天の川。賢治は一人呟いた。
 
 あまのがは
 岸の小砂利も見いえるぞ
 底のすなごも見いえるぞ
 いつまで見ても
 見えないものは水ばかり(菅原、同書、p297-298)
 
 
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