チャペック わたしはなぜコミュニストでないのか

2018年12月6日 木曜日 曇り
カレル・チャペック いろいろな人たち チャペック・エッセイ集 飯島周・編訳 平凡社ライブラリー90 1995年(原著は1924年など〜)
##
チャペック、わたしはなぜコミュニストでないのか 原著は1924年12月4日付け
##
わたし自身は、習慣的にこの世を特別にばら色に塗り立てるべきだとは考えていない。しかし、コミュニズムの非人間的な否定と悲劇性に出逢うたびに、それは真実ではない、そのすべてはそんな風に見えない、と怒りに満ちた抗議の叫び声をあげたくなる。・・・(中略)・・・この世には、本当の悪よりもはるかに多くの狭量な考え方がある。それでもここには、人間の世界に滅びの杖をふりかざすことができるようにするよりも、もっと多くの同情と信頼、愛着と善意が存在する。(チャペック、わたしはなぜコミュニストでないのか、同訳書、p237)
##
今日の世界は憎しみを必要としていない。必要なのは、善意、自発性、一致と協力である。世界に必要なのは親切な道徳的風土である。当たり前の愛と誠実さがちょっぴりありさえすれば、それでも奇跡を起こせるだろうとわたしは考えている。(チャペック、わたしはなぜコミュニストでないのか、同訳書、p239)
##
**
*****
********************************************

存在の耐えられない軽さ(クンデラ続き)

2018年2月5日 雪(しんしんと降り続く)

ミラン・クンデラ 存在の耐えられない軽さ 千野栄一訳 集英社 1993年(原書は1984年)

**

息子が親子の間を示す表現を使ったので、トマーシュには突然、この場面では問題なのは政治犯の恩赦でなく、息子との関係なのだと確信した。(クンデラ、同書、p251)

われわれはもう、罪があると感ずることは何かということが分からなくなっています。共産主義者たちはスターリンが自分たちを間違いへと導いたと言い訳をしています。殺人者は母の愛情がなかった、そして、失望させられたと、いい逃れをします。そこへお父さんが言ったのです、言い訳なんて存在しないって。自分の魂にかけて、オイディプースより罪のない人はいません。それなのに彼は何をしたかを知ったとき、自ら自分を罰したのです。(クンデラ、同書、p253)

**

私の小説の人物は、実現しなかった自分自身の可能性である。それだから私はどれも同じように好きだし、私を同じようにぞっとさせる。そのいずれもが、私がただその周囲をめぐっただけの境界を踏み越えている。まさにその踏み越えられた境界(私の「私」なるものがそこで終わる境界)が私を引きつけるのである。その向こう側で初めて小説が問いかける秘密が始まる。小説は著者の告白ではなく、世界という罠の中の人生の研究なのである。(クンデラ、同書、p257)

**

・・今、同じように奇妙な幸福を味わい、あの時と同じ奇妙な悲しみを味わった。その悲しみは、われわれが最後の駅にいることを意味した。その幸福はわれわれが一緒にいることを意味した。悲しみは形態であり、幸福は内容であった。幸福が悲しみの空間をも満たした。(クンデラ、同書、p362)

**

・・ニーチェはデカルトを許してもらうために馬のところに来た。彼の狂気(すなわち人類との決別)は馬に涙を流す瞬間から始まっている。 
 そして、私が好きなのはこのニーチェなのだ、ちょうど死の病にかかった犬(=カレーニン)の頭を膝にのせているテレザを私が好きなように私には両者が並んでいるのが見える。二人は人類が歩を進める「自然の所有者」(補註:創世記の冒頭参照)の道から、退きつつある。(クンデラ、同書、p333)

**

・・人間の時間は輪となって巡ることはなく、直線に沿って前へと走るのである。これが人間が幸福になれない理由である。幸福は繰り返しへの憧れなのだからである。(クンデラ、同書、p343)

*****

********************************************

クンデラ 存在の耐えられない軽さ

2018年1月30日 火曜日 曇り

ミラン・クンデラ 存在の耐えられない軽さ 千野栄一訳 集英社 1993年(原書は1984年)

 自分の住んでいる土地を離れたいと願う人間は幸福ではない。そこでトマーシュはテレザの亡命したいという願いを罪人が判決を受け入れるように受けとめた。その判決に従って、ある日のことトマーシュはテレザとカレーニン(補註:雌犬の名;母はバーナード犬・父はシェパード)と一緒にスイス最大の町(補註:チューリッヒ)に姿をあらわしたのである。(クンデラ、同書、p35)

**

 ・・人間の偉大さというものは、アトラスが自分の双肩に天空を負っているように、自分の運命を担っていることにあるようにわれわれには思われる。ベートーベンの英雄とは形而上的な重さを持ち上げる人なのである。
・・・(中略)・・・
 生徒は誰でも、物理の時間にある学問上の仮説が正しいかどうかを確かめるために実験をすることが可能である。しかし、人間はただ一つの人生を生きるのであるから、仮説を実験で確かめるいかなる可能性も持たず、従って自分の感情に従うべきか否かを知ることがないのである。(クンデラ、同書、p42-43)

**

 トマーシュがチューリッヒからプラハに帰ったとき、自分がテレザと出会ったのは六つのありえない偶然によっているという考えが彼をいやな気分にさせた。
 しかし、ある出来事により多くの偶然が必要であるのは、逆により意義があり、より特権的なことではないであろうか? ・・ただ偶然だけがわれわれに話しかける。それを、ジプシーの女たちがカップの底に残ったコーヒーのかすが作る模様を読むように、読み取ろうと努めるのである。
・・・(中略)・・・
 必然性ではなしに、偶然性に不思議な力が満ち満ちているのである。恋が忘れがたいものであるなら、その最初の瞬間から偶然というものが、アッシジのフランチェスコの肩に鳥が飛んでくるように、つぎつぎと舞い下りてこなければならないのである。 (クンデラ、同書、p58-60)

**

 そこには落下への克服しがたい憧れがあった。たえず繰り返すめまいの中で生きていた。
 ころぶ者は「おこして!」と、いう。トマーシュは彼女を我慢強くおこし続けた。(クンデラ、同書、p73)

**

 人生のドラマというものはいつも重さというメタファーで表現できる。・・・(中略)・・・ 彼女(=サビナ)のドラマは重さのドラマではなく、軽さのであった。サビナに落ちてきたのは重荷ではなく、存在の耐えられない軽さであった。
 これまではそれぞれの裏切りの瞬間が裏切りという新しい冒険に通ずる新しい道を開いたので、彼女を興奮と喜びで満たしてきた。しかし、その道がいつかは終わるとしたらどうしたらいいのか? 人は両親を、夫を、愛を、祖国を裏切ることができるが、もう両親も、夫も、愛も、祖国もないとしたら、何を裏切るのであろうか? (クンデラ、同書、p144)

**

(モンパルナスの墓地で・・)・・その墓地は石に姿を変えられた虚栄であった。墓石の住民たちは(死後ものわかりがよくなるかわりに)生きていたときより愚かになっていた。その連中は自分の石碑に自らの重要性を誇示していた。(クンデラ、同書、p146)

**

 ・・社会の最下層に自発的に降りた瞬間に、警察はその人への権力を失い、その人への興味を失うと、トマーシュは(正しく)判断した。このような条件の下では、彼がどのような声明文を書いても信用する者はおらず、従って印刷することはできないであろう。恥ずべき声明文の公表というものは、そもそもその署名者の地位の昇格と結びつき、降格とは無関係である。(クンデラ、同書、p221)

**

・・有名なベートーベンのモチーフ Es muß sein! (クンデラ、同書、p224)
・・この同じモチーフが一年後にBeethoven String Quartet No 16 Op 135 in F major の第四楽章の基礎となった。

補註: Ludwig van Beethoven – String Quartet No. 16, Op. 135 – From Wikipedia, the free encyclopedia
ウィキペディアによると・・・
The String Quartet No. 16 in F major, op. 135, by Ludwig van Beethoven was written in October 1826[1] and was the last major work he completed. Only the final movement of the Quartet op. 130, written as a replacement for the Große Fuge, was composed later. The op. 135 quartet was premiered by the Schuppanzigh Quartet in March 1828, one year after Beethoven’s death.
The work is on a smaller scale than the other late quartets. Under the introductory slow chords in the last movement Beethoven wrote in the manuscript “Muß es sein?” (Must it be?) to which he responds, with the faster main theme of the movement, “Es muß sein!” (It must be!). The whole movement is headed “Der schwer gefaßte Entschluß” (“The Difficult Decision”).
It is in four movements:
1. Allegretto (F major)
2. Vivace (F major)
3. Lento assai, cantante e tranquillo (D♭ major)
4. “Der schwer gefaßte Entschluß.” Grave, ma non troppo tratto (Muss es sein?) – Allegro (Es muss sein!) – Grave, ma non troppo tratto – Allegro (F major)

**

外科医であることは物の表面を切り開いて、その中に何がかくされているかをみることである。おそらくトマーシュは「Es muss sein!」の向こう側に何があるのか、別のいい方をすれば、人間がそれまで自分の天職とみなしていたものを投げ捨てたとき、人生から何が残るのかを知りたくて、外科医になったのであろう。(クンデラ、同書、p226)

トマーシュはその百万分の一を見出し、とらえたいという強い欲望にとりつかれていた。彼にはここにこそ彼が女に夢中になる理由があるように思える。(クンデラ、同書、p229)

**

*****

********************************************

革命によるカーニバル的転倒の暴力性・非人間性

2017年9月14日 木曜日 降り続く雨(ときに陽射しもあり)

ミハイル・A・ブルガーコフ 犬の心臓 水野忠夫訳 河出書房新社 (原著は1925年に執筆;文学の集いでブルガーコフ自身が朗読、1926年には原稿は押収され、原稿が作者の手元にもどされたのは1930年;初めて活字になったのは1968年・西ドイツ;ソ連国内で公刊されたのは1987年、1989年;日本語の水野訳は、1971年初版、2012年・復刻新版)

**

自然と平行して研究を進める vs 無理に問題をでっちあげる

「・・ぼくはこの五年間、脳から脳下垂体を取り出して、ずっと研究しつづけてきた・・ぼくがどのように仕事をしてきたか、きみはしっているね、想像に絶する仕事だった。そこでいま、きみにたずねるが、それは何のためだったのだ? ある日、可愛らしい一匹の犬を、それこそ身の毛もよだつほどいやらしい人間にしてしまうためだったとは!」
「なにかしら異常なことがあったのです!」
「そう、ぼくはその考えに全面的に賛成だ。それがどうして起こったかといえば、きみ、研究者が自然を感じつつ、自然と平行して研究を進めるかわりに、無理に問題をでっちあげ、カーテンを持ち上げようとしたためなのだ。そのためにシャリコフのようなのができてくるのだ、彼なんか粥に入れて食ってしまえというわけだ」(ブルガーコフ、同訳書、p171)

**

 ここで注意を要するのは、この物語では人間が犬の性格を帯びて野卑になるわけではなく、元来善良と言ってもいい犬に、下品な人間の性格が乗り移るということだろう。(沼野充義、同訳書、解説p218)

「原稿は燃えない」
 このように、「犬の心臓」はソ連社会の不条理をグロテスクに諷刺しただけではなく、笑いを噴出させるようなカーニバル的活力を備えている。だからこそ、いま読んでも、当時のソ連社会の文脈を超えて、新鮮であり続けているのだろう。・・「犬の心臓」は、カーニバル的転倒の芸術的な可能性を十分に活用しているという意味ではカーニバル的文学だが、それと同時に、思想的には革命によるカーニバル的転倒の暴力性・非人間性を批判した「反カーニバル文学」の様相も示すことになる。この作品の奥行きの深さと評価の難しさは、まさにこの二律背反的な課題をブルガーコフが鮮やかに遂行しているということから来ているのではないかと思う。(沼野充義、同訳書、解説p221)

**

補註(ネタバレ注意!) 2017年9月15日
「犬の心臓」が書かれたのと同じような時期に書かれたSF作品として、すでにこのブログでも紹介したことのある「ロボット」、それから「われら」、などを連想する。「ロボット」や「われら」の設定が、テーマが必然的に抱えている本質的に難しい問題(解決不能問題ともいえる)を中心に組み立てられているのに対し、このブルガーコフの「犬の心臓」は、その難題がひょっとすると「なかった」かもしれないような偶然・岐路も可能である。というのは、この小説では、犬に移植された人間の組織(ここでは脳下垂体と性腺)によって犬が人になってしまうのだが、その<イヌ→人>がその時代の人間社会での優等生に成長するという可能性もストーリーとしては十分あり得るからである。その場合には、この小説はすっかり様変わりした方向へ進んでしまう。ならば、この「犬の心臓」が抱えている本質的なストーリーの岐路は、「人を教育によって善へ導けるかどうか」というところへ収束してくる。惨めな生い立ちで厳しい環境を生きてきた俗悪な人といった<イヌ→ヒト>シャリコフが突然に教授の前に現れたとして、このヒト・シャリコフを教授にとって望ましい人・シャリコフへと教育(環境)によって変えられるか否かというテーマである。

「犬の心臓」では、手に負えないほど酷いシャリコフの振る舞いに耐えられなくなって、教授たちは再手術を施してシャリコフをもとのイヌに戻してしまう。もともとイヌだった人間をイヌに戻すだけだから刑法や倫理にとっては難しい課題であるが、それは今は重要な問題ではない。「イヌの心臓」のストーリー展開としては、言葉による教育を放棄して生徒や学生に体罰を加える教師・教授に対応する。あるいは、重い罪を犯した人間に対し死刑を執行する社会に対応するだろう。

おそらくブルガーコフ自身はこの小説で「教育の可能性」などをテーマとしているつもりはなかったと思うので、上記の問題にこれ以上立ち入ることは避けたい。

**

*****

********************************************

ゴーリキー 零落者の群れ

2017年9月2日 土曜日 晴れ

ゴーリキー 零落者の群れ ゴーリキー短編集 上田進・横田瑞穂訳編 岩波文庫 赤627-1 1966年(原訳文は1950年;原作の発表は1894年から1897年)

 死と呼ばれているところの、すべてのものを滅ぼしてしまう神秘な力が、生と死との闘争の暗いおごそかな場面にこの酔っぱらいが登場して来たことに腹をたてて、自分の無情な仕事を一刻も早く片づけてしまおうと決心したらしかった。ーー教師は深い溜息をついて、低い呻き声をもらし、ぶるっと身を震わせたかと思うと、ぴんと手足を突っぱって、息をひきとってしまった。
 大尉は足をふんばって身体をゆらゆらさせながら、まだしゃべりつづけていた。
 ーー酒がのみたけりゃ、もって来てやるぜ。しかし、飲まない方がいいや、なあ、フィリップ・・我慢して、自分にうち克つんだ・・それとも、どうしても飲みたきゃ飲むがいいさ! 正直の話、なんだってそんなに我慢しなきゃならないんだ?・・なんのためによ? え、フィリップ、なんのためによ?
 彼は教師の足をつかんで、ひっぱった。
 ーーおい、フィリップ、お前眠ちまったのか? ・・・(中略)・・・ それぢゃ今夜は、ぐっすり眠ろよ・・死んじまったんでなきゃな・・(ゴーリキー、零落者の群れ、同訳書、p339-340)

**

*****

********************************************