秦の趙高、漢の王莽、梁の周異、唐の祿山: 梁の周伊とは誰か?

2018年12月9日 日曜日 雪(M市は大積雪・S市は大した積雪はない)
祇園精舍の鐘の聲、諸行無常の響き有り。沙羅雙樹の花の色、盛者必衰の理を顯す。奢れる人も久しからず、只春の夜の夢の如し。猛き者も終には亡ぬ、偏に風の前の塵に同じ。遠く異朝を訪へば、秦の趙高、漢の王莽、梁の周異、唐の祿山、此れ等は皆、舊主先王の政にも隨わず、樂を極め、諫をも思い入れず、天下の亂む事を悟らず、民閒之愁る所を知ざりしかば、久しからず亡びし者どもなり……— 『平家物語』巻一、一「祇園精舎」
##
杉本圭三郎 新版 平家物語(一) 全訳注 講談社学術文庫 2017年(オリジナルは1979〜1991年刊の講談社学術文庫全12巻、今回手にしているのはこれを4冊にまとめたもの)
##
「遠く異朝をとぶらへば、秦の趙高、漢の王莽、梁の周伊、唐の禄山」
##
梁の周伊 朱异(しゅい)が正しい。梁の武帝の臣、梁滅亡の因を作った。「梁書」に伝がある。(杉本、同書、p19)
##
・・この序章は、盛者必衰の理が貫徹する歴史への旺盛な関心を示して物語の世界へ享受者を導入しようとするものであって、哀調を帯びた表現ではあっても、厭世的な無常観のなかに人を誘うものではない。(杉本、同書、p20)
**
補註: 朱异(しゅい): 秦の趙高、漢の王莽、唐の禄山の3者は、いわば華々しい有名人(有名臣?)であるが、梁の朱异(しゅい)の方は、彼らと肩を並べるほどの問題があったとは思われないのであるが・・。
ウィキペディアによると・・<以下引用>
朱异(しゅい、中国語: 朱异; ピン音: Zhū Yì、483年 – 549年)は、中国南北朝時代の南朝の政治家、学者。は彦和。は异で、その異字体である「异」の訛字「异」が日本に入って定着した。
呉郡銭唐(現浙江省)の人。寒門の出身だったが広く諸学に通じ、梁の武帝の寵愛を得て頭角を顕わし、やがて国政の枢機に参画して権勢を誇った。548年に北朝の東魏に見切りをつけた侯景が自身の支配する州郡を手土産に梁への帰順を申し出ると、その受け入れをいったんは容認したものの、侯景と梁軍が東魏に大敗すると、手のひらを返して侯景を見捨てて東魏と和平を結ぶことを武帝に勧めた。これが侯景の立場を微妙なものとし、侯景の乱を誘発した。朱异は首都建康防衛の責任者である中領軍であったが、軍の指揮を執ることが出来ず、代わりに侯景と同じ降将であった羊侃の尽力で防衛される有様であった[1]。549年、建康が侯景軍に包囲される中、病死した。享年67。死後、武帝により特例として尚書右僕射を追贈されている。
朱异は武帝が推進した九品官人法の改革と武官の台頭の抑制によって儒教的教養を持つ人材を登用・抜擢しようとする賢才主義によって登用され、長く中書舎人を務めていることからも有能な人物ではあったが、侯景の帰順を巡る彼の判断ミスに加え、武官の台頭を嫌って軍の要職に武官ではない朱异を任じるという武帝の人事・軍事における政策ミスが、梁に致命的な打撃を与えることになった。
<以上、引用終わり>
##
ちなみに、以前に梁の武帝・蕭衍(しょうえん)について私のサイトに記載したことがあるので、以下に再掲する:<以下引用>
##
魏晋南北朝 梁の武帝・蕭衍(しょうえん)
2016年4月18日 月曜日 曇りときどき小雨
川本芳昭 中華の崩壊と拡大 魏晋南北朝 講談社 中国の歴史05 2005年
江南貴族制社会
社会のあらゆる場面に生まれた下克上の動き: ・・南朝では身分制が強固に存在していたが、にもかかわらず卑しい身分からはい上がろうとする下克上の動きが社会のあらゆる場面で生じていた。・・上に立つものはその下にあるものから発するそうした圧力を陰に陽に受けていた。藩鎮に赴任した皇子たちは、その配下の人々の上昇欲求を受け、究極的には帝位さえも狙うことを求められていたといえるのである。・・当時の史書は、皇帝に取り入って権勢をふるう、そうした人々を恩倖(おんこう)と称している。・・(皇帝が)そのような権力集中を行うとすれば、当然その手足となって働いてくれる人々が必要となる。こうした為政者の欲求と庶民層の台頭とが一致したところに、(劉宋の)文帝のときにもその萌芽が見られなかったわけではないが、孝武帝以降の南朝において顕著に見られる恩倖政治が出現するのである。(川本、同書、p146)
貨幣経済の発展: この恩倖には商人出身であるものや商人と結んだものがかなりいたことがわかる。このような人々の政界進出は、南朝における貨幣経済の発展が大きく関係している。(川本、同書、p147)
梁の建国: 武帝(蕭・・梁の武帝の時代の治世は南朝史上まれに見る安定と平和を享受し、武帝が五〇年近い間、政治を行い得たために、後世、「南朝四百八十寺、多少の楼台煙雨の中」とうたわれるような文化の隆盛がもたらされることになったのである。(川本、同書、p153)
(梁の)武帝が実行した四度の「捨身」: 仏教が中国に根を下ろし得た背景には、四〇〇年にもわたる安定した漢帝国の崩壊を受けて始まった、この魏晋南北朝という動乱の時代の民衆が、それまでの儒教的価値観ではなし得ない自己の救済を、異国の宗教である仏教に求めたからにほかならない。 また、この時代に中国へ移住してきた非漢民族にとっても仏教は、同じ異国に起源をもつ宗教であるだけに、受け入れやすい教えであった。(川本、同書、p159)
武帝の失政: 武帝の政治が放縦に流れ、また、仏教への傾倒がもたらしていた危機は、しかし、武帝の深く認識するところとはならなかった。武帝自身はよき政治を実現している、行っていると固く信じて疑わなかったのである。(川本、同書、p161)
*****
補注 ウィキペディアによると・・・https://ja.wikipedia.org/wiki/蕭衍
蕭 衍(しょう えん)は、南朝梁の初代皇帝。464年生549年没。
補注 侯景の乱 ウィキペディア「蕭衍」によると・・・
太清2年(548年)、東魏の武将侯景が梁に帰順を申し出てきた。武帝はそれを東魏に対抗する好機と判断し、臣下の反対を押し切って、侯景に援軍を送り河南王に封じた。しかし、東魏と彭城(現在の江蘇省徐州市)で戦った梁軍は大敗し、侯景軍も渦陽(現在の安徽省蒙県)で敗れてしまう。
その後、武帝は侯景に軍を保持したまま梁に投降することを許可するが、やがて侯景は梁室の諸王の連帯の乱れに乗じて叛乱を起こし(侯景の乱(中国語版))、都城の建康を包囲した。以下、ウィキペディアには詳しく記載されている。(略)
補注 「文選」: 武帝の長子、昭明太子(しょうめいたいし)蕭統(しょうとう)によって編まれた。
ウィキペディアによると・・・
『文選』(もんぜん)は、中国南北朝時代、南朝梁の昭明太子によって編纂された詩文集。全30巻[1]。春秋戦国時代から梁までの文学者131名による賦・詩・文章800余りの作品を、37のジャンルに分類して収録する。隋唐以前を代表する文学作品の多くを網羅しており、中国古典文学の研究者にとって必読書とされる。収録作品のみならず、昭明太子自身による序文も六朝時代の文学史論として高く評価される。
**********
<以上、引用終わり>
##
ウィキペディアによると・・・
蕭 衍(しょう えん)は、南朝の初代皇帝。ウィキペディアの画像より引用。
##

##

##

##
*****
********************************************

源氏物語の中の遊仙窟

2018年8月25日 土曜日 雨(時に激しく降る)
 
雨のため畑仕事はお休み。この春以来中断していた今泉訳本を(Hs大学図書館で借りて)再開、読み進める。
 
今泉忠義 源氏物語 全現代語訳(十九)浮舟・蜻蛉 講談社学術文庫 1978年(今泉忠義氏は1900年愛知県生まれ、1976年没)
 
**
 

続きを読む 源氏物語の中の遊仙窟

日本文化の原点:原住民の倭人の社会と、秦人・漢人の社会との融合

2018年7月3日 火曜日 雨
岡田英弘 倭国の時代 ちくま文庫 2009年(オリジナルは1976年・文藝春秋;さらに1994年・朝日文庫)

間人皇后とその夫・孝徳天皇 続きを読む 日本文化の原点:原住民の倭人の社会と、秦人・漢人の社会との融合

源氏物語・全現代語訳

2018年3月13日 火曜日 小雨

今泉忠義訳 源氏物語・全現代語訳 新装版 講談社学術文庫 1978年(新装版は2001年)

**

夏の雨が静かに降って所在なさを感じる頃・・
御階(きざはし)の脚元(あしもと)の薔薇(そうび)がもう少し咲き初(そ)めて、却って春秋の花盛りの頃よりも、落ちついた趣のある頃なので、皆くつろいで合奏をなさる。 (今泉訳、同書第二巻 賢木 p93)

補註:
ユリと並んで、バラの花が描かれる。この頃も愛されていたのだ。白の一重の清楚な野バラの花を思い浮かべるが、ひょっとしたら薄ピンクのバラも植えられていたかもしれない。

ウェブ辞書によると・・ そう‐び〔サウ‐〕【×薔×薇】
1 バラ。バラの花。しょうび。《季 夏》
2 襲(かさね)の色目の名。表は紅、裏は紫。

**

内侍(ないしのかみ): ウェブ辞書によると・・ ないし【内侍】
① 律令制で、内侍司の職員である尚侍(ないしのかみ)・典侍(ないしのすけ)・掌侍(ないしのじよう)の総称。本来は天皇の日常生活に供奉ぐぶする女官であるが、平安中期には、妃・夫人・嬪ひんら天皇の「妾」に代わる存在となり、また、単に内侍といえば、掌侍をさし、その筆頭者を勾当こうとうの内侍と呼ぶようになる。
② 斎宮寮の女官の一。他に女別当・宣旨せんじが知られる。
③ 安芸国厳島いつくしま神社に仕える巫女みこ。

**

琴の琴(きんのこと)(今泉訳・同書第二巻・明石p228)

補註:琴の琴とは?
ウィキペディアによると・・・
箏(そう)は、日本の伝統楽器。十三本の糸を有するが、十七絃箏など種々の多絃箏がある。箏は一面、二面(いちめん、にめん)と数える。弦楽器のツィター属に分類される。
一般的に、「箏(こと)」と呼ばれ、「琴(きん)」の字を当てることもあるが、「箏」と「琴」は別の楽器である。最大の違いは、箏は柱(じ)と呼ばれる可動式の支柱で弦の音程を調節するのに対し、琴は柱が無く弦を押さえる場所で音程を決める。ただし、箏の柱(箏の駒)は「琴柱」とするのが一般的で(商品名も琴柱)、箏の台は琴台(きんだい)と必ず琴の字を使う。

琴(きん、こと)とは、日本の伝統楽器。日本で「こと」と呼ばれる楽器は、(1)琴(きん)、(2)箏(そう)、(3)和琴 (わごん)、(4) 一絃琴(須磨琴)、(5) 二絃琴 (八雲琴) がある。
(1)琴(きん)と(2)箏(そう)は混同されることがあるが、両者の違いは、(1)琴は弦を押さえる場所で音程を決める(和琴は柱を使う)。(2)箏は柱(じ)と呼ばれる可動式の支柱で弦の音程を調節する。いずれも、指にはめた爪(ピック)または指(あるいは手の爪)で弦を弾いて音を出す。[1]

和琴とは別に、奈良時代に渡来した「琴」(きんのこと)は中国宮廷内の祭祀にまつわる楽器として、弦楽器(古代日本では、人間が息を吹き込まねば演奏できない管楽器よりも高尚なものとされた。当時弦楽器はすべて「○○のこと」と呼び習わされる)の中でも重要視されていたらしい。平安時代の『うつほ物語』では琴の伝授が物語の主軸の一つであり、また『源氏物語』にも登場するが、醍醐天皇~村上天皇の治世がモデルと推測される作中世界においても「琴のこと」の奏者は少数しか登場しないなど、早くに廃れていたことが解る。ちなみに源氏物語に登場する奏者は、主人公で臣籍降下した皇子光源氏やその弟の蛍兵部卿宮・宇治八の宮、また源氏の妻の内親王女三宮とその子薫、常陸宮の娘末摘花、明石の御方(母が中務宮の孫)など、多くが皇族または皇室に深いかかわりを持つ人物である。

琴という言葉  このように、元来、和語(大和言葉)の「こと」という言葉は、現在の和琴の元となった弥生時代以来の「こと」から発して、奈良時代以降大陸から多数の弦楽器が渡来したとき、それら弦楽器全般を総称する言葉ともなった。この「琴」という字を「こと」と訓じ、「箏」の字が常用漢字で無いことから「箏のこと」で用いる柱を琴柱(ことじ)と言ったり、箏の台のことを琴台(きんだい)と言ったり、箏曲を教える人が広告などに「琴曲教授」と書いていたり、「福山琴」の商標登録[5]に見られるように言葉の使われ方に多少の混乱がある。例えば、『源氏物語』などの古文では、「琴」は、この項で説明している琴(きん)のほかに、箏、琵琶などすべての撥弦楽器を指している。このことは、明治時代に日本に新しい楽器が入ってきた際に、洋琴(ピアノ)、風琴(オルガン)、手風琴(アコーディオン)、自鳴琴(オルゴール)、提琴(ヴァイオリン)などと呼ばれていたことからも伺い知ることができる。<以上、ウィキペディアより引用終わり>

**

 相手の女が、気の置けそうな人柄にも感じられるにつけ・・(同訳書第二巻、明石、p238)
 逢った源氏の気持ちでは、この女君(おんなぎみ)、人柄もいかにも品があり、背が高く、気の置ける感じの女だった。(同訳書、明石、p252)

補註: 気の置ける 
 気が置ける [1]何となくうちとけられない。遠慮される。 [2]気にかかる。気になる。
文化庁のウェブサイトによると・・
http://www.bunka.go.jp/pr/publish/bunkachou_geppou/2011_12/series_09/series_09.html
 「気が置けない」は,本来「気を遣う必要がない」という意味の言葉です。しかし,「あの人は気が置けないから気を付けてね。」などという言い方を聞くことがあります。平成18年度の「国語に関する世論調査」では,この言葉を本来とは反対の意味に理解している人が多いことが分かりました。
* 問1 「気が置けない」という言葉の本来の意味を教えてください。
* 答 「気が置けない」とは,「気が許せる」,つまり,「遠慮や気遣いをする必要がない」という意味です。
まず,「気が置ける」という言葉を辞書で調べてみましょう。
・「日本国語大辞典」第2版(平成14年 小学館)
 気が置ける [1]何となくうちとけられない。遠慮される。 →気の置けない [2]気にかかる。気になる。
 このとおり「気が置ける」とは,誰かに対して気が許せないときに用いる言葉です。次に「気が置けない」を見てみましょう。
・「日本国語大辞典」第2版(平成14年 小学館)
 気の置けない  相手に気づまりや遠慮を感じさせないさまをいう。
・「大辞林」(平成18年 三省堂)
気が置けない 気遣いする必要がない。遠慮がない。「―ない仲間どうし」〔気が許せない,油断できない意で用いるのは誤り〕
 「気が置けない(気の置けない)」は「気が置ける」の反対ですから,「気遣いの必要がない」「遠慮がいらない」という意味になります。「大辞林」は「気が許せない,油断できない」という意味で使うのは誤りであることをわざわざ指摘しています。
森鷗外は,「気が置ける」と「気が置けない」をペアで用いていますが,最近は,「気が置けない」という言葉だけが使われる傾向があります。「気が置けない」は,好ましくない状態である「気が置ける」を打ち消して,好ましい状態を示している言葉です。 <以上、文化庁のウェブサイトより引用終わり>

**

源氏は、なるほどこれは鼻毛の長さがわかるなと、驚いた気持ちでご覧になる。(今泉訳、明石、p239)
補註 鼻毛の長い: ウェブ情報によると・・
女の色香に迷い、だらしなくなっている。「―・い酔客」

*****

********************************************

難波なる長柄の橋もつくるなり今はわが身を何にたとへん

2018年3月1日 朝からしっかりとした雪、午後になってもしんしんと降り続く

丸谷才一 輝く日の宮 講談社文庫 2006年(2003年に単行本として発行)

丸谷才一さんの「輝く日の宮」読了。モームのメリーゴーラウンドやオーウェルのアスピディストラ(オリヅルラン)などを読み終えた次なので、男女の仲という視点からは気楽というか平穏な結末の小説を読み通すことは、私の気持ちに気分転換と若干の安らぎを与えてくれることとなった。

この小説の登場人物たちは、いわゆる現代日本社会における上流、オーウェル流に区分けするなら9段階の上から3番目、上の下の品格に相当する(と思われる)。たとえば主人公・安佐子は大学教授の娘であり、父から東京品川にマンションを買ってもらっている。彼女自身は国文学の研究者で大学の専任講師から准教授に昇進した。行く末は学部長や学長を歴任することであろう。その兄は日銀で出世コース、作中ではロンドンに赴任してから昇進して帰国する。主人公・安佐子の前夫は大学の若手研究者、離婚後の愛人は同業の大学准教授、次いで一部上場企業の部長(作中で社長に昇進する)である。これらの男たちとも文通などによる付き合いは続けられ、決定的決裂はないのである。

人間の絆・メリーゴーラウンドやアスピディストラでの男女間のどろどろの葛藤や出口のない生き地獄・悲惨な不幸はこの安佐子ワールドとは別世界のものである。

さて、この小説は語りの視点その他、大変面白い構造にもなっている。その上に、細部に至るまで様々な工夫が織り込まれていて、楽しめるものであった。

たとえば・・

文学と史学との学際的研究(丸谷、同書、p62-69参照):
古今集・巻第十九(1051番)

難波(なには)なる長柄(ながら)の橋もつくるなり今はわが身を何にたとへん  伊勢

補註 「作るなり」か「尽くるなり」か?(丸谷、同書、p63)
「男もすなる日記といふものを女もしてみむとてするなり」ーー高校一年生の国語の時間に習う「土佐日記」の出だしの句が浮かぶ。伝聞の「なり」は終止形に付き、断定の「なり」には連体形に付く。45年前に習った文法知識だ。よく覚えている。私の古典の先生・三村先生の口調までが脳裡に浮かぶ。だから恐らく、丸谷さんの小説のこの部分は高校生から老人まで、古典を愛する日本人のほとんどの人が楽しめる。

でも、さらりと読み飛ばさないで、私も少し考えてみたい。

北畠親房や賀茂真淵がこんな文法問題で間違う(丸谷、同書、p64)ということがありうるだろうか? 賀茂真淵の時代にはこのような動詞の活用形に関する文法がなくなり、古典文法知識が曖昧になっていたのだろうか? そんなバカな・・それは到底、考えられない。だから、意見が分かれているとしたら、相応の理由があるはずである。安佐子が本文中で論じたような簡単な文法問題で白黒付けられるはずはなかったと推定される。

おそらく、賀茂真淵は、「尽く」の連体形+(伝聞ではなく)断定の助動詞「なり」としたのである。

ネットで調べてみると・・
http://www.milord-club.com/Kokin/uta1051.htm 古今和歌集の部屋 > 巻十九
この歌の “つくる” は 「尽くる」と見る説もあり、その場合 「尽く」の連体形+断定の助動詞「なり」ということになるが、一般的には、仮名序に 「今は富士の山も煙たたずなり、長柄の橋も造るなり、と聞く人は歌にのみぞ心をなぐさめける」とある二つの 「なり」は終止形につく伝聞の助動詞「なり」であることから、この歌の 「つくるなり」も 「造るという」ということであるとされている。
・・・(中略)・・・
秋成の友人の桑名雅言(まさのり)が 「伊勢集」にこの歌の詞書として 「長柄の橋つくると聞きて」とあることを元に 「作る」ではないかと(契沖「余材」と同じように)言っていることを紹介した後、「...又思ふにつくるはくつるとありしを転倒して写なせしにもやともおもはるゝ也尽る也といふは今少おちゐぬやうにおぼゆかし」と、「つくる」は 「くつる」の写し間違いかも、という説を述べている。以上、引用終わり。

補註つづき 古今集の仮名序の著者(紀貫之ら)は「造る」として伝聞の助動詞「なり」と考えていたようだ。桑名雅言(まさのり)のつくる」は 「くつる」の写し間違いかも、という説は、新説であるが、あり得ないことではなく、第3の仮説として挙げてよいだろう。

さらにウェブで調べてみると・・
https://ameblo.jp/muridai80/entry-11436913251.html
驚いたことに、『伊勢集全釈』(唯一の信頼できる解説書でしょうか)のこの歌の題詞は「長柄の橋つくるを聞きて」でした。この「つくるを聞きて」とある、「を」と、『新編日本古典文学全集』の「と」とは大きく異なります。「と」であれば、その上接語は「終止形」となりますが、「を」だと「連体形」になります。そして、「連体形」だと、「作る」(四段活用)の連体形も「つくる」であり、「盡く」(上二段活用)の連体形も「つくる」となり、どちらとも決めることが出来ません。「と」と、「を」のどちらが原文かを決定できない限り、この「つくる」が「作る」か、「盡くる」かを文法的に決めることは出来ないというのが私の結論です。・・・(中略)・・・
 ただ、史実に即しての結論は『輝く日の宮』に出てきます。そして、『輝く日の宮』の主人公、杉安佐子の結論とは異なり、その本文中に出てくる、史実が明らかにしたとある、「盡くる」説に私の気持は傾いています。

以上、ウェブサイト https://ameblo.jp/muridai80/entry-11436913251.html
『輝く日の宮』を再読して(4) より引用終わり。

補註つづき・・ということで、伊勢集の題詞で、「と」と「を」のどちらが原文かを決定するのが一番大事なポイントになっていることがわかった。原典や写本などにアプローチできる研究者にお任せする課題であろう。さて、丸谷さんの本文中(p64)に出てくる、史実が明らかにしたとある、「盡くる」説に関して、この歌の作者である伊勢の年齢など、実は難しい問題を多く残していそうである。丸谷さんは、これらの論議を十分に調べた上で、それでも小説の中では不十分なところをわざと残しておいたのではないか、等々、興味は尽きないのである。

補註: また、伊勢の歌には本歌がある。

ウェブ情報によると・・名歌鑑賞 2083 より<以下引用> 
https://blogs.yahoo.co.jp/sakuramitih26/62547079.html
本歌です。
世の中に ふりぬるものは 津の国の 長柄の橋と
我となりけり            
           詠人知らず(古今和歌集・890)
(よのなかに ふりぬるものは つのくにの ながらの
 はしと われとなりけり)
長柄の橋=淀川の支流の長良川にかかる橋。
     洪水で流されて修理が繰り返されていた。
以上、引用終わり。

補註つづき 長柄の橋の「長柄」は「ながら」と読む。ながら(長良・長柄)川に架かる橋なのである。この小説で、安佐子の愛人となる「水のアクア」の部長の名前は長良(ながら)さん、そしてその会社の会長は橋本さん・・「長柄の橋」が前触れの幽霊のような役柄で働いている。遅ればせながら気がついた。小説の中では偶然となっているが、作者の構想のなかではすでに予定されていた人物名であったろう。
 安佐子が長良に初めて会ったときにも、長柄の橋vs長良豊という名前からくる既視感(デジャビュ)に不思議なものを感じたことは十分にあり得る。
 ・・とうわけで、細部を取ってみただけでもなかなか面白い。こんな読み方もまた文学の楽しみ方かもしれない。

**

********************************************