Janeite vs Anti-Janeite

ジェーン・オースティン: Janeite vs Anti-Janeite

2015年1月11日 日曜日 追記

調べてみると、私が見たことのあるオースティン映画は、『Sense and Sensibility(いつか晴れた日に)』 監督:アン・リー 出演:エマ・トンプソン 1995年 のようだ。主演のエマ・トンプソンは脚本も担当したとのこと。彼女の演技も素敵、そして舞台も風景も実に洗練されていて美しかった。
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ネットで簡単に調べてみただけで、 「Jane Austenは写実の泰斗なり。平凡にして活躍せる文字を草して技神に入る」 (夏目漱石『文学論』) という漱石からの引用も見つかった。

以下は引用(読み継がれる文学作品~ある女流作家の場合  Julius_caesar2 さんのブログより引用) http://blog.livedoor.jp/julius_caesar2/archives/55096938.html   「Jane Austen は写実の泰斗なり。平凡にして活躍せる文字を草して技神に入るの点において、優に鬚眉の大家を凌ぐ。余いふ。Austen を賞翫する能はざるものは遂に写実の妙味を解し能はざるものなりと。」  (夏目漱石『文学論(下)』 (岩波文庫)第四編 第七章 写実法 P.167)  「たしかに彼女の世界は限られていて、彼女がとりあつかっているのは、田園紳士、牧師、中産階級の人びと、といったごく狭い世界であるにすぎない。しかし、彼女ほど、人間を見る鋭い目をもった者が、これまでほかにあったろうか。彼女以上に、細かい心づかいと慎重な分別とをもって、人間の心の奥底に探りをいれた者が、ほかにあったろうか。」  (W.S.モーム 著/西川正身 訳 (岩波文庫) P.54)  (中略) こうしたJaneite (オースティン好き)がいる一方、アンチ・オースティンも確かに存在する。オースティン嫌いの存在を黙殺することはフェアでないと思うし、作品理解のためにはそうした意見に耳を傾けることも有益であると考えるので、ここに二人ほど紹介しておく。「『高慢と偏見』を読むたびに、オースティンの墓から骨を掘り出して、その頭蓋骨を脛の骨でぶったたいてやりたい」 (マーク・トウェイン)  「オースティンはイギリス人だ、悪い、卑しい、俗物的な意味で」(D.H.ロレンス)  以上、http://blog.livedoor.jp/julius_caesar2/archives/55096938.html より、引用。

漱石もモームも、そしてマーク・トウェインもDHロレンスも、4人とも私が10代の頃から今に至るまで読み続けてきた作家である。私は4人とも好きで、いろいろな時期に大きな影響を受けてきた。私はこの4人をいくらかでも知っているつもりなので、オースティンをそれぞれこんな風に評するのは実に良く理解できる。そして、オースティンに対する今の私の気持ちは、この2つの対極の間で大きく揺れてしまうのだ。

実は今回、Jane Austen and consumerism というタイトルでエッセイを書いてみたのだが、私自身の考えが未熟で上手にまとまらず、満足のゆく文章にならなかった。そのため、今回はその導入部分だけを公開させていただいた。導入部はJaneite (オースティン好き)の私。後の部分はゆっくり、いずれ考えを深めていった上でいつか書き直して仕上げたいと考えている。

4冊目も読むかどうかは、現在考慮中。

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ザミャーチン われら

2015年1月15日 木曜日

ザミャーチン われら 川端香男里訳 講談社文庫 1975年  (もとは講談社の海外秀作シリーズとして1970年に刊行) 読了。

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原作は1920-1921年頃(ザミャーチン36歳頃)に書かれ、筆写されて人々の間に流布され、1924年にはザミャーチン自身が全ロシア作家同盟の会合で朗読し、作家の仲間うちではよく知られた作品となっていた。1924年に英訳、1927年にチェック訳、ついでプラハの亡命者系の雑誌「ロシアの意思」にロシア語で発表された。・・・ロシア語で発表したことはソビエト当局に対する公然たる挑戦であるということにされ、一斉に攻撃を受けることになった。(同書、解説p313より引用)

この作品は社会学主流のSFのうちの「もしもこれがこのまま続いたら」タイプの作品である。(ditto, p317)

数学と秩序が大いなる調和と幸福をもたらしているこの国を熱烈に愛している技師D-503号は、一人の女性への愛に惹かれてこの国の反乱計画と関係をもつことになっていく。それはまだ自由の余地が「革命」後、千年もたってもまだ残されていて、まだ完全ではなかったためなのである。やがて自由といういらざる幻想を生む想像力の摘出手術が人々に行われ、やがてより完全な国が生まれることになる。  この作品についてはザミャーチン自身が、「この小説は人類をおびやかしている二重の危険ーーーつまり機械の異常に発達した力と国家の異常に発達した力ーーーに対する警告である」と語っている。・・・・このままでは必然的にやって来てしまうユートピア(つまり、アンチユートピア)の否定的側面を見事に結晶させた最初の作品としての栄誉はザミャーチンに属する。(ditto, p318)

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この本を読んだきっかけ: 西谷修さんの「夜の鼓動にふれる 戦争論講義」で紹介推薦されていたのがきっかけ。

引き込まれるようにして読み進んでいった。が、十分に理解できているか? 「映画的なフラッシュバックや、地の描写の部分ときわだった対照をなして浮きあがってくる表現主義風のグロテスクな会話・・・心象風景が自然描写と一体となり、登場人物の無意識の衝動の描写が時としては超現実主義的次元へと移ってゆく・・・このような手法はいずれも`われら`のなかでも用いられることとなる。」(ditto, p310) この小説を翻訳で一度読んだだけで十分に理解することは不可能だと感じる。

それでもこの作家は魅力的でもう一度、また、もっと別の作品も読んでみたいと思う。ところが、日本語への翻訳というとほとんどなさそうなのである。何とか掘り返して進んでみたいと思うが。

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wikiで調べてみると: エヴゲーニイ・イワーノヴィチ・ザミャーチン(ロシア語:Евге́ний Ива́нович Замя́тин, 1884年2月1日 – 1937年3月10日)は、ロシアの作家。ソ連文学界は、文学史からも、彼と代表作『われら』の存在を、忌むべきレーニン批判の反革命作家・小説として完全に抹殺していたがペレストロイカ以降、再評価されるようになった。wikiより引用。

さらに孫引きすると: Yevgeny Ivanovich Zamyatin (1884-1937) – name also written Evgenii Ivanovich Zamiatin

http://www.kirjasto.sci.fi/zamyatin.htm より <以下、WEBサイトより引用>

Russian novelist, playwright, short story writer, and essayist, whose famous anti-utopia My (1924, We) prefigured Aldous Huxley’s Brave New World (1932), and inspired George Orwell’s 1984 (1949). The book was considered a “malicious slander on socialism” in the Soviet Union, and it was not until 1988 when Zamyatin was rehabilitated. In the English-speaking world My has appeared in several translations.   ”And then, just the way it was this morning in the hangar, I saw again, as though right then for the first time in my life, I saw everything: the unalterably straight streets, the sparkling glass of the sidewalks, the divine parallelepipeds of the transparent dwellings, the squared harmony of our gray-blue ranks. And so I felt that I ? not generations of people, but I myself ? I had conquered the old God and the old life, I myself had created all this, and I’m like a tower, I’m afraid to move my elbow for fear of shattering the walls, the cupolas, the machines…” (in We, tr. Clarence Brown, 1993)

さらに引用すると

We, completed in 1921, was the only full-length novel Zamyatin wrote. Extracts from the original text were published in an *igre journal in Prague in 1927. In Russia We circulated in manuscripts. At an imaginative level, claims the author Martin Seymour-Smith in The 100 Most Influential Books Ever Written (1998), We is “far above even Nineteen Eighty-Four”. Besides Orwell, We inspired Huxley’s Brave New World, although the latter writer did not acknowledge this fact. The first English translation was published in 1924, in the 1970s appeared two translations, and also in the 1990s, when the Soviet Union collapsed. Orwell got in his hands a French translation, entitled Nous Autres, not the American edition from 1924. In his review in Tribune (4 January, 1946) Orwell wrote: “So far as I can judge it is not a book of the first order, but it is certainly an unusual one, and it is astonishing that no English publisher has been enterprising enough to reissue it.” Orwell urged Fredric Warburg to publish the work.

講談社版の川端香男里さんの解説でも上記パラグラフとほぼ同様の記載がなされている。

さらに引用を続けると:

The story is set in the twenty-sixth century A.D. in a totalitarian, standardized One State of the future. Its dictator is the all-powerful “Benefactor,” who offers the citizens, called Numbers, security and material affluence but not freedom. All the citizens wear identical grey-blue unifiorms with bandages bearing their numbers. There is no freedom, because freedom and crime are closely connected: “If man’s freedom is nil, he commits no crimes.” Special guardians spy upon the behaviour and morals of the numbers. The narrator, D-503, is an engineer and chief mathematician of the state, who fully accepts the total control and rationality of the mechanized and centralized state. He is terminating the construction of an interplanetary vessel and begins to write notes for the inhabitants of other planets. However, his observations in his diary reveal a huge* between the reality and his orthodox view of it: “And the what a sky! Blue, unsullied by a single cloud (what primitive tastes of the ancients must have had if their poets were inspired by those absurd, untidy clumps of mist, idiotically jostling one another about). I love – and I am sure I am right in saying we love – only such a sky as this one: sterile and immaculate. On days like this the whole world seems to have been cast of the same immovable and everlasting glass as the Green Wall, as all of our structures. On days like this you can see into the deep blue depth of things, you see their hitherto unsuspected, astonishing equations – you see this in the most ordinary, the most everyday things.”

*huge という単語には名詞的用法はないので、この後ろにあった言葉が欠落していると思われる。とりあえず、gap, discrepancy, contradiction・・・などの言葉を補って意味をとっておきたい。

さらに引用を続ける:

D-503 falls in love with I-330, a member of a revolutionary group, but their love is doomed. The caretaker of D’s house makes a report to the guardians. Like in 1984, love is destroyed by the totalitarian system. D-503 becomes again the faithful servant of the One State when his imagination is removed in the Great Operation. I-330 and other revolutionaries are subjected to torture and sent to the modern improved guillotine. Though Zamyatin’s target in We was not the NEP Period in early Soviet history, but a highly rationalized industrial society, the book was also a prophecy of Stalinism. As Gleb Struve said in 25 Years of Soviet Russian Literature: 1918-1943, “It is obvious that in this institution of guardians the Communist Government should see a satire of certain of its own methods.” Zamyatin’s vision of a rule-dominated society owes much to his experiences in war-time Britain.

<以上、http://www.kirjasto.sci.fi/zamyatin.htm より、引用終わり>

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オースティン: 素敵なマッチメイカー!

2015年1月7日 水曜日

A. オースティン、素敵なマッチメイカー!

オースティンを読むのは面白い。今を去ることちょうど200年、19世紀初頭、ロンドン郊外の田舎町で小さな貴族の適齢期の娘さんの繰り広げるドタバタが、読者を飽きさせない軽妙なタッチで描かれる。いろいろな出来事、微妙な心理の紆余曲折の末、最終的には主人公は素敵な貴族(新興の場合もあれば昔からの貴族の場合もある)と結ばれて終わる。つまり、ハッピーエンドの定型であり、読者を不安に陥れたりがっかりさせることがない。安心して読み進められるファミリードラマである。そして主人公は才気溢れ賢い。ささやかながら多くの美徳を備えた可愛い明るい女性である。きっとオースティン自身がそんな才気煥発の明るい女性だったのだろう。映画化されてもしっくりとくる。映画ではイギリスを舞台とした風景・室内装飾・衣装も美しく、心理描写・俳優さんの演技も含めてきわめて上質で面白い。これほど楽しい読書時間を過ごせる作品を何冊も残してくれたオースティンはストーリーテラーとして卓越している。「続・明暗」の作者の水村美苗さんも、そのあとがきかどこかでオースティンを読むのが特別大好きだとおっしゃっていた。ほとんどの読者は同じ感慨を抱かれるのではないだろうか。

19世紀初頭のイギリス、すなわちオースティンの世界では女性は商売に主体的にたずさわることも軍隊で闘うこともできなかった。だから、自分の価値を今よりも高めること、すなわち成功とハッピーエンド達成できるのは、自分以上に価値の高い男性と結婚するという手段によってだけである。従って物語り全体がこの成功した結婚という目標に向かって突きすすんでゆく。仲人・マッチメイカー matchmaker 小説である。オースティンは闊達有能なマッチメイカーとして大活躍である。すばらしい善男善女のカップルの仲を取り持ってくれた作者には、最後のページまで読んだところで喝采を捧げたい。

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オースティン本は三冊を読んだ。どれも似ていてしかもそれぞれ面白い。主人公や登場する脇役の女性たちがだれと結婚するか、最初からは明かされない。が、登場する女性たちの中でも一番魅力的かつ価値ある主人公が、登場する男性のなかで総合的にみて一番価値の高い独身男性と結婚することになるに決まっている。その予想を持って描写される価値を足し算引き算しながら読み進んでゆくと(少なくとも私が読んだ三冊では)すべて見事に予想が的中する。それで嬉しくなってしまう。そして楽しみながら安心して読み進められる。ドストエフスキーの小説だとそうは行かず、油断がならない。おしとやかで内気な女性として紹介された妹が、物語の途中で豹変、興奮して怒鳴りだし相手顔面に唾を吐きかけるという非常事態もまま起こるから。

最後に読み終えたオースティン小説の主人公エマEmmaは特に微笑ましい。オースティン自身に比べれば数段見劣りするものの、この小説ではエマ本人がマッチメイカーを自認している。エマは、自分は誰とも結婚したくないけれど、親しい女友達を彼女たちにとって最高に立派な男性と結びつけることに情熱を燃やしていて、すでに実績もある。マッチメイキングがこの小説では入れ子構造(額に入った絵に描かれている額縁の絵)になっている。つまり、エマはオースティン小説世界の熱心な読者ファンクラブの一員であり、オースティン自身の生まれ変わり、かわいい似姿・カリカチャーでもある。

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四万十川 あつよしの夏

 

少年の成長の物語: 四万十川 あつよしの夏

2005年8月13日

前回に続いて、本の紹介。笹山久三さんの「四万十川 あつよしの夏」河出書房新社 昭和63年。主人公の篤義は小学3年生。生まれた順が早い、とあるから、9歳になったばかり。四万十川、津野川地方の自然に囲まれて、成長してゆく少年の物語である。例によって、私は余分なことをできるだけ語らず、本文から何箇所か書き抜いて紹介したい。

<「あの頃は、泣いたら全部いけんようになって、何もかもおしまいんなる思ちょったがじゃなかっつろうか。・・・・・生活が、そうじゃったがじゃけん」 「兄ちゃん、いっぺんも泣いたことないもんね。オラ弱むしじゃけん、いっつも泣きよる」 「あはっ!・・・・・アツ。人前で泣かんがと、いっぺんも泣かんがとはちがうがぞ・・・・・」 和夫は続けて何か言いかけたが、それで黙った。(同書 82ページ)> 和夫は篤義のお兄さんで、実に、兄らしい兄なのだ。篤義に鰻取りやイダ釣りを教える。喧嘩の指南もする。帰ってこれなくなった篤義を迎えにいく。 <「オラァ、クロを護った時のお前が好きぞ」(同書 136ページ)>と、弟を励ます。頼れる兄。

<「この世の中じゃあ、差別も、いじめものうなるこたああるまい・・(中略)・・確かに、何しても無駄みたいに聞こえるろう。けんど、どうかかわるかが大事ながじゃ思うがよ。大人んなっても、自分の中でじっくり考えて正しい思おたらそうすることよ。まちごうちょる思おたら、ちっとばかっし苦しゅうてもぶつかるとこは、ぶつかるがよ。それ繰り返しよるうちに、世の中を支配した考えから自立できるけん。自分がその努力をせにゃあ、周囲は変えられんけん。子育ても、おんなじよ」(同書 132-133ページ)>・・・これは、一家の食卓を囲んで、お父さんの秀男が、妻と子供たちに語りかけたことば。

<「オラ、なせあんなこと言うたかわからんが」
「アツ君。その分からんとこ、そのまんまにしてええがじゃろか?」
「オラ、いけん思う」(同書168ページ)>  クラスメイトの千代子が着せられた濡れ衣を巡っての、終業式の前日の殴り合いのケンカの後、担任の吉田先生と篤義の会話。

<ぼくは、あのときただやめろいうたら、ケンカんなる思ったがです。
じぶんがとった言うたら、ケンカせんでもやめてもらえる思ったがです。ケンカするががこわかったです。
そのときぼくは、とうちゃんにこうてきてもろうてもどせばええ思いよりました。
じゃけん、じぶんのせいにしたがです。
こすいかんがえじゃ思います。
けんど先生。ぼくは、どうしても、ちよこたすけたかったがです。
よわむしのかんがえでたすけたけん、あんなことになったがおもいます。(同書173ページ)> 夏休み前半でしっかり考えて、担任の先生に宛てて書いた篤義の手紙。

作者の笹山さんの描写は非常に的確であり、短い文章の中に、精密に描き込まれて、成長してゆく少年少女たちも、家族も動物も、そして春から夏の豊かな自然も、生き生きと生きているのである。

ところで、これは余談であるが、私は18歳の春まで津山(岡山県の北部、美作地方)で育ったので、この「四万十川」の文章の方言が、ほぼ完全にわかるのである。四国の津野川地域の方言は、「伊予なまりと、土佐なまりと、中村の影響か、京都弁と、大分の言葉が、複雑に組み合わされたような独特の言葉文化になっている。(同書 166ページ)」とのこと。つまり、美作や備前の方言とは異なるのであるが、基本構造が同じなため、非常に親しみ深くなつかしく感じることばなのである。

さらに余談であるが、私のコンピュータのお馬鹿なこと。ワープロで漢字仮名混じり文にするのに大いに骨が折れた。唯一の救いは上記の「篤義の手紙」の引用であり、漢字が少ないので、ワープロで漢字変換の必要がなく、本当にスムーズであった。きっと、わたしのワープロでは、「どんぐりと山猫」に出てくる山猫の手紙などは、すごい名文だと(機械は勝手に)思うに違いない。そのうち書き写してみよう。

 

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日暮れて道遠: 伍子胥と范蠡

 

2005年8月3日

日暮れて道遠: 伍子胥と范蠡

一度は伍子胥のことを、そして范蠡のことを書いてみたい、と思い、(3ヶ月も前に)臥薪嘗胆から書き起こした。臥薪嘗胆エピソードの活劇、私の心のスクリーンの上で最も生き生きと活躍する人物は、闔閭・夫差や勾践ではなく、伍子胥と范蠡である。もとから私は、夫差も勾践も好きではない。前回の文章でも書いたように、私自身は「臥薪嘗胆」で頑張るのが好きだけど、所詮、烏龍茶をPR茶にレベルダウンする程度のお茶のみ話でしかない。臥薪嘗胆をしたのは呉王や越王である。もしも、私が当時の呉か越か、あるいは楚(#補足参照)に生まれていたとしたら、(歴史に「もしも~たら」は、禁物であるが)、夫差や勾践として生まれてはいない。生まれたときから、硬く冷たいベッドに寝起きし、まずいはずの胆もごちそうに思える庶民の子に生まれ、「いまに見ていろ」という育ち方をしたに違いない。私の意識の中では、夫差に生まれ変わることが、どうしてもできない。王様になれない私にとっては、「臥薪嘗胆」は、全く縁のない努力の範疇に属する。臥薪嘗胆の努力は、どこにも必要ない。忘れがたい恨みがもし有ったとするなら、薪の上に寝て部下から毎日思い出させてもらわなくとも、苦い胆を嘗めなくても、忘れはしない。

この臥薪嘗胆の物語と交差し合いながら、伍子胥の人生が同時進行する。伍子胥こそ、「決して忘れない男」であった。日暮れて道遠、死者を鞭打つ、その姿は二千五百年の歳月を経た今日でも、余りにも壮絶な映像フィルムである。呉王夫差が、「父王闔閭が殺された恨みを忘れるな」と部下たちに毎日ことさら言わせることなど、伍子胥の眼には児戯に等しいと映ったことであろう。陳舜臣さんの「小説十八史略」(*注)では、その辺りを上手に脚色して描いてあり、私も全く同感である。たとえ父親の仇であっても、人を恨み、憎み抜いて、相手かあるいは自分のどちらかが滅び尽くすまで、どろどろの世界で戦い続けることなど、生まれながらのプリンス、夫差には難しいことであった。ちっとも美しくない。潔くもない。きれいさっぱり水に流せないものか。夫差の気持ちはその後の歴史の進行が雄弁に物語っている。夫差は、実に才能豊かな英雄である。会稽での勝利の後、中原へ兵を進め覇者をめざして飛躍することとなる。(##補足参照)

以前、私は、「要は、癌と戦う気持ちを忘れなければそれでよいのだ」と書いた。私の難病への想いは、ほんのちょっぴりかもしれないけれど、伍子胥の楚王への想いに似ている。「初心消えかかるのを 暮らしのせいにはするな そもそもが ひよわな志にすぎなかった**注」—私は、もともとそのような「ひよわな志」しか持たず、少年の頃から中途半端、挫折ばかりを繰り返してきた。そんな私が、(低調な失敗の連続ではあったが)こうして25年も難病治療の研究を続けてこられたのは、その大きさ激しさ重さすべてにおいて伍子胥に遠く遠く及ばないのを承知の上で、敢えて語れば、伍子胥とどこか同質の執拗な想いがあるからだ。死者を鞭打つ伍子胥の姿に、おぞましく鬼気迫る狂気を見、眼をそむけ、後ろを振り向くことなく逃げ出してしまいたい、それが普通だ。が、司馬遷ならきっとそうしたであろうように、もし、私がその場に傍観者として立っていたならば、その場に立ちつくし、その姿を脳裏に焼き付け、歴史の一ページに書き留めようとしたことだろう。眼をそむけたいのに、逃げ出してしまいたいのに、できない。そうだ、伍子胥の生き様そのものが、私たちが忘れてはならない貴重な「歴史」なのだ。日暮れて道遠、私自身も最近ときどきこの言葉を人前で口にするようになった。その時、頭の中をよぎるのは、この伍子胥の姿。「必樹吾墓梓。梓可材也。抉吾目、懸東門。以観越兵之滅呉。」呉の国が滅びるよりもずっと前に、伍子胥の死体は揚子江に投げ捨てられてしまう。その最期までも壮烈。

さて、しかし、私が最も注目する「臥薪嘗胆」の故事の登場人物は、実は、范蠡である。私のふるさと津山の西部、院庄には、作楽神社(明治2年にできたもの)の史跡がある。後醍醐天皇と児島高徳(こじまたかのり)の故事、「天莫空勾践 時非無范蠡」(太平記)のゆかりの地である。私の小学校の遠足でははるばる歩いて行ったし、また、中学校の体育会ではこの漢詩の謡いに合わせてみんなで演武を舞わせられたりしたので、「天莫空勾践 時非無范蠡」の句を、40年近く経った今も忘れないのである。子供心にも、「ハンレイ」という人物、立派な人に違いないと信じていた。この范蠡、別名で何度も登場し、史記列伝のなかでも、私が最も注目すべき人物である。日暮れて道遠、となってしまった今だから負け惜しみで言っているように思われるかもしれないが、私はすでに15年ぐらい前から「粘りにでる作戦」にストラテジーを切り替えた。すなわち、医学研究分野での「早雲」たらんとする方針に切り替えたのである。北条早雲の若い頃のことは不明である。彼が、小田原で一国一城の主となったときすでに60歳。そのまま数年で死んでいれば、北条3代の繁栄は無かった。88歳まで地に足をつけて、しっかり生きたからこそ、諸国の大名から政治面でも生活面でも尊敬される「北条早雲」となったのである。中国の歴史(たとえば史記列伝)の中には、熟年で頑張った人物たちが、さらに大勢登場する。人生を二毛作か三毛作で生きた人々である。(これからの時代は四毛作***注 であろう。) なかでも范蠡は、呉越戦争終了後、越王勾践ときれいさっぱり縁を切って、さっと旅だってゆく。あの潔さがたまらない。素敵な生き様だ。しかもそのまま「去りゆくのみ」ではない。カメレオンのように姿を変えて颯爽と、今度は貨殖列伝のなかに登場する。先に述べたように、たとえ想像上の仮定でさえ、プリンス夫差になれない私が、現実になんとか范蠡を先生としたいと思っているのだから、不思議な矛盾に驚かされる。呉の国を滅ぼしてしまったように、(たったひとつでも良いから)難病をなんとか粘って滅ぼした暁には、あの范蠡のように、さっさと勾践を見限って、また新しい挑戦の旅に船出してみたいのである。  「だから決めた できれば長生きすることに  年とってから凄く美しい絵を描いた フランスのルオー爺さんのように   ね  ****注」   だから私の墓には梓の樹を植える必要はない、と思いたい。しかし、いかに超持久戦に持ち込んでいるのを自覚している私でも、「日暮れて道遠」は、見つめなければならない重い現実である。范蠡のように勝利を得てさらに高く飛翔することが、理想。しかし、第一目標が達成できない私のような研究者は、伍子胥のように最期まで、鬼気迫る面持ちで、薄氷を踏むような実験を重ねてゆくことになるのだろうか。念のため、梓の種を蒔き、小さな苗から育て始めても、尚早ではないかもしれない。梓の樹ってどんな樹なのか? 北海道でも育つのだろうか?

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注* 陳舜臣 小説十八史略 毎日新聞社 1987年。

注** 茨木のり子詩集 自分の感受性くらい <新装版> 花神社 2005年(初版は1977年)。

注*** 石津謙介 人間的な かっこいい貧乏人の人生四毛作論 三五館 1998年。

注**** 茨木のり子 わたしが一番きれいだったとき 茨木のり子詩集 見えない配達夫 童話屋 2001年復刊(初版は1958年)。

#補足: 楚は現在の湖南、湖北両省の地域を指す。

##補足: そして西施も登場し、「顰み(ひそみ;眉をしかめること)にならう」という故事も生まれる。夫差の死、すなわち呉国の滅亡の後、西施がどのような生涯を送ったのか、史書に記載がない。(西施の名は「春秋左伝」や「史記」などの正史には見えない。)陳舜臣さんの「小説十八史略」では、范蠡と共に越を去り、新たな人生を歩んだように描かれている。私も西施には幸せに生き延びてもらいたい。しかし、范蠡の経営する八百屋の店頭に立って、大声を張り上げて野菜を売りさばいている商売上手の女将さんの西施の姿を想像することは、私の想像力をもってしては難しい。400年後の司馬遷の頃には西施の記録はすべて失われていたことだろう。あるいは、西施の行方は、夫差の死後すぐに、だれにもわからないものになったのかもしれない。陳舜臣さんのような優れたストーリーテラー(###補足参照)に任せるべきテーマ。

###補足: 小説と歴史について  陳舜臣の「小説十八史略」は、文字通り、小説である。司馬遼太郎の歴史小説が大衆小説であるのと同じ意味で大衆小説である。私(HH)は、陳舜臣や司馬遼太郎の歴史小説を興味深く読みはするが、しかし、しばしば、「いや、本当は別のことが起こっていた」と思い始めると、余り楽しめなくなる。すなわち、私は、小説よりも「歴史」の方がずっと好きである。こんなことがあったとしたら面白いだろう、という小説よりも、資料を精確に評価して真実を追究してゆく「歴史」を読みながら、考えることが好きである。皆さんも歴史小説が「小説」であることを忘れずに。是非、オリジナルの「史記」その他の歴史書も読んでいってください。

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日暮れて道遠: 伍子胥と范蠡  以上、2005年8月3日付けWEBページより再掲

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