オースティン: 素敵なマッチメイカー!

2015年1月7日 水曜日

A. オースティン、素敵なマッチメイカー!

オースティンを読むのは面白い。今を去ることちょうど200年、19世紀初頭、ロンドン郊外の田舎町で小さな貴族の適齢期の娘さんの繰り広げるドタバタが、読者を飽きさせない軽妙なタッチで描かれる。いろいろな出来事、微妙な心理の紆余曲折の末、最終的には主人公は素敵な貴族(新興の場合もあれば昔からの貴族の場合もある)と結ばれて終わる。つまり、ハッピーエンドの定型であり、読者を不安に陥れたりがっかりさせることがない。安心して読み進められるファミリードラマである。そして主人公は才気溢れ賢い。ささやかながら多くの美徳を備えた可愛い明るい女性である。きっとオースティン自身がそんな才気煥発の明るい女性だったのだろう。映画化されてもしっくりとくる。映画ではイギリスを舞台とした風景・室内装飾・衣装も美しく、心理描写・俳優さんの演技も含めてきわめて上質で面白い。これほど楽しい読書時間を過ごせる作品を何冊も残してくれたオースティンはストーリーテラーとして卓越している。「続・明暗」の作者の水村美苗さんも、そのあとがきかどこかでオースティンを読むのが特別大好きだとおっしゃっていた。ほとんどの読者は同じ感慨を抱かれるのではないだろうか。

19世紀初頭のイギリス、すなわちオースティンの世界では女性は商売に主体的にたずさわることも軍隊で闘うこともできなかった。だから、自分の価値を今よりも高めること、すなわち成功とハッピーエンド達成できるのは、自分以上に価値の高い男性と結婚するという手段によってだけである。従って物語り全体がこの成功した結婚という目標に向かって突きすすんでゆく。仲人・マッチメイカー matchmaker 小説である。オースティンは闊達有能なマッチメイカーとして大活躍である。すばらしい善男善女のカップルの仲を取り持ってくれた作者には、最後のページまで読んだところで喝采を捧げたい。

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オースティン本は三冊を読んだ。どれも似ていてしかもそれぞれ面白い。主人公や登場する脇役の女性たちがだれと結婚するか、最初からは明かされない。が、登場する女性たちの中でも一番魅力的かつ価値ある主人公が、登場する男性のなかで総合的にみて一番価値の高い独身男性と結婚することになるに決まっている。その予想を持って描写される価値を足し算引き算しながら読み進んでゆくと(少なくとも私が読んだ三冊では)すべて見事に予想が的中する。それで嬉しくなってしまう。そして楽しみながら安心して読み進められる。ドストエフスキーの小説だとそうは行かず、油断がならない。おしとやかで内気な女性として紹介された妹が、物語の途中で豹変、興奮して怒鳴りだし相手顔面に唾を吐きかけるという非常事態もまま起こるから。

最後に読み終えたオースティン小説の主人公エマEmmaは特に微笑ましい。オースティン自身に比べれば数段見劣りするものの、この小説ではエマ本人がマッチメイカーを自認している。エマは、自分は誰とも結婚したくないけれど、親しい女友達を彼女たちにとって最高に立派な男性と結びつけることに情熱を燃やしていて、すでに実績もある。マッチメイキングがこの小説では入れ子構造(額に入った絵に描かれている額縁の絵)になっている。つまり、エマはオースティン小説世界の熱心な読者ファンクラブの一員であり、オースティン自身の生まれ変わり、かわいい似姿・カリカチャーでもある。

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四万十川 あつよしの夏

 

少年の成長の物語: 四万十川 あつよしの夏

2005年8月13日

前回に続いて、本の紹介。笹山久三さんの「四万十川 あつよしの夏」河出書房新社 昭和63年。主人公の篤義は小学3年生。生まれた順が早い、とあるから、9歳になったばかり。四万十川、津野川地方の自然に囲まれて、成長してゆく少年の物語である。例によって、私は余分なことをできるだけ語らず、本文から何箇所か書き抜いて紹介したい。

<「あの頃は、泣いたら全部いけんようになって、何もかもおしまいんなる思ちょったがじゃなかっつろうか。・・・・・生活が、そうじゃったがじゃけん」 「兄ちゃん、いっぺんも泣いたことないもんね。オラ弱むしじゃけん、いっつも泣きよる」 「あはっ!・・・・・アツ。人前で泣かんがと、いっぺんも泣かんがとはちがうがぞ・・・・・」 和夫は続けて何か言いかけたが、それで黙った。(同書 82ページ)> 和夫は篤義のお兄さんで、実に、兄らしい兄なのだ。篤義に鰻取りやイダ釣りを教える。喧嘩の指南もする。帰ってこれなくなった篤義を迎えにいく。 <「オラァ、クロを護った時のお前が好きぞ」(同書 136ページ)>と、弟を励ます。頼れる兄。

<「この世の中じゃあ、差別も、いじめものうなるこたああるまい・・(中略)・・確かに、何しても無駄みたいに聞こえるろう。けんど、どうかかわるかが大事ながじゃ思うがよ。大人んなっても、自分の中でじっくり考えて正しい思おたらそうすることよ。まちごうちょる思おたら、ちっとばかっし苦しゅうてもぶつかるとこは、ぶつかるがよ。それ繰り返しよるうちに、世の中を支配した考えから自立できるけん。自分がその努力をせにゃあ、周囲は変えられんけん。子育ても、おんなじよ」(同書 132-133ページ)>・・・これは、一家の食卓を囲んで、お父さんの秀男が、妻と子供たちに語りかけたことば。

<「オラ、なせあんなこと言うたかわからんが」
「アツ君。その分からんとこ、そのまんまにしてええがじゃろか?」
「オラ、いけん思う」(同書168ページ)>  クラスメイトの千代子が着せられた濡れ衣を巡っての、終業式の前日の殴り合いのケンカの後、担任の吉田先生と篤義の会話。

<ぼくは、あのときただやめろいうたら、ケンカんなる思ったがです。
じぶんがとった言うたら、ケンカせんでもやめてもらえる思ったがです。ケンカするががこわかったです。
そのときぼくは、とうちゃんにこうてきてもろうてもどせばええ思いよりました。
じゃけん、じぶんのせいにしたがです。
こすいかんがえじゃ思います。
けんど先生。ぼくは、どうしても、ちよこたすけたかったがです。
よわむしのかんがえでたすけたけん、あんなことになったがおもいます。(同書173ページ)> 夏休み前半でしっかり考えて、担任の先生に宛てて書いた篤義の手紙。

作者の笹山さんの描写は非常に的確であり、短い文章の中に、精密に描き込まれて、成長してゆく少年少女たちも、家族も動物も、そして春から夏の豊かな自然も、生き生きと生きているのである。

ところで、これは余談であるが、私は18歳の春まで津山(岡山県の北部、美作地方)で育ったので、この「四万十川」の文章の方言が、ほぼ完全にわかるのである。四国の津野川地域の方言は、「伊予なまりと、土佐なまりと、中村の影響か、京都弁と、大分の言葉が、複雑に組み合わされたような独特の言葉文化になっている。(同書 166ページ)」とのこと。つまり、美作や備前の方言とは異なるのであるが、基本構造が同じなため、非常に親しみ深くなつかしく感じることばなのである。

さらに余談であるが、私のコンピュータのお馬鹿なこと。ワープロで漢字仮名混じり文にするのに大いに骨が折れた。唯一の救いは上記の「篤義の手紙」の引用であり、漢字が少ないので、ワープロで漢字変換の必要がなく、本当にスムーズであった。きっと、わたしのワープロでは、「どんぐりと山猫」に出てくる山猫の手紙などは、すごい名文だと(機械は勝手に)思うに違いない。そのうち書き写してみよう。

 

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日暮れて道遠: 伍子胥と范蠡

 

2005年8月3日

日暮れて道遠: 伍子胥と范蠡

一度は伍子胥のことを、そして范蠡のことを書いてみたい、と思い、(3ヶ月も前に)臥薪嘗胆から書き起こした。臥薪嘗胆エピソードの活劇、私の心のスクリーンの上で最も生き生きと活躍する人物は、闔閭・夫差や勾践ではなく、伍子胥と范蠡である。もとから私は、夫差も勾践も好きではない。前回の文章でも書いたように、私自身は「臥薪嘗胆」で頑張るのが好きだけど、所詮、烏龍茶をPR茶にレベルダウンする程度のお茶のみ話でしかない。臥薪嘗胆をしたのは呉王や越王である。もしも、私が当時の呉か越か、あるいは楚(#補足参照)に生まれていたとしたら、(歴史に「もしも~たら」は、禁物であるが)、夫差や勾践として生まれてはいない。生まれたときから、硬く冷たいベッドに寝起きし、まずいはずの胆もごちそうに思える庶民の子に生まれ、「いまに見ていろ」という育ち方をしたに違いない。私の意識の中では、夫差に生まれ変わることが、どうしてもできない。王様になれない私にとっては、「臥薪嘗胆」は、全く縁のない努力の範疇に属する。臥薪嘗胆の努力は、どこにも必要ない。忘れがたい恨みがもし有ったとするなら、薪の上に寝て部下から毎日思い出させてもらわなくとも、苦い胆を嘗めなくても、忘れはしない。

この臥薪嘗胆の物語と交差し合いながら、伍子胥の人生が同時進行する。伍子胥こそ、「決して忘れない男」であった。日暮れて道遠、死者を鞭打つ、その姿は二千五百年の歳月を経た今日でも、余りにも壮絶な映像フィルムである。呉王夫差が、「父王闔閭が殺された恨みを忘れるな」と部下たちに毎日ことさら言わせることなど、伍子胥の眼には児戯に等しいと映ったことであろう。陳舜臣さんの「小説十八史略」(*注)では、その辺りを上手に脚色して描いてあり、私も全く同感である。たとえ父親の仇であっても、人を恨み、憎み抜いて、相手かあるいは自分のどちらかが滅び尽くすまで、どろどろの世界で戦い続けることなど、生まれながらのプリンス、夫差には難しいことであった。ちっとも美しくない。潔くもない。きれいさっぱり水に流せないものか。夫差の気持ちはその後の歴史の進行が雄弁に物語っている。夫差は、実に才能豊かな英雄である。会稽での勝利の後、中原へ兵を進め覇者をめざして飛躍することとなる。(##補足参照)

以前、私は、「要は、癌と戦う気持ちを忘れなければそれでよいのだ」と書いた。私の難病への想いは、ほんのちょっぴりかもしれないけれど、伍子胥の楚王への想いに似ている。「初心消えかかるのを 暮らしのせいにはするな そもそもが ひよわな志にすぎなかった**注」—私は、もともとそのような「ひよわな志」しか持たず、少年の頃から中途半端、挫折ばかりを繰り返してきた。そんな私が、(低調な失敗の連続ではあったが)こうして25年も難病治療の研究を続けてこられたのは、その大きさ激しさ重さすべてにおいて伍子胥に遠く遠く及ばないのを承知の上で、敢えて語れば、伍子胥とどこか同質の執拗な想いがあるからだ。死者を鞭打つ伍子胥の姿に、おぞましく鬼気迫る狂気を見、眼をそむけ、後ろを振り向くことなく逃げ出してしまいたい、それが普通だ。が、司馬遷ならきっとそうしたであろうように、もし、私がその場に傍観者として立っていたならば、その場に立ちつくし、その姿を脳裏に焼き付け、歴史の一ページに書き留めようとしたことだろう。眼をそむけたいのに、逃げ出してしまいたいのに、できない。そうだ、伍子胥の生き様そのものが、私たちが忘れてはならない貴重な「歴史」なのだ。日暮れて道遠、私自身も最近ときどきこの言葉を人前で口にするようになった。その時、頭の中をよぎるのは、この伍子胥の姿。「必樹吾墓梓。梓可材也。抉吾目、懸東門。以観越兵之滅呉。」呉の国が滅びるよりもずっと前に、伍子胥の死体は揚子江に投げ捨てられてしまう。その最期までも壮烈。

さて、しかし、私が最も注目する「臥薪嘗胆」の故事の登場人物は、実は、范蠡である。私のふるさと津山の西部、院庄には、作楽神社(明治2年にできたもの)の史跡がある。後醍醐天皇と児島高徳(こじまたかのり)の故事、「天莫空勾践 時非無范蠡」(太平記)のゆかりの地である。私の小学校の遠足でははるばる歩いて行ったし、また、中学校の体育会ではこの漢詩の謡いに合わせてみんなで演武を舞わせられたりしたので、「天莫空勾践 時非無范蠡」の句を、40年近く経った今も忘れないのである。子供心にも、「ハンレイ」という人物、立派な人に違いないと信じていた。この范蠡、別名で何度も登場し、史記列伝のなかでも、私が最も注目すべき人物である。日暮れて道遠、となってしまった今だから負け惜しみで言っているように思われるかもしれないが、私はすでに15年ぐらい前から「粘りにでる作戦」にストラテジーを切り替えた。すなわち、医学研究分野での「早雲」たらんとする方針に切り替えたのである。北条早雲の若い頃のことは不明である。彼が、小田原で一国一城の主となったときすでに60歳。そのまま数年で死んでいれば、北条3代の繁栄は無かった。88歳まで地に足をつけて、しっかり生きたからこそ、諸国の大名から政治面でも生活面でも尊敬される「北条早雲」となったのである。中国の歴史(たとえば史記列伝)の中には、熟年で頑張った人物たちが、さらに大勢登場する。人生を二毛作か三毛作で生きた人々である。(これからの時代は四毛作***注 であろう。) なかでも范蠡は、呉越戦争終了後、越王勾践ときれいさっぱり縁を切って、さっと旅だってゆく。あの潔さがたまらない。素敵な生き様だ。しかもそのまま「去りゆくのみ」ではない。カメレオンのように姿を変えて颯爽と、今度は貨殖列伝のなかに登場する。先に述べたように、たとえ想像上の仮定でさえ、プリンス夫差になれない私が、現実になんとか范蠡を先生としたいと思っているのだから、不思議な矛盾に驚かされる。呉の国を滅ぼしてしまったように、(たったひとつでも良いから)難病をなんとか粘って滅ぼした暁には、あの范蠡のように、さっさと勾践を見限って、また新しい挑戦の旅に船出してみたいのである。  「だから決めた できれば長生きすることに  年とってから凄く美しい絵を描いた フランスのルオー爺さんのように   ね  ****注」   だから私の墓には梓の樹を植える必要はない、と思いたい。しかし、いかに超持久戦に持ち込んでいるのを自覚している私でも、「日暮れて道遠」は、見つめなければならない重い現実である。范蠡のように勝利を得てさらに高く飛翔することが、理想。しかし、第一目標が達成できない私のような研究者は、伍子胥のように最期まで、鬼気迫る面持ちで、薄氷を踏むような実験を重ねてゆくことになるのだろうか。念のため、梓の種を蒔き、小さな苗から育て始めても、尚早ではないかもしれない。梓の樹ってどんな樹なのか? 北海道でも育つのだろうか?

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注* 陳舜臣 小説十八史略 毎日新聞社 1987年。

注** 茨木のり子詩集 自分の感受性くらい <新装版> 花神社 2005年(初版は1977年)。

注*** 石津謙介 人間的な かっこいい貧乏人の人生四毛作論 三五館 1998年。

注**** 茨木のり子 わたしが一番きれいだったとき 茨木のり子詩集 見えない配達夫 童話屋 2001年復刊(初版は1958年)。

#補足: 楚は現在の湖南、湖北両省の地域を指す。

##補足: そして西施も登場し、「顰み(ひそみ;眉をしかめること)にならう」という故事も生まれる。夫差の死、すなわち呉国の滅亡の後、西施がどのような生涯を送ったのか、史書に記載がない。(西施の名は「春秋左伝」や「史記」などの正史には見えない。)陳舜臣さんの「小説十八史略」では、范蠡と共に越を去り、新たな人生を歩んだように描かれている。私も西施には幸せに生き延びてもらいたい。しかし、范蠡の経営する八百屋の店頭に立って、大声を張り上げて野菜を売りさばいている商売上手の女将さんの西施の姿を想像することは、私の想像力をもってしては難しい。400年後の司馬遷の頃には西施の記録はすべて失われていたことだろう。あるいは、西施の行方は、夫差の死後すぐに、だれにもわからないものになったのかもしれない。陳舜臣さんのような優れたストーリーテラー(###補足参照)に任せるべきテーマ。

###補足: 小説と歴史について  陳舜臣の「小説十八史略」は、文字通り、小説である。司馬遼太郎の歴史小説が大衆小説であるのと同じ意味で大衆小説である。私(HH)は、陳舜臣や司馬遼太郎の歴史小説を興味深く読みはするが、しかし、しばしば、「いや、本当は別のことが起こっていた」と思い始めると、余り楽しめなくなる。すなわち、私は、小説よりも「歴史」の方がずっと好きである。こんなことがあったとしたら面白いだろう、という小説よりも、資料を精確に評価して真実を追究してゆく「歴史」を読みながら、考えることが好きである。皆さんも歴史小説が「小説」であることを忘れずに。是非、オリジナルの「史記」その他の歴史書も読んでいってください。

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日暮れて道遠: 伍子胥と范蠡  以上、2005年8月3日付けWEBページより再掲

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猫町を誘致

私の部屋に「猫町」を誘致

 

2005年8月2日

 

日曜日に札幌駅の本屋さんの詩集コーナーで、萩原朔太郎の「猫町」* を見つけた。金井田英津子さんの画の本で、装幀も美しい。これを買ってきて、職場に持ってきて、朔太郎の写真集「のすたるぢや(詩人が撮ったもうひとつの原風景)」** と並べて立てた。朔太郎が使っていたのはフランス製のステレオスコープ。「僕はその器械の光学的な作用をかりて、自然の風物の中に反映されてる、自分の心の郷愁が写したいのだ。」**、という。

 

「猫町」は極めて不思議な世界だ。不意に紛れ込んだ「景色の裏側」の世界。

 

一方、アラーキーと森まゆみさんの「人町」*** も私の部屋に飾ってある。この「人町」のタイトルから「猫町」を連想しない人はいないと思う。が、ひょっとして、「猫町」を知らない人が聞いたら、「人町」は当たり前の真ん真ん中過ぎて、全く意味をなさない。すなわち、「景色の裏側」のはずの「猫町」が存在しなければ、「景色の表側」である「人町」も存在し得ない、という、奇妙な論理の反転が生じている。パロディーの世界では、この反転現象が生じやすい。不思議な世界をもう一回さらに不思議の方向に回転させると、極めて当たり前の世界に戻ってしまうのである。

 

さて、私の職場の本棚。この「人町」と「猫町」を並べて立てるか、離してたてるか、迷っている。たとえば谷中(東京、台東区)の街並みは、天才アラーキーにかかれば、「猫が来るといいな、というとどこからともなくニャーオ。」という町に変わる(「人町」の森さんのあとがきより)のであるが、朔太郎にとって通常は、「終日白っぽい往来」*(猫町、8ページ) に見えるであろう。が、ある時、突然、詩人は「第四次元の別の宇宙(景色の裏側)」(猫町、79ページ)を見るのである。そんな経緯を考察すると、景色の表と裏の関係にある「人町」と「猫町」、とりあえずは、並べて立てておいても、猫と人とで喧嘩することもなかろう、と思う。

 

私の部屋を訪れる人は、是非、この不思議なマッチとミスマッチを見つけて楽しんで欲しい。

 

 

* パロル舎 1997年。

** 萩原朔太郎写真作品 のすたるぢや 新潮社 フォトミュゼ 1994年。

*** 旬報社 1999年。

 

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シンデレラ第二形態

 

 

2014年4月23日 水曜日

星新一 未来イソップ 読了。

この中のシンデレラ王妃のお話、シンデレラ第二形態の物語である。L氏がしばしば言及するこの第二形態物語、これにて了解。

 

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