介護保険申請手続き

介護保険申請(要介護認定の申請)手続きを行った

中村聡樹 上手に活用!介護保険&介護サービス 学研 2013年

2015年3月24日朝からTC病院脳外科受診、左中大脳動脈閉塞による側頭頭頂領域の梗塞の診断。症状は右の半側空間無視と失語。同日午後、T市の包括支援センターのOさんWさんに訪問していただき面談と相談、介護保険申請(要介護認定の申請)手続きを行った。

翌25日午前、T市役所の調査員による訪問審査を受ける。同時にケアマネジャーのSさん・訪問介護(ホームヘルパー)を行っていただけるU園のNさんにも面談していただき今後の方針や具体的な段取り相談をして、必要書類など記入し申し込み。暫定的に週2回か3回ぐらいで4月の頭からホームヘルパーの方においでいただけることになった。包括支援センターのOさんWさんがアレンジして下さってここまでスムーズに進めることができた。若手のWさんがこの地区を担当してくださっている。

25日午後は、ヘルパー資格をもつ運転手さんのタクシーを頼んで、Y氏と一緒に市役所にゆき、印鑑証明をもらってから、介護保険・高齢者健康保険・市税その他もろもろの書類に関して送付先指定変更の手続きを行い、さらに県の社会福祉協議会による「日常生活自立支援事業サービス」の利用申請を行った。夕方は自宅に戻り、日産のHさんにお願いして事故車の廃車手続き。さらに、お隣のT伯母さんにワンちゃんたちのエサと水やりを引き続き行っていただけるようお願いした。また、T伯母さんと一緒にY氏の玄関前に積み上げられている段ボールの空き箱やドッグフードの空き袋などを整理処分。さらに夜はワンちゃんたちの今後に関してY氏と相談。姉に電話をかけてあげて、Y氏と姉が電話討論。結果、姉が3月中にワンちゃんたちを引き取ることになった。手筈は姉に一任。失語のためもあり、Y氏はワンちゃんたちの名前も私の名前も思い出すことはできない。

26日はS町の君子叔母をたずね、一緒に母やご先祖のお墓参り。小さなお地蔵さんのお墓は君ちゃんたちの一番下の弟、生後一ヶ月ぐらいで亡くなった男の子のお墓だそうである。午後、従兄弟の光明さんにクルマで岡山空港まで送っていただき、飛行機を乗り継いで札幌に帰ってきた。

27日、上記の介護本を書店で買ってきて読み始める。

28日、最寄りの電気量販店で電磁調理器・3合炊き炊飯器・保温ポットの3点を購入し、Y氏宅へ配送手配。夜、上記の介護本をざっと通読、読了。

ケアマネジャーとケアプラン(同書、60ページ)を作成するのは要介護度が決定してからとなる。来月の中下旬ぐらいだろうか。Y氏の状況は、要支援2ないし要介護1ぐらいか。またはひょっとすると半側空間無視と失語による独り暮らしの不自由と危険の状態を重くみて要介護2になるのかもしれない。介護認定審査会の判定を待つことになる。利用できるサービスは、要支援では「介護予防サービス」、要介護では「在宅サービス」と「施設サービス」(同書、56ページ)。すなわち、要支援の人は施設サービスを利用できない(同書、66ページ)。 来週金曜日あたりから暫定的な訪問支援・介護が始まるので、Y氏の生活も少し楽になると思う。交通事故による肋骨骨折の痛みも治ってきてお風呂にも入れるようになるのではないかと思う。

ケアプランの作成に際して、この本をもう一度読み返しておきたいと考えている。よく書かれている実用書。

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「子ギツネヘレンがのこしたもの」感想文

 

「子ギツネヘレンがのこしたもの(偕成社)」を読んで

 

2005年10月2日

 
私が最近読んだ、竹田津実さんの動物の診療所日記の第2巻。深く感動した本である。

障害を持つもの、物言わぬものに対して、人が何をなすことができるか、何をなしたか、何を理解できるか、何を分かってもらえるか。

人はわがまま勝手なものではあるが、障害を持つものに対して、どれだけ暖かく「なすべきこと」を考えてあげられるか、実際になしてあげられるか。

ただ、これを小学生に理解してもらうのは難しいかもしれない。小学生と言っても経験はさまざまで、上記のような概念(ことば)を押しつけても理解してはもらえないだろう。こどもたちも、人となってゆく過程でさまざまの経験をし、次第に深く物事を考えるように成長してゆくのであるから。

医者や看護師が、職業人として、患者のヘレンに対して「できること」は少ない。できることを行うこと。すべきでないことを行わないこと。また、どのような場合でも医者や看護師は脇役に徹すること。あくまでヘレンと「その家族」が主役であること。ただ、この場合、ヘレンは孤児(みなしご)で、看護に当たる竹田津さんの奥様と竹田津さんとが「家族」として生きなくてはならない。

安易な安楽死は、ヒットラーの殲滅収容所と、意外と近い関係にある。一方で、安楽死をとらないかぎり、できることは極めて限られており、人は優しければ優しいほど、深く悩みながら行動を選んでゆくことになる。が、それが本当の生き方だろう。確信している。そのようなパラドックスの中にだけ、本当の人の生き方があることを。

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さて、ヘレンの障害に関して:
交通事故による脳挫傷や脳内出血では、嗅覚・視覚・聴覚喪失の3重の障害を同時に説明するのは難しいように思う。平衡感覚系統には障害は少なそう。脳神経のVIII番(聴神経)が交通事故などの外傷により両側やられたということはやや考えにくい。症状の記載からは、骨伝導による聴覚がどれほど温存されているか、わからない。もちろん、ヘレンにめまいや耳鳴りがひどかったかどうかも、わからない。ただし、ヘレンの写真を拝見する限り、斜視などは明らかではないので、脳神経でもIII、IV、VIには特に問題なさそう。以上のことから、ヘレンの疾患を考察すると: 両側の中耳炎(局所の細菌感染症)がひどくなって、さらに脳炎へと波及し、脳神経のI(嗅覚)とII(視覚)に傷害を残したか。あるいは内耳組織への自己免疫ないしウイルス感染などで、聴覚を失うとともに、脳神経のIとII両側に炎症ないし感染(脳炎)が波及し、大きな障害を残したか。もとより、私の乏しい臨床経験では、このような難病の患者を診察したことは無い。いつか機会があれば、耳鼻科や眼科、神経内科などの専門の先生にお話を伺ってみたいと思う。

 

以上、2005年10月2日付けのWEBページより再掲

 

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「安心な老後」と「末は小町」

 

一読すると、なるほどと感心する文章だったのに、しばらくしてから、スッキリしないものがホコホコと浮かんでくることがある。 WEBページに公開されている「末は小町をめざして」という田中優子さん(以下TYさん)の文章もその一つである。私なりにあれこれ考えてみてたどり着いた結論から先に述べると、TYさんの文章の全体の論旨には共感させられるのだが、「安心な老後」と対比された「末は小町」という言葉の使われ方に私独特の引っかかりを感じているのである。以下にWEBページから一部を引用しながら何がそしてどうして引っかかるのか考えてみたい。少し長い引用となるがご容赦いただきたい。

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<以下引用>  http://onnagumi.jp/koramu/anosuba/anosuba44.html

なぜかしきりに、今までの様々な事柄からリタイアしたいと思っている。今は、従来の発想ややりかたを墨守していては切り開いていかれない時代だ。自分自身が変わりたいからだが、それより何より、二〇代から四〇代の人たちが思い切り力を発揮できる環境が必要で、そのスペースを空けたい。同じ世代の中には、これから権力を握ろう、これからいい思いをしよう、という人たちもいるのだろうが、そんな人間が多くなったら最悪だ。最低限のことを伝授しつつ、道を譲る時なのである。このごろはふと気がつくと、その「伝え方」と「あけかた」を考えていることが多くなった。

江戸時代では、それを隠居といった。隠居は世間的な価値とは異なる生き方をする時間で、可能な人であれば三〇代から隠居した。そう極端でなくとも、五〇歳にでもなれば隠居し、運良く生き延びれば、次の地平で異なる生き方をしたものである。隠居には後身に道を譲る、という意味も含まれる。だからたとえ重要な仕事をしていて、しかも元気であっても、隠居は早くすべきなのだ。そうでないと社会が停滞する。

「そんなこと言っても老後が不安で」という人が多い。不安でない老後を保障しろ、という人もいる。しかしそうなのだろうか。江戸時代の隠居は、年金がないから自分で稼いだお金で隠居生活を送った。そのために、若い頃から節約するのは当たり前だった。湯水のように金を使った人まで「不安の無い老後を」というのは虫が良すぎる。華やかな生き方をするのであれば、「末は小町」を覚悟すべきだろう。この場合「小町」とは「卒塔婆小町」の意味で、老齢のホームレスの女性を言う。

老いたら、この先自分はどうなるのか、いつまでどのように生きられるか、不安なのが当たり前だ。しかしその不安と引き替えに「自由」がある。それが隠居という生き方である。芭蕉は隠居後、金を持たずに旅をし続けた。それは「野ざらし」を覚悟の上の、生き方としての旅だった。地位も金も肩書きもない、何も持たない己れと向き合う、実に深淵な自由である。日本には、そういう老いかたの伝統がある。

私は、「安心な老後」など送りたくない。千年以上の文化が作り上げてきた深みを、崖っぷちから覗きたいのである。 <引用終わり>

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今回はいくつかの問題提起を箇条書きで並べてみたい。順不同である。

1.衰老落魄説話のヒロイン小町: 小町は奈良平安時代の貴族文化の担い手の中でさらに伝説の中のアイドル。貴族たちの生活の基盤は律令制の下での租庸調すなわち庶民の労働に支えられているものであった。この時代の社会は、武士による封建制支配へと移行する前の時代、すなわち貴族による奴隷制支配の社会構造である。貴族の生き方は寄生的であり生産に携わることがない。小町が貴族の零落した姿であったとしても、奴隷・庶民にまで堕ちたのではない。如何に辺縁に押しやられたとはいえ、貴族の集合の中の要素であり続けているのである。「地位も金も肩書きもない何も持たない己れ」ということとそれでも貴族であることとの間に明確な矛盾が存在している。

2.出家、その象徴としての西行: 奈良時代の国家事業としての仏教、平安貴族の栄耀栄華の持続を願う呪術事業としての仏教、この時代の中で僧侶といえども国家のお抱えであり、いわゆる国家公務員・官僚である。この社会制度のもとでは、僧侶であること自体、「地位も金も肩書きもない、何も持たない己れ」には成れないことを意味する。芭蕉の敬愛する西行、彼が武士を捨て妻や幼い子供を捨てて出家してもなお、「地位も金も肩書きもない何も持たない己れ」には成れないのである。西行は、世を捨てて仏教を選んだというよりもむしろ他の(すべてとはいわないまでも)非常に多くを捨てて芸術を選んだというべきであろう。実際、西行には豊かなサポートがありしっかり暮らしてゆくことができた。もし西行が武士を捨てた上にさらに本当に「地位も金も肩書きもない何も持たない己れ」になってしまえば(あり得ない仮定ではあるが)現実的に生活してゆくことの重みが両肩に重くのしかかり決して芸の道に生きることはできないのである。

3. 芭蕉: 江戸での俳諧の高名な師匠としての暮らしは、今でいうところの芸術大学のタレント教授のような持てはやされる暮らしであろうか。それら安定した暮らしの選択肢を捨て、晩年になっても病身となっても旅に生きる。TYさんの文章にあるように「芭蕉は隠居後、金を持たずに旅をし続けた」ことはほぼ事実かも知れない。が、各地にそれぞれ支援者の層が厚く、旅の姿は乞食のようであっても本当の乞食ではない。芭蕉が芸の道に生きることはそのまま封建制度下の米作り百姓に寄りかかって生きていることになる。「実に深淵な自由」ではあったかもしれないが、芸を売って米を買わねばならぬという意味で、百姓の生産労働に依存した範囲内での自由と考えねばならない。これは本当の自由と言えるのか。

4.  翻って、現代の筆者TYさんによる「末は小町をめざして」: 筆者は言う、「日本には、そういう老いかたの伝統がある。私は、「安心な老後」など送りたくない。千年以上の文化が作り上げてきた深みを、崖っぷちから覗きたいのである。」と。

「千年以上の文化が作り上げてきた深み」は、平安女流文学そして西行・宗祇・芭蕉に代表される文芸文化を意味されているのだろう。それら価値の高い文化を継承すべき私たちにとって「安心な老後」を否定して、それら古人の求めたものを求めて老いを過ごし死を迎えたいという主張には共鳴させられるものがある。

しかし、視点を変えて考えてみよう。 判然としないのは、「末は小町をめざして」の「小町」のイメージである。作者は同じ文章の中で、「この場合「小町」とは「卒塔婆小町」の意味で、老齢のホームレスの女性を言う」とわざわざことわっている。卒塔婆小町は能作者らによって作られていった衰老落魄説話として中世社会に広く語り継がれたという。しかし、現代に生きる筆者によって、老齢のホームレスの女性、その通りの意味で小町という言葉が使われているのか。どこかに捻れが隠れていないか。

庶民の中に紛れ込んでいることはあり得るかもしれないが、小町は貴族、それもたとえ過去の栄光とはいえ文芸界のアイドル・ヒロインである。筆者TYさんは、小町の所属する貴族・文芸を愛して生きる集合の中の一員として最期の自分を想定し、また、大学教授や知識人たちで構成される仲間たちに呼びかけているのではないだろうか。この零落小町を自分の老後に想定される危険の最悪レベルと想定している人が、「安心な老後」を否定したとしても、否定された末に残る最悪の「安心でない老後」はそれほど悲惨な老後ではない。すなわち、自分は衣食の生産に携わらなくとも衣食が他者から供給されるという十分に守られ依存した老後、そして普通の医療が受けられ人並みの利便生活が確保された老後、それぐらいは当たり前としている言論ではないか。であれば、ここに否定されている「安心な老後」というのは、大学教授や知識人たちいわゆる現代の貴族ともいえる人たちを基準とした贅沢な老後であり、現在の一般庶民が想定しなければならない「安心でない老後」を念頭に置いていないのではないか。

私は、「安心な老後」という言葉は、「贅沢な老後」とは違うと思う。より良い社会を作ってゆく上で決してなくしてはならないものとして、否定してはいけない形で使われるべき言葉だと思う。私は「安心な老後」としてたとえば以下のようなものを想定してみる:

a. 家族そして地域や社会の中で人とつながり、役割を担い果たしてゆくこと: 生産への参加

b. 衣食住と医療介護などが必要に応じて他者と等し並みに得られること: 生存の平等

c. 仲間たちや子孫たちが今よりも少しずつでも良い方向へと向かう社会を築いていくだろうと期待して生きていられる老後:  社会幸福の漸増

d. 私たちの積み重ねてきた価値あるものが仲間たちや子孫たちに価値あるものとして継承されると安心していられる老後:   文化・価値の継承

このような観点からは、戦争や原発事故による家族や地域社会ないし国や世界の突然の壊滅を想定することは、「安心な老後」の否定形の最たるものだと思う。

西行・宗祇・芭蕉のような芸術家は民族の歴史の中で、千年にひとりか二人の逸材である。他のすべてを捨ててその道一筋につながって芸を磨いてゆく「老いの伝統」というべきものがもしあったとしても、私たちにはその伝統を安易に模倣できるとは考えない方が良い。むしろ、地域のそして世界の人々とつながりながら安心な老後をひとりひとりが確かに得られるような、そんな社会を築くことを目指してゆくべきではなかろうか。実に平凡に聞こえるかもしれないが、私はそう思う。

2014年7月16日 水曜日

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追伸:

文章をそれ単独で読んで理解する立場から離れて考えてみるのも良いかもしれない。たとえば、どういう状況に生きている人が書き、それまではどのようにして生きてきたか、そして(過去の文章であれば)書いた人はその後どのように生きていったか、という歴史である。視点をさらに展開させて、その文章が読む人によってどのように受けとめられていったか、時代の流れによってそれがどのように変わっていったかなど、歴史的な視点から資料を集めてみると、また違った理解が可能かもしれない。いわゆるメタ解析である。いずれは「末は小町」のメタ解析を試みてみたいとも思った。

しかし、今は7月、夏の真っ盛り、農繁期。照りつける太陽を浴びながらの畑仕事で多くの時を過ごしている。私自身にとっても切実な課題ではあるものの、「安心な老後」に関するさまざまな発言や考察に関するメタ分析はまたいずれかの機会に。

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田中正造の問題

 

2010年7月6日

 

宇都宮に出かける所用があり、空いた時間を利用して佐野を訪れた。

宇都宮から東武線で栃木へ。約40分。栃木から両毛線に乗り換え。といっても1時間にせいぜい1本ぐらいのローカル線のため、待ち時間が一時間近くもできたため、蔵の街栃木を散歩。駅前通には学習塾が並び、教育熱心な地域と感じる。

栃木から両毛線。宇都宮から栃木・佐野・足利経由で前橋・高崎に向かう両毛線。この鉄道に乗ったのはこれが初めて。前橋まで行って朔太郎ゆかりの利根川の畔も散策したかったが、今日は佐野と決めている。栃木から数駅で佐野へ到着。駅の北側が城山公園、藤原秀郷ゆかりの佐野城趾。

城趾の遺跡を巡った後、駅の南側に回って駅前通沿いでラーメン屋さんに入り、チャーシュー麺でお昼とする。チャーシューという言葉を聞くと、金子光晴が友達をチャーシューになぞらえた晩年の詩がひらめいて思い出し笑いしそうになる。当分この習慣が続きそうだ。

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日光例幣使街道(旧50号線)へ曲がって、秋山川を渡ってしばらくいってから左手に曲がると佐野市郷土博物館。

正面の一室が田中正造関係資料の常設展示。表装され巻物になっている「謹奏 田中正造」。正造の加筆訂正の墨の上に捺印の朱の色彩。幸徳秋水が「臣ガ狂愚」としたものを、「臣ガ至愚」と訂正捺印、そのほかにも多くの訂正加筆がある。

遺品の石3個も、有名なものであったが、今回初めて実物を見ることができた。その隣には菅笠なども展示されていて、正造の姿が偲ばれる。

田中正造関係地図の脇に、大正2年8月、病床にあった時に、「(見舞いの人々は)田中正造の病気に同情しても、田中正造の問題に同情している人はいない、帰ってもらえ」、と看護の女性に言った、と書かれていた。

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郷土博物館を出て、田中正造生家に向かった。7月の梅雨の合間。曇り空とはいえ、陽射しも明るく、30度を超える猛暑である。札幌暮らしに慣れた私にはこの炎天下を歩くのは厳しく、すぐにぐうの音をあげてしまいそうである。しかも当日は金曜日で、正造翁の生家は休館日(週に3,4日しか開館されない)。たどり着けても、中の資料などを見せてもらうことはできない。

270号線を北上し、菊川町の交差点までも歩けばかなり遠かった。日頃、白石サイクリングロードで鍛えているにしては、すぐに足の裏が痛くなって歩きが苦痛になってきた。

 

 

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237号へ左折。しばらくゆくと右手に榎木の大木と看板を見つけたので、道を渡って行ってみた。堀米地蔵堂。明治2年、正造29歳の時にこの地で手習い塾をしていたとのこと。明治39年、晩年の正造が木下尚江らを案内した当時の写真が看板になって掲げられていた。若き正造が手習いの師匠をしていた時分には「子供の手ほどの」小さな榎の木が、40年近くを経て大木に育っていた。計算すると、今ではさらにそれから104年、上の写真のように立派で元気なまま立っている。虫が食って中が洞になったりはしていないので、まだまだこれから。これからも地域の人々に守られて、そして地域を見守ってゆく榎木。

梅雨の時期とあって道沿いの溝の水は増水している。水は意外ときれいだ。あっと驚いたことには、足元を流れる溝に大きな真鯉が泳いできた。5,60センチはあろうか。増水で池から泳ぎ出てきたものかもしれない。私の田舎の近所の小川でも、梅雨の大水の後はよく、普通には見たこともないような大物が泳いでいたことを思い出す。佐野の237号線沿いの溝はせいぜい幅1メートル程度の小さな流れであるが、よく見ると10cmばかりの緋鯉や、同じぐらいの大きさのフナやコイのような魚が幾匹も元気に泳いでおり、水もきれいで、なかなか豊かな感じである。

足も痛くなり、のども渇いて、ほぼへとへとになりながら、正造翁の旧宅に到着。今度のコースは、余程の健脚か余程の思い入れのある方以外には徒歩では奨められない散歩道と言える。バスなどの公共交通機関も無いわけではないが、数時間に一本なので、時刻表に照らしてうまく往くことができても復路は歩かねばならないだろう。トラックは多く行き交うが、何時間も歩いてもこの街道筋ではバスやタクシーには行き会うことがなかった。私が佐野駅の案内所でもらってきた観光地図には距離が書かれてない。概念的な略図なので、意外と歩けば近いかもしれないという錯覚に陥る場合もあり、このように歩いてみようという無謀も(観光客によっては)やってしまうのかもしれない。ただし、当日は金曜日ということもあり、観光客と言えるような人には一度も一人にも会うことはなかった。

小中町の旧宅。

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ご覧のように小さな民家で、お隣・裏隣のお家も近接している。タクシーが停まる駐車場や観光バスを止めるスペースもない。よって、今回の私のように徒歩でやってくることが推奨され得ないとすると、自転車で訪ねるのがベストと思われる。
生家の道をはさんで向かい側には分骨されたお墓があり、今日も新しい百合の花が生けられていた。97回忌の卒塔婆、その隣にはカツ夫人の74回忌のものが立てかけられてあった。

翁のお墓の隣にあったブランコにすわってゆっくり考える。さて、私は、田中正造のお墓に詣でることはあっても、田中正造の問題に立ち向かうことはない、と正造翁から叱られないだろうか。

私の場合は、私の本業とする医学や生命科学、学問や教育の中でも、多くの人々を苦しめている難題が存在する。それらの問題のどれか本当に大切な問題を見つけ、それに本当に真摯に立ち向かい闘い続けることが、正造翁の遺志に添うことだと思う。私が、がんの治療法の研究を始めて、今年が30年目に当たる。何とか結果が出せるよう、あきらめないで、さらに少しだけでも続けてみたい。

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佐野の郷土博物館で見せてもらった資料によると、渡良瀬川の大洪水の折にも、ここ小中町までは洪水が押し寄せなかったという。洪水が広がったのはここから南側の地域である。次回、もし機会があったら、渡良瀬川流域、谷中方面もできるだけ広範に歩いてみたいと思う。また、足尾の方も訪ねてみたい。健脚とも言えないので、やはり自転車の旅を計画すればよいのだろうか。

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正造翁の旧家を少し先に進むと、増水した濁流の旗川に出た。今回の歩きはここまでということにして引き返す。

途中、人丸神社にもお参り。池の睡蓮が美しかった。これからは諸国の柿ノ本人麿のゆかりの地にも是非足を伸ばしてゆきたいものだ。(去年の7月は太宰府辺りをたっぷり歩くことができた)

帰りは菊川町交差点で237号を直進し、佐野の街の北側を歩いて佐野駅の南口へ。佐野の歩きが5時間にも及び、強行軍であった。(弱音を吐いては、正造翁に叱られそうで、頑張らねば、と思うのだが。) 栃木に着いた頃から雨が降り出し、東武宇都宮線では、雷と大夕立。宇都宮駅前で名物の餃子のお店に入って雨宿り。出てきた頃にはほぼ雨上がり。少し運が良かった。

旅から帰って、着ていたノースリーブの下着を見てみれば、汗が乾いて白い塩の線となり、それが何本も等高線の地図を描いていて、すさまじい発汗量であったことがわかって面白かった。

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以上、2010年7月6日付けWEBページより再掲

 

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教育の核心: 民主主義を育てる

2010年4月29日(昭和天皇誕生日・祝日)木曜日 雨・みぞれ

今日も昨日に続いて、雨、ないしみぞれのような雪。4月も最終週に入ってからの雪は、さすがの札幌でも珍しい方かも知れない。

さて、

民主主義を育てるには私たちはどうしたらよいのだろうか。

一番大切なことは、私たちひとりひとりが自分の考えを持ち、意見を述べることだ。それができるようになるために十分な教育を、自分自身にも、そして子供たちにも、市民ひとりひとりにも、授け、かちとることが必要だと思う。これが、人間の教育の最も核心となる本義である。

意見としては、主張を述べるだけでは足りない。なぜ、そのような主張・結論に至るのか、その根拠が明確に述べられなくてはならない。その際、自分の意見とその根拠を述べるだけでなく、他者の異なった意見・そしてその根拠も考慮されて比較検討する視点が(すなわち、一人の人の意見や視野の中で考慮されることが)必要である。なぜなら、そもそも意見を述べる限りは、別の異なった意見があることが前提になっているからだ。全人類がすべて一致しているような事柄を意見として取り立てて述べるような状況は、それ自体が陳腐で意義がない、あり得ない状況だろう。意見・考えというものは、その性質上、他者との意見考え方の不一致があるからこそ、語られることになるのである。

民主主義が成り立つためには、各人の意見が平等に尊重されなければならない。少数意見を持つ人の考えも十分に述べられ、聴かれなければならない。そのうえで、十分な議論が行われることが必要である。多くの誤りや誤解が見つかることが通常である。意見の交換が十分になされない限り、誤りが気づかれない危険がある。

この時、各人に、広い視点からの、偏らない、十分な情報が平等に与えられることが必須である。この部分が大切であり、古来うまくできてこなかった。権威に寄り掛かることは、自分の意見を形成する上でも、極めて危険である。大学などの高等教育で誤ったことがあたかも正しいかのように教えられることが多いことを各人が銘記すべきである。マスコミがプロパガンダの発信器になっていることも多い。インターネットの普及によってかなり楽になってきたとはいえ、多くの情況で、情報源の偏り・正確な情報の偏在などが、問題の本質をみえなくさせている原因である。

情報が与えられ、多くの議論がなされたあと、各人がそれぞれ自分一人で十分に考える時間が大切である。

そのあと、民主主義では、多数決という手段を取る。

多数決によって正しい結論が得られるという保証はどこにもないことを銘記すべきである。ただ、私たちはできるだけ正しい選択をなすことができるよう、多数決によって適正な結論に到達する確率を少しでも上げられるよう、ポイントを押さえて努力してゆく必要がある。

多数決では、一票が平等に一票であることが民主主義にとって必須である。

この際、それぞれ各人が独立して投票することが必須である。有力者などが派を作って多数決の票の取りまとめをしている場合には、各人が自分の考えを正確に反映した投票行動に結びついていない。これによって一票の平等性が損なわれ、多数決によっては誤った選択につながる可能性が高まる。

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全員一致の誤謬:

全員一致の採決結果は常に危険を孕んでいる。

多くの場合、情報が偏っており偏った結論が誘導されていることが考えられる。議論が不十分であったり、一人で考察する時間的ゆとりがなくて結論や採決が急がされていることも要因である場合がある。

全員一致になりそうな議論に関しては特に、敢えて、反対の意見を考えてみる、そしてその根拠を考えてみる、それを自分の意見・根拠と比較検討してみる、そのような試みを常に行っていく姿勢が大切である。

多くの場合に、より多くの広い・深い情報の追加が必要なことに気づくであろう。自分自身との対話だけでは不十分であれば、他者とのディベート的対話も自己啓発のためには必要であろう。

若い人たちには、特にお願いしたい。敢えて、自分とは反対の意見を考えてみる、そしてその根拠を考えてみて欲しい。

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重ねて、

教育において、

民主主義の担い手になる一人一人を育てていくことが教育の核心である。自分自身の教育においても、そして、初等教育はもちろん、大学教育や市民の教育においても。

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以上、2010年4月29日付けWEBページより再掲

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