土の皇帝チェルノーゼム 藤井一至 100億人を養う土壌を求めて(2)

2019年1月5日 土曜日 曇り時々雪(天気予報通りというか、時々吹雪き)


藤井一至(ふじいかずみち)土 地球最後のナゾ 100億人を養う土壌を求めて 光文社新書 2018年


6) 土の皇帝 チェルノーゼム氷河期は、寒く乾燥する期間と温暖で湿潤な期間を順番に繰り返す。乾燥期は植物が少ないため、地面は風による浸食(風食)を受けやすい。風に舞った砂塵(風成塵)は壮大な世界旅行に繰り出すことになる。(同書、p95) 

数百万年にわたり北欧で削られた土砂は、風に乗ってはるばる東欧のウクライナ、ロシア南西部あたりに堆積した。一方、北米ではプレーリー地帯に砂塵が堆積した。やがて気候が温暖になると草原由来の腐植と砂や粘土が混ざり合い、世界有数の肥沃なチェルノーゼム(黒土)が発達した。(同書、p96) 

大雑把に分類するとどれもチェルノーゼム、草原下に発達する黒い土だ。私たちの食べるパンの材料、小麦の多くはここから届けられている。(同書、p97) 

・・同じ黒さでも日本の黒い土や泥炭土とは異なり、ずしりと重い。というのも、チェルノーゼムは、粘土や砂の粒子の表面を覆うように腐植がくっついている。腐植も粘土も砂もバランスよく配合されている。表土は酸性でもなければ、アルカリ性でもない。中性だ。土は、雨が多ければ酸性に、雨が少なければアルカリ性に振れやすい。酸性でもアルカリ性でもない土は、世界にそう多くない。小さな奇跡だ。(同書、p98) 

夏場に乾燥するプレーリー地帯では植物遺体が分解しにくく、腐植として安定化する割合が高い。(同書、p99-100)

・・(プレーリードッグやジリスによって)上下の土が混ぜ込まれることで、深くまで腐植のある肥沃な土となる。風に運ばれて堆積した細かな砂塵、草原の根、夏に乾く気候、ミミズにジリス。世界で最も肥沃なチェルノーゼムが生まれる条件は少なくなかった。肥沃な土をつくるのは、簡単なことではなかったのだ。(同書、p101)

**


********************************************

小浜逸郎 日本語は哲学する言語である(3)

2018年12月31日 月曜日 曇り時々雪

小浜逸郎 日本語は哲学する言語である 徳間書店 2018年

・・日本語の文法学的な事実のいくつかにメスを入れることで、日本語が人間探究の学としての「哲学」によくかなっているさまをさらに解き明かすことにしましょう。情緒的だから哲学に向かないという、欧米スタンダードにもとづいた評価から少しでも脱却すべく。(小浜、同書、p164)

**

品詞分類批判

・・文をその構成要素にまで分解し、それらを組み合わせて、再統合されたものとして文の構造を理解するという近代西洋由来の文法学の方法それ自体が、日本語について考えるのに適していないのではないか。(小浜、同書、p167)

**

本居宣長の「玉と緒」

時枝誠記(ときえだもとき)の詞辞論 

「詞」が宣長のいう「玉」に、「辞」が「緒」に該当する。

小浜流に言い直すと、詞は、「客体化・対象化の過程を経た語群の形式」、辞は、「客体化・対象化の過程を経ずに主体の情意が直接的に表出された語群の形式」。

日本語は、細かく単語に分解し、それに一つ一つの品詞分類を伴わせることには向かない言語。(小浜、同書、p171)

厳密に「詞」(品詞)と呼べるものは、名詞、動詞、形容詞の三つ。(小浜、同書、p186)

**

・・特に辞に相当する言葉、および動詞の一部や特殊な名詞においては、同一音韻、同一アクセントの語は、偶然の一致を除き、品詞や用法が違っても、もとをたどればほぼ同じ観念やことがらを表している。(小浜、同書、p186)

*****

2019年1月1日 火曜日 曇り時々雪

補註 お正月、ゆっくりと日本語や英語の文法や語彙の語源を調べたり、ドストエフスキーの小説(Idiot、英訳のオーディブル版)を聴いたりして過ごしている。

初詣は大谷地神社に参る。境内には幾種類もの松やトウヒなどの針葉樹が自然樹形で堂々と立ち並んでいる。この地が先祖の人々によって開拓されてから早、百数十年の月日が流れ、この松たちも風雪に耐えながら巨木に育ってきたことを念う。

*****

繰り返しますが、いわゆるテニヲハは、音韻が同じなら、後の文法学がどんな精密な整理や区別を施そうと、原初的には同じ観念を表していたと推定できるのです。アルカイックな時代には、生活も衣食住を中心にした単純素朴なものだったでしょうから、身体とその周辺の動きや状態、様子などにかかわるものが多かったと考えられます。(小浜、同書、p218)

**

 コソアドが・・厳密に区別されて使われるということは、やはり日本語が、・・その時々の相手との関係を重んじる言語であることを示しています。・・このことは、・・言語の本質、つまり、言葉とは、情緒を基礎とした関係の創造、維持、時には破壊のために音声表出することであるという定義にかかわることです。(小浜、同書、p223-224)

日本語の人称詞の、これらの複雑な転換・転用は、やはり、いつも相手の立場に立つ、または「向き合っている」という関係を過度なほどに意識する修正から来ていると考えられます。(小浜、同書、p226)

 こうした面、つまり基本的な人間関係の認識をしっかりさせるという意味では、日本語はけっして論理的でないとは言えません。コソアド体系の存在は、むしろその部分が堅固にできている証左だといえるでしょう。ただ、手前、お手前のように、相手の立場に配慮するあまり、かえって人称の使い分けを難しくしているとも言えます。この難しさを克服するためには、単に「認識の発達」を促すだけでは足りず、長きにわたる深い情緒的な接触を通して、「関係の発達」を促すようにしなくてはならないでしょう。(小浜、同書、p228)

********************************************

小浜逸郎 日本語は哲学する言語である(2)

2018年12月30日 日曜日 曇り時々雪

小浜逸郎 日本語は哲学する言語である 徳間書店 2018年

「こと − もの」問題

「こと」とは、語ることができ、語られるに値するはっきりとした輪郭を持った物事、あるいは、もう語られてしまって、共同体のメンバーたちに共有されている物事であり、

「もの」とは、それと対極にあって、語られるべき素材はそこにあるのに、まだうまく「言」にまで育っていず、そのため共同体が、なんとなくぼんやりとしたイメージでしかとらえられていない物事、

 ・・このように「こと」と「もの」とを分けることによって、そこに、ある共同体の生活が何によって安定を得、何を恐れ、何に対して夢や気体や不安を抱くか、そのプロセスを理解するためのヒントが得られるでしょう。(小浜、同書、p106)

**

「ひと − もの」問題

・・日本語的思考は、「もの」に関心を寄せる場合でも、それを死んだ自然として対象化するのではなく、必ずなにがしか「ひとびと」への関心に引き寄せようとします。その引き寄せの媒介をなしているのが、情緒の作用なのです。(小浜、p115)

 ・・言葉とは、西欧人が考えたようにロゴスではなく、むしろ日本人がとらえたように、「言霊」なのです。この把握の仕方は、言葉を発するもの、受け取るものにとっての魂のやり取りを意味しています。ですから、それは単に世界のありさまを写し取るものなのではなく、人と人との交流の姿そのものなのです。・・ 西欧の言語哲学が、その研究対象を、論理的に整序された陳述形式に過剰なほどエネルギーを集中させるのに対して、日本語による言語哲学は、その関心を、日常の共同的なやり取りそのものにまなざしを注ぐのです。(小浜、同書、p118)

**

 ・・では日本語で(を)哲学するというとき、何をどのようにすればよいのか。

 西洋的な言葉の運びに制約された「哲学」という言葉のこれまでのイメージを変えるのです。哲学的(論理的)思考一般から離れるのではなく、それを駆使しつつ、日本語の語彙、文法構造、言い回しなどの独特さがはらんでいる人間把握、世界把握のあり方を解明し、それによって、新しい思考の地平を開いてみせるのです。(小浜、同書、p108-109)

*****

********************************************

小浜逸郎 日本語は哲学する言語である

2018年12月29日 土曜日 雪 昨日、バッテリー修理に出していた私の MacBookAir2015 が返送されてきた。久しぶりにバッテリー切れにほとんど煩わされることなくデスクワークが継続できることになった。さらに、本日、読書用メガネのレンズを新調し、再び、すぐには眠くなることなく本を読んだりキーボードを叩いたりできるようになった。久しぶりの覚醒 awakening である。

**

小浜逸郎 日本語は哲学する言語である 徳間書店 2018年

日本語が世界をどのようにとらえているかという問題。(小浜、同書、p74)

日本語の特質のうち、世界把握の仕方という点で、特に重要と思える三つのテーマ:

1 「いる − ある」問題

2 「こと − もの」問題

3 「ひと − もの」問題 (小浜、同書、p74)

**

「いる」は、その語られている状況に自分自身がひそかに参入して、その状況と「私」とが親しく居合わせていることを表しています。(小浜、同書、p77)

「ある」は、こちらから距離を取り、当のモノや人を突き放して客観的に眺めたときの、存在や様態を表す表現なのです。(小浜、同書、p83)

このような「いる」と「ある」の区別が日本語にあって、欧米語にないという事実は意外に重要で、日本語が、よくも悪しくも周囲との情緒的関係を大切にする言語だということを象徴しています。(小浜、同書、p83)

**

*****

********************************************