カテゴリー別アーカイブ: biography

Hastings, The Secret lives of Somerset Maugham

2017年3月27日 月曜日 晴れ

Selina Hastings, The Secret lives of Somerset Maugham, John Murray, 2009

オーディオブックは、私が簡単に捜した限りでは、今のところ出版されていないようである。

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補註 本書はモームの伝記の最新版。

補註 モームのお母さん:
 本書にはモームのお母さんの写真が一枚掲載されている。’The charming and beautiful Edith Maugham’、モームのお母さんの写真を見たのはこれが初めてである。たとえば、オースティン本を何冊も読み進めていても、 pretty とか、 handsome とかいう表現にはしばしば出会うものの、めったに charming とか beautiful という形容詞には出会えない。
 ’Edith Mary Snell, a ravishing young woman sixteen years his junior’ (ibid., p2) という形容で初登場する。彼は、モームのお父さんのロバートで、パリのイギリス大使館で仕事をする事務弁護士、当時39歳。ということは、エディスは23歳の頃となる。美女と野獣のカップルである。
  ravish は、三省堂英語語義語源辞典によると、(通例受身で)人を狂喜させる、うっとりさせる、物を無理に奪い取る、語源は「ラテン語 raopere (=to seize by force) から派生した古フランス語 ravir (=to ravish) の語幹 raviss- が中英語に入った」とのこと。a ravishing young woman は、美しさに関して、動的な表現であり、その最上レベルの形容と言えるだろう。
  ‘Such a eulogy almost certainly owes more to flattery than fact — however cultured and charming, it is unlikely that an English solicitor’s wife would be received by the Duchesse de Guermantes — but it is nonetheless clear that Edith Maugham was a woman of exceptional allure.
 allure は動詞として、「えさなどでおびき寄せる、魅惑する」、名詞として「魅力」。上記の ravishing とほぼ同じ効果を持つ名詞表現であろう。

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チャペック評伝:独創性は、次の財産を作るために利用されるべきだ

2017年1月7日 土曜日 晴れ

飯島周 カレル・チャペック小さな国の大きな作家 平凡社新書 2015年

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カレル・チャペック自身について
「(文学的)独創性は個人の財産ではなく、次の財産を作るために利用されるべきであり、わたしは自分自身のために作品を書いているのではない」(カレル・チャペック自身について1925年、飯島、同書、p36)

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カレルの「お話」に関する考え方
「お話」とは「楽しい語り」であり、何よりもまず「行為」、すなわち言葉による「創造的行為」であって、現実の存在または非存在には依存しない世界を作り出せる、とする。(お話の理論1930年、飯島、同書、p47)

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モンテーニュの試みの書「エセー」

2017年1月5日 木曜日 雪

大久保康明 モンテーニュ 人と思想169 清水書院 2007年

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モンテーニュの試みの書「エセー」

「試し」= essai(エセー)

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開かれた態度としての懐疑
・・そして今日では、コペルニクスがこの説を立派に根拠づけ、あらゆる天文学的結果に適合するようそれを用いている。だが、ここからわれわれが学ぶべきは、これら二つの説のうちどちらが正しいかという問いは重要でないということである。それに、今から千年後、第三の意見が出て、先の二つの意見を覆さないとは限らないのではないだろうか。(エセー「レーモン・スボン弁護」、同書、p135)

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モンテーニュの文体
 わたしの好きな言葉使いは、口に出しても紙に書いても同じような、単純で、自然のままの言葉使い、充実して力強い、短くて引き締まった言葉使い、・・スエトニウスがユリウス・カエサルの言葉使いをそう呼んでいるように、兵士風の言葉使いである。・・新規な言い回しや聞き慣れない言葉を探し回るのは、子供っぽい、学を衒った野心から来ることで、私はといえば、できればパリの中央市場で使われる言葉だけで済ましたいくらいだ(一,二六)(同書、p160-161)

鋭い逆説的表現
モンテーニュの文体: その変化の幅の広さがその特徴をなしている(同書、p169)・・淡々とした文章のところどころに、強調をねらった畳みかけ、緊張感を孕んだ対比的表現、意外な観念の結びつきを示す言葉遊びなどが挿入される。(同、p169)

 何度わたしは、罪より罪深い非難を目にしたことか(三,一三)

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トルストイ 生きることの意味を求めて

2017年1月4日 水曜日 曇り・雪

八島雅彦 トルストイ 人と思想162 清水書院 1998年

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トルストイ 生きることの意味を求めて
神への奉仕とは何かーーーそれは価値の尺度をただ神だけに求め、神の前によりよい自分を築き、自分の中に愛を発現していくことにほかならない。

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最初のヨーロッパ旅行
・・どちらの思い出においても、トルストイの脳裏に刻みつけられたものは、文明と呼ばれるものが持っている残酷で野蛮な側面であった。・・・(中略)・・・ そこで彼は生まれて初めてギロチンによる死刑執行を目撃したのだった。その衝撃は信じがたいものであった。パリの魅力はすっかり色あせてしまった。・・このヨーロッパ旅行の印象は結局パリで見たギロチンに集約されるものだった。
 犯罪人を罰として八つ裂きにすることは残酷なことではあるが、理解できることだ、とトルストイには思われた。だが、八つ裂きにするのは野蛮だという理由でギロチンが開発されるという文明の進み方が、トルストイには理解できなかったし、理解したくもないことだったのである。

祖国ロシアの姿とその進むべき道
・・けれども、トルストイはこの国でやっていこうと思った。ここを足場として、ここから出発しようと考えた。変革は必要であるが、それはヨーロッパの真似ごとをすることではないということがヨーロッパから帰ったトルストイにはもうはっきりしていた。(同書、p35-36)

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生きることの意味を求めて
・・彼ら(農民や巡礼や行商人たち)の暮らしは信じがたいほどに貧しかった。しかし、彼らは快活に生きており、その快活さは真実に気づいていないための快活さではなく、反対に、トルストイの知らない真実を知っているがゆえの快活さであるようにトルストイには思われた。・・こうしてトルストイは生きるために、生きていける状態を取り戻すために、民衆と一体になる生活へと入っていったのだった。(八島、同書、p62)

信仰の意味
・・そのどこにも楽しみらしいものの見当たらない暮らしの中で、しかし彼らは決して善良さを失うことがなく、死をも静かに受け入れるのだった。彼らの生活を支えていたのは無知でも、根拠のないオプティミズムでもなく、ほかならぬ神に対する信仰だったのである。神にはこうなるのがよいのだと、彼らは労働も不幸も災難も、そして自分たちの死さえも受け入れた。神に必要なことであってみれば、それらを受け入れることは喜びだったのである。・・・(中略)・・・ 民衆の信仰が教会に由来していることは否定できなかったが、教会の求める信仰は、民衆の信仰とは明らかに異なっていた。(八島、同書、p62-63)

生活の回復
そんなトルストイの中に、いつしか、信仰とは神を求めようとすることにほかならないのではないかという考えが生まれ、それが次第に固まってきた。神を求め続けること、それこそが生きることなのではないか、と。(八島、同書、p63)

・・神を求めることが信仰であるとすれば、信仰の最大の妨げとなっているのが、ほかならぬ教会であるように思われてきたのである。しかも、それは偶然そうなっているのではなく、教会は故意に本来あるべき信仰を妨げているのだった。(同、p64)

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では、自分で考えた人間が本当の答えを知りたいと思うのはなぜだろう。それは自分の目と頭を信じているからなのだ。・・自分の目と頭に対する信頼が大きければ大きいほど、本当の答えを知りたいという欲求も強くなる。そこに創造の可能性も開けてくるのである。・・大切なのは、自分の目を信じることのできる人間、自分の思考を信頼できる人間をつくることなのであり、それこそがトルストイの教育の最終目標になっていると考えられるのである。(同、p112)

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もし彼らに本当の信仰があるなら、彼らは、信仰とは生命の意味であり、人それぞれが神との間に確立する関係であって、それゆえ信仰は教えられないこと、教えられるのは信仰の欺瞞だけであることを知っているはずである。(同、p124)

欺瞞の源泉
・・この逸脱はキリストの使徒たち、なかでも教育好きのパウロの時代から始まっている。そしてキリスト教が広まれば広まるほど、教義はますます逸脱していき、キリストによってあれほどきっぱりと否定を表明されている、ほかならぬ外面的敬神と教育活動の方法をわがものとしていくのである。(同書、p125-126)

事業としての教会
コンスタンティヌスとニカイア公会議以降、教会は事業に、そして欺瞞の事業になっていくのである。(同、p126) 始まりは悪であったーーー憎しみ、人間の高慢、アリウス(補註##)その他に対する敵意であった。そして、もう一つの、さらに大きな悪がキリスト教徒と権力との統一である。権力、すなわち・・コンスタンティヌスがキリスト教を受け入れ、・・公会議によって唯一正当なキリスト教信仰を確立するのである。(同書、p126-127)

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人間の務め
みなさんの心の主要な願望が自分自身がよくなることであるときには自分自身を信じることだ。私が言うのは完成ということではない。なぜなら、自己完成ということには、何か自愛心を満足させるような個人的なものがあるからだ。私が言うのは、われわれに生命を与えた、その神の欲するものになることであり、われわれの中に埋め込まれている、神に似た根源を自らのうちに開示して、百姓たちが言うように神に従って生きるということなのだ。
 自分自身を信じ、すべての力を一つのこと、自分自身の中に神を現すということに向けて生きることだ。そうすれば、みなさんは、自分の幸福のためにも、世界全体の幸福のためにも、自分にできることはすべてすることになる。神の王国とその真実を探せば、あとはひとりでにうまくいくものだ。そう、みなさんの心の中に、自分は神から生まれたものだという意識の光が最初に燃え出すきわめて重大なときには、自分自身を信じることだ。その光を消すことなく、全力で守り、燃え上がらせるようにすることだ。このことにのみ、この光を燃え上がらせることにのみ、あらゆる人の人生の唯一の偉大で喜ばしい意味があるのだから。(トルストイ「自分自身を信じること」(1906-1907)、同、p193-194)

神への奉仕
「神の国は汝らのうちにあり」で、トルストイは「人類」という観念に奉仕するのは誤りであるとはっきり述べている。それは漠然とした観念であり、実際問題として、時間的にも空間的にも人類全体を把握することができない以上、「人類」という観念の前では、人はどうしても恣意的な行動しかとることができない。だから、「人類」に対してではなく、「神」に奉仕せよとトルストイは説くのである。「人類」に対する奉仕がしばしば人間同士の争いを引き起こしかねないのに対し、神への奉仕は決して人類に害悪を及ぼすことはなく、結果的に人類に幸福をもたらすことになるのだ、と。そう、人類の幸福は結果であって目的であってはならないのだ。
 では、神への奉仕とは何かーーーそれは価値の尺度をただ神だけに求め、神の前によりよい自分を築き、自分の中に愛を発現していくことにほかならない。一人の人間には結局それ以上のことはできないし、それ以外のことは求められていない。だから、ただ神の声としての自分自身の内なる善の声に耳を傾けなさいーーーこれが若者たちに対するトルストイの最後のメッセージだったのである。(同、p197)

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補註## アリウス ウィキペディアによると・・・
アリウス(Arius、250年 – 336年)は、アレクサンドリアの司祭で、古代のキリスト教アリウス主義の提唱者。325年、第1ニカイア公会議にてコンスタンティヌス1世はアリウスの広めた教えを異端とし、アリウス及びその同調者の破門を正式に決定した。その後、ニコメディアのエウセビオスの仲裁などにより復帰を許されたが、コンスタンティノープルで336年死亡した。
 アリウスは、子なるイエス・キリストが生まれた者であれば父なる神と同質ではありえないとするユダヤ教同様の厳格な唯一神教(ヘテロウシオス)を説いたのに対し、アタナシオスらニカイア派はキリストの誕生を人間のそれと同一に考えるべきではないと、三位一体論を説いた。
325年のニカイア公会議でアリウスの教えは異端とされ、その際採択された『ニカイア信条』により神である父と子であるキリストは同質であることが確認された。一応の決着は見られたが、その教えを信奉するアリウス派は多く、その死後もアノモイオス派、ホモイオス派、ホモイウシオス派の三派に分裂しつつも、勢力を保った。
しかし381年の第1コンスタンティノポリス公会議において、ニカイア信条が有効であることが再確認され、さらに451年に開催されたカルケドン公会議において再度異端であることが確認された。(以上、ウィキペディアより引用)

補註 アリウス派 ウィキペディアによると・・
アリウス派の主張内容については、「イエス・キリストの神性を否定した」とも、あるいは「イエス・キリストは神的であるとは言おうとしていたが、その神性は神の養子とされたことによる」とも、「イエス・キリストの人性を主張し、三位一体説を退けた」とも言われる。
 ただし、「人性の主張」との要約についてはやや正確さを欠くもので、アリウス派と対峙したニカイア派(アタナシオス派)も、イエスの神性と人性の両方を認めている。さらに、「神性を否定した」については、先述のように「神的であるとは言おうとしていた」と評される事もあり、議論が分かれる。
 なお、アリウス派と対峙した、いわゆる正統派となった派を「アタナシオス派」(もしくはラテン語から転写して「アタナシウス派」)と呼ぶ例が高校世界史で一般的であるが、こちらの派もアタナシオスが創始したわけではない。実際、初期にアリウスと対峙し、アリウスを破門したのはアレクサンドリアの主教アレクサンドロスである。そのため、専門書では、いわゆるアタナシオス派はニカイア信条から名をとって「ニカイア派」などと呼ばれる。<以上、ウィキペディアより引用終わり>

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アッシジのフランチェスコ

2017年1月2日 月曜日 曇り

川下勝 アッシジのフランチェスコ 人と思想184 清水書院 2004年

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尊敬と協調 回教徒や非キリスト教徒のもとに行く兄弟について
・・その宣教を「霊的に生きる」ことであると定義している。しかも、語ることよりも生きることが優先されている。  かれの考えに従えば、「霊的に」という表現は、自己中心的な考えや生き方から脱却することを意味する。・・さらに、一切の口論や争いをすることなく、信条を異にする人々との協調の中で生きなければならず、そのように生活した上で、もし神の望みにかなっていると考えた場合には、キリストの教えを伝えるように、と説くのである。  この短い文章には、フランチェスコの他宗教とその信徒たちへの深い尊敬とかれらと平和のうちに生きようという強い願望が現れている。(川下、同書、p99)

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物質軽視と肉体軽視 vs フランチェスコの自然とのかかわり
キリスト教の中に根強く残ったプラトン主義的二元論の流れと自然を戦いの相手とみる傾向は、中世キリスト教の中で、無意識のうちに、自然、物質、肉体を軽視し、敵視する土壌を作っていったのである。・・フランチェスコの小鳥への説教や狼との対話の逸話は、自然を悪としてではなく、神が創造した良いものとして捉えたかれの自然観を、象徴的に表しているといえよう。(川下、同書、p116)

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償いの兄弟・姉妹の会には、どのような階層の人でも入ることができた。ここにも、フランチェスコが大切にしていた「すべて兄弟である」という理念が生きていた。・・この会は、歴史の経過とともに世界の各地で設立されることになる。会員には、十字軍従軍中に死去したフランスのルイ王やラファエロ、ミケランジェロ、ムリリョ、コロンブス、また近世ではヴォルタ、パレストリーナ(補註*)、リストなどのような人々がいる。(川下、同書、p129-130)

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クリスマス、キリスト降誕のミサ
クリスマスのミサをこのように写実的に捧げる習慣は当時すでにあったことが知られている。この習慣が世界的な広がりを持つようになるのは、グレッチオでの深夜ミサからであろう。フランチェスコの弟子たちは、キリストの言葉を携えて、世界各地に赴くが、かれらは自分たちの師父にならってこの心温かい習慣を広めたのである。(川下、同書、p135)

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人々を魅了するもの
・・この有能な弟子に、それは私が誰よりも罪深く、人間の中で一番みじめだからだよ、とフランチェスコは答えた。(川下、同書、p142)

補註 フランチェスコ・・キリスト教史上で最も魅力的で、しかし(この本で伝記を読んだ程度では)私には理解できていない人・・これからもう少し踏み込んでいきたい。

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ルネッサンス以降、十九世紀までは、絵画の世界以外では、フランチェスコは重要視されなくなる。ヨーロッパにおける宗教改革に伴うキリスト教の分裂は大きな悲劇をもたらすことになる。(補註##)(川下、同書、p143)・・ 十八世紀になるとフランチェスコに対する興味が蘇り始め、十九世紀には文学の世界で取り上げられるようになる。特にドイツとフランスでは顕著であった。またカトリック教会と距離を置いていた学者や文学者の間でフランチェスコの研究が盛んになったことは興味深い。フランスのエルネスト・ルナン、ポール・サバティエ、ドイツのヨゼフ・ゲレス、カール・フォン・ハーゼなどはその代表的な人々である。(同、p144-145)

補註## フランチェスコの徳が及ぶことなく、300年後には激しい宗教改革戦争と世界侵略の嵐へと突入していくのはなぜか。

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補註 Question
巻末の年表によると・・
フランチェスコ、エジプト・パレスティナ・シリアへ伝道に出かける(1219-1220)、とある。この伝道は具体的にどのようなものであったのだろうか。フランチェスコはどのように生きたのであろうか。

補註 Question 
十字軍について調べておきたい。

補註 Question
巻末の年表によると・・フランチェスコ、1226年10月3日、ポルチウンクラで死去、10月4日、聖ジョルジョ教会に埋葬される。1230年、聖フランチェスコ大聖堂の建立、フランチェスコの遺骸、大聖堂に移される、とある。しかし、写真で見ると、聖フランチェスコ大聖堂は石造りの巨大な建築で、完成までには少なくとも数十年から百年はかかりそうな建物である。従って、当該年表の記載には若干の修正ないし注釈が必要であるかもしれない。
ウィキペディアによると・・・サン・フランチェスコ大聖堂(Basilica di San Francesco)は、1228年に教皇グレゴリウス9世によって建築が始まり、1253年に一応の完成をみたと言われている。・・その後、何度も改修が行われて現在の姿になった。聖堂は、町の北西の斜面の上に建ち、斜面を有効に利用するため建物は上下二段に分かれている。上堂部分はゴシック様式、下堂の部分はロマネスク様式・・とのこと。

フランチェスコの信仰生活のスタートは、教会の修復から始められたのであるが、たとえばこの聖フランチェスコ大聖堂など巨大な教会施設などの新規建立について、フランチェスコならどのように受けとめたのであろうか。あるいは、取り組んだのであろうか。

補註 Question
古代の建築に関して、技術面(工学・安全設計)、そして経済(財政・収支)を含めて、総合的に調べておきたい。特に経済に関しては、富(財)がどのような流れで流れ込んだか、どのようなひずみを生んだか(生まなかったか)など、ミクロではなくセミ・グローバルな観点から理解したい。

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補註* パレストリーナは誰?
・ヴォルタ(18世紀後半-19世紀)とリスト(19世紀)に挟まれて記載されているパレストリーナなる人物は、文脈上からは、19世紀の人物と思われる。従って、ジョヴァンニ・ピエルルイージ・ダ・パレストリーナ(Giovanni Pierluigi da Palestrina, 1525年?-1594年2月2日)は、イタリア・ルネサンス後期の音楽家(16世紀)ーーーとは違う人物のようである。有名人のようだが、誰を指しているのか不明である。
・ アレッサンドロ・ジュゼッペ・アントニオ・アナスタージオ・ヴォルタ伯爵(Il Conte Alessandro Giuseppe Antonio Anastasio Volta、1745年2月18日 – 1827年3月5日)。
・ フランツ・リスト(ドイツ語: Franz Liszt、ハンガリー語: Liszt Ferenc、1811年10月22日 – 1886年7月31日)。

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