カテゴリー別アーカイブ: culture & history

大地の五億年 せめぎあう土と生き物たち

2017年9月29日 金曜日 曇り一時雨

藤井一至(ふじいかずみち) 大地の五億年 せめぎあう土と生き物たち ヤマケイ新書 2015年

「実際に2億年前のジュラ紀に多かったのは、ブラキオサウルスなど、低酸素環境に適応した、より大型の恐竜たちである(火山活動などにより、大気中の酸素濃度は上下し、3億年前には35%だっと酸素濃度は10パーセントまで低下していた)。(藤井、同書、p57)」

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「森は海を育てる」という言葉は有名だが、一説では、溶存有機物に結合した鉄(フルボ酸鉄)が山から運ばれ、海の生きものたちを育むと考えられている。「森は海の恋人」であるなら、溶存有機物は森からのラブレターといえるかもしれない。(藤井、同書、p123)

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カメラがとらえた被曝者

2017年8月29日 火曜日 夕方また強い雨

樋口健二 これが原発だ カメラがとらえた被曝者 岩波ジュニア新書194 1991年

・・ましてクリーンで安全ならけっこうなことではないかと、単純に考えていたのです。
 ただひとつ気になったのは、「安全だ」「クリーンだ」「次代をになう第三の火だ」というバラ色の宣伝文句がかもし出す「あやしさ」でした。それは四日市で味わった「百万ドルの夜景」というバラ色の宣伝文句の裏に隠された悲劇のドラマを思いださせるからです。(樋口、同書、p43)

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・・岩佐さんは私に「一回こっきりの取材だったら迷惑です」と痛烈な言葉を投げつけてきました。私は打ちのめされるような衝撃を受けました。予想していたとはいえ、ショックでした。しかし、私には岩佐さんの気持ちがよく理解できました。自分はしっかり話を聞いて、真実をつかもうと思いました。(樋口、同書、p55)

・・一九七四年という時代は、原発を躍起になって推進していたときでもあり、すべてを「安全」で押しとおす原発管理体制を打破することはできませんでした。政府と日本原電はさまざまな「権威」を使って、第一審(大阪地裁)、第二審(大阪高裁)とも岩佐さんの訴えをしりぞけ、今日にいたっています。(樋口、同書、p59)

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・・被曝の事実はあっても、家族にすら被曝線量は知らされていません。かりに知らされたところで、年間五〇ミリシーベルトを超えていなければ国際放射線防護委員会(ICRP)で決めた数値だから被曝はありえないと開き直るのが、いま(補註:この本の執筆当時の一九九一年頃)の原発推進側の論理なのです。(同書、p76)

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・・するとその医者は「あんたら早く田舎へ帰ってくれ、カルテにほんとうのことを書いたらわしはこの町(補註:福島第一原発の近くの町、おそらく双葉町)におれなくなる」とおびえたといいます。原発管理会社の巨大な力が、原発現地の医者たちまでも圧迫している姿が浮かびあがってきます。(樋口、同書、p82)

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・・このような純朴な人たちを多数原発に送り込み、放射線被曝を宿命とする労働がないかぎり、原発はやはり一日たりとも動かないのです。(樋口、同書、p98)

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私はあくまでも労働者の視点に立ち、原発を見つめようとしています。原発側では、都合のよい場所だけを見せ、安全性を誇張したいと考えるにちがいありません。(樋口、同書、p116)

電気が不足するから、無資源国だから、原発が必要だと人々はいいます。しかし、そういう人も一度でも原発内の放射能うずまく労働現場に立ってみたら、ほうとうに原発が必要なのかと疑問がわくことでしょう。(樋口、同書、p129)

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鳥獣害、動物たちとどう向きあうか

2017年8月29日 雨のち曇り

祖田修 鳥獣害 動物たちと、どう向きあうか 岩波新書1618 2016年

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・・この「かわいがって育てーー処理しーー食べる」というプロセスは、人間の行為・感情としてあまりに落差の大きな過程であり、矛盾に満ちているともいえるが、人間が生存・生活するための、善悪を超えた避けがたい事実である。そしてそれは同時に、自然や動物に対する「感動と畏敬、祈り、感謝」の心のプロセスでもある。
 このプロセスは、どうにもならない矛盾の過程であるとともに、「矛盾の昇華」ともいうべき心の過程ではないか。こうしたいわば内省と自覚をともなう、矛盾を昇華する心の働きこそ、庶民のなかに息づいてきたものであり、いつの時代も、またいずれの地域においても、動物観の原点となるべきものではないかと考える。人は、このプロセスに自覚的であってこそ、生産者も消費者も真にものを食べることができるのではないか。(祖田、同書、p174-5)

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・・こうして人間ー動物関係の場合には、人間の側からだが、そのあいだに折りあいをつけることができれば、そこはまさに構想され、形成された均衡の場所となるのである。ここには怖れながらもやむを得ない、自然を管理するという思想が入り込んでいる。(祖田、同書、p194-5)

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補註 祖田さんは農業経済学の大学の先生を務めた後、退職後はクルマで通える距離のところに小さな農地を得て、米や野菜を栽培していらっしゃる。本書の前半では、自身の農作業と鳥獣害の体験を語り、後半では大学の研究者としての立場から「動物たちとどう向きあうか」を一般論として考察している。
 タイトルの「鳥獣害」と副題の「動物たちと、どう向きあうか」の二つのテーマは、それぞれが深く重いテーマであり、ひとつの書物でこの二者を統合的に語ることは難しい。農の実践者としての著者の前半の語りと、退職大学教授としての著者の後半のレクチャーとの語り方のギャップ(腰折れ)に、いつになったらこの段差が埋められるのだろうと、本書を読みながら歯がゆく、もどかしさを覚えた。
 残念ながら、最後のページに至るまでこのギャップは埋められることなく、著者は大学教授としての総論で本書を終えられてしまった。最後には地球温暖化のお話まで跳びだしてきて、思いが世界を駆け巡ってしまわれたーーこのことは、地に足を付けて考えてみたい一読者としては残念であった。
 著者の引用されている「気候変動に関する政府間パネル(IPCC)第五次評価報告書(2014年)」には「あまりに衝撃的な予想が示されていた」そうである(祖田、同書、p206)。IPCCの報告をまともに受けとめている本格的な科学者は、おそらく非常に少数の人々であることを鑑みると、本書の著者がご自身の実体験から得た確信に基づくことのない「政府間パネルの報告」のようなものを受け入れて議論をされているのは、非常に勿体ないことに思われた。
 「鳥獣害」に本気で取り組むためには、先に紹介した井上雅央(いのうえまさてる)さんのおっしゃったように、大学教授としての祖田さんには研究室の壁に飾られた思い出写真の中にでもすっこんでいていただいて、(大学教授もすでに退職されたのだから)農の新米・入門者としての祖田さんになりきって、地域の人々と力を合わせ、実地の鳥獣害対策に汗だくになってみることが大切だ。
 ・・かく言う私自身、今年も、まさに性懲りもなく、大事なプラムの葉っぱをぜ〜んぶシカに喰われてしまったのである。

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原感覚としての儒教を大切にすること

2017年8月15日 火曜日 曇り

加地伸行 儒教とは何か 中公新書989 1990年

私は真言宗信者として仏教を、原感覚として儒教を、論理矛盾を知った上で、ともに大切にしている。(加地、同書、p224)

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民衆の壮大な仏教誤解

2017年8月13日 日曜日 小雨

朝は雨。

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加地伸行 儒教とは何か 中公新書989 1990年

 それでは、再生や長生という現世への執着に満ちていた中国人が、なぜ輪廻転生という異質の仏教を信じたのかという問題がある。結論を先に言えば、仏教をよく知っていた知識人は別として、民衆の壮大な仏教誤解があったからである。すなわち、輪が回り続けるように苦しみが<転生>して長く長く続くという点がすっぽりと抜け落ち、死んでも来生に再び<肉体を持って>生まれることができるなら良いではないかと考えたのである。・・楽しいこの世に肉体を持ってもう一度生まれることができる転生を良いものと誤解したのである。・・・(中略)・・・ その上、儒教の<再生>は、神主・木主<魂の憑りつくところ>におけるものであるから、結局は観念的とならざるをえない。生きた肉体を伴わない<再生>であるからである。しかし、仏教の<輪廻転生>を「輪廻」抜きで、・・・(中略)・・・ただ過去から現在へ、現在から未来へというレベルで<転生>を言うとき、それは<楽しい>この世に、儒教のように神主に憑りつくだけではなくて、快楽をつくせる生きた肉体を持って再生することができるというふうに誤解することとなる。しかし、この誤解は、同じく再生を説く儒教に比べてかえって魅力的であり、こういう壮大な誤解によって、民衆において仏教が大流行したのである。それが、魏晋六朝時代から隋唐時代に至る状況であった。(加地、同書、p174-175)

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・・一般民衆にとっての仏教とは<死後も楽しいこの世に再び生まれ変わることができる>ものであり、それならいいではないかと誤解された仏教であった。・・死後、<苦の世界>でなくて<楽の世界>へというこの発想が中国人民衆に広がった結果、そのつきつめた形として浄土思想が大流行となる。すなわち、死後、浄土に<往>ってそこで<生>きる、すなわち<往生>である。
 これは日本においても大流行する。こうした浄土思想、すなわち、死後に長い長い輪廻の苦しみが待っているとはしないで、阿弥陀如来の本願にすがって浄土へ行けるとするのは、中国人や日本人、楽天的な東北アジア人にぴったりであった。(同書、p176)

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補註: お盆の時期を迎えて、今から50年以上も前、田舎の祖母や叔母と過ごしたお盆の日々を思い返したりしている。お盆の3日間だけは、私たち子供が魚や虫を捕ってはいけないと固く禁じられていた。これは、一年中を通してベースにあった仏教の生類憐れみの仏教思想だけではなくて、この特別なお盆の日に、ご先祖の霊がフナやカブトムシに宿ってこの家に帰ってきているかもしれないという祖霊の<招魂再生>の思想が変形されて一般民衆の心の中にあったことの現れであったのかもしれない。子供の私は、深く疑うでもなく、また深く信じるでもなく、素直に聞き従っていたように思う。北東アジアの民衆の「壮大な仏教誤解」から生まれた俗信であったかもしれないが、私たち子供には通奏低音として心の底を流れ奏でられる日常だっただろう。
 今では私も還暦を過ぎ、父母の位牌だけでなく、祖母やその家を守ってくれた叔母の位牌をも祀る身となってしまった。今日、このお盆の日には、天候が許せば、春から育ててきてやっと咲きはじめたムギワラギクの花を摘んで、若くして異国で死んだ伯父の位牌を代表として、祖母や叔母や父母、私が祀るべき祖霊を想い、家族で語りながら、その依りつくべき位牌に花を飾ることとしたい。

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