カテゴリー別アーカイブ: ロシア文学

ドストエフスキーと父親殺し/不気味なもの

2017年10月7日 土曜日 曇り時々雨

フロイト ドストエフスキーと父親殺し/不気味なもの 中山元・訳 光文社古典新訳文庫 2011年(原著は、「ドストエフスキーと父親殺し」1928年、「不気味なもの」1919年)

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・・この賭博への情熱は、何度決意してもやめることができず、自己処罰の機会を与えるものとなったのだった。それが思春期のオナニー強迫が再現されたものであったと考えるならば、この賭博熱がドストエフスキーの生涯でこれほど大きな場所を占めていたことは、まったく不思議ではないのである。(同書、「ドストエフスキーと父親殺し」p274)

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この言葉はそれだけでは理解しがたいものだとしても、オリンピアとナターニエルの内的な同一性を示すものと考えれば、その意味が理解できる。オリンピアはいわばナターニエルのコンプレックスを分離して、人物像として示したものなのである。(同書、「不気味なもの」p205)

補註: 自動機械の人形オリンピア: E.T.A.ホフマンの「砂男」から。主人公が大学生ナターニエル。

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滅びの都:全体主義の終末的ディテール

2017年9月15日 金曜日 晴れ

滅びの都:全体主義の終末的ディテール

アルカージイ・ストルガツキー ボリス・ストルガツキー 滅びの都 佐藤祥子訳 群像社 1997年

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補註 原著の出版は1988年。書かれたのは1970-1972、1975、1987、とある。訳書で500ページにも及ぶ大作であり、実は読み始めたのは「ストーカー」を読んだ直後、おそらくは2年ほども前のことであるが、なかなか読み進めにくく、今ようやく全篇を読み終えたのである。

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われわれが作品の構想を練りはじめたのは1968年で、この小説がわれわれの存命中に発表されることがまずありえないことは最初からわかっていた。(ボリス・ストルガツキイ、まえがきにかえてーー日本の読者へ、本訳書、p5)

これまでの理想はことごとくかき消え、足元を支えるイデオロギーは消滅した、だがこれから先も何とか生きていかなければならないーーただ飲んで、食べて、気晴らしをするだけでなく、何か大切な目的を追求し、生きることのなかに何か気高いものを求め、食べるために働くのでなく、働くために食べるのでなければならない。だが何のために? われわれの世界はどこへ行くのか? それはどうなるべきか? またわれわれはどうなるべきか? (同上、p6)

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よい造りだ、きれいだ、おれたちのよりよく出来ている。暮らしぶりも概ね悪くなかったらしい。だがそれでも消滅したんだ・・。・・・何年も暮らして、何年も建設して、自分たちのガイガー・・愛すべき飾り気のない人を賛美して・・。その結果がこのとおり、無だ。まるで誰もいなかったみたいだ。骨ばかりで、しかもなぜか、これだけの移住地にしては、数が少ない・・。こんなわけです、大統領閣下! 人間は予定を立てるだけで、神が何か波紋のようなものを放てば、一切はおじゃんになるのだ・・。(ストルガツキイ兄弟、同書、p433)

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「都市」のあり方をもっとも皮肉に寓意的に表している部分は、「都市」の住民が定期的に自動機械に職業と配置を決めてもらい、各人は同じ職業、地位に長くとどまることが禁じられているというくだりだろう。専門家をつくらない、つまり個々人を特性をもたない交換可能な部品にするということである。だが同時にそれとはまったく別にもうひとつの人事のシステム、幹部人事のシステムが働いており、それこそが最終的にすべてを統轄し決定していることも行間にはっきり語られている。(佐藤祥子、同訳書、解説p502)

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「全体主義」
・・ここには全体主義の終末的ディテールが暗喩のかたちでびっしり描き込まれ寓話の絵巻をかたちづくっている。
 まず動機は何であれ、地球上の各地から流れてきた個々ばらばらな人間たちが「万人の幸福」の実現という一つの「偉大な」目的のもとに個別性を無視してまとめられ、滅私奉公に働いている。このユートピア実現の道のりでは如何なる「なぜ?」もあってはならないーーという「都市」の設定は全体主義の設定そのものである。ここに「都市」の団結を固めるための仮想敵「アンチ都市」が付け加えられれば条件は完璧に揃う。(佐藤祥子、同、p502)

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革命によるカーニバル的転倒の暴力性・非人間性

2017年9月14日 木曜日 降り続く雨(ときに陽射しもあり)

ミハイル・A・ブルガーコフ 犬の心臓 水野忠夫訳 河出書房新社 (原著は1925年に執筆;文学の集いでブルガーコフ自身が朗読、1926年には原稿は押収され、原稿が作者の手元にもどされたのは1930年;初めて活字になったのは1968年・西ドイツ;ソ連国内で公刊されたのは1987年、1989年;日本語の水野訳は、1971年初版、2012年・復刻新版)

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自然と平行して研究を進める vs 無理に問題をでっちあげる

「・・ぼくはこの五年間、脳から脳下垂体を取り出して、ずっと研究しつづけてきた・・ぼくがどのように仕事をしてきたか、きみはしっているね、想像に絶する仕事だった。そこでいま、きみにたずねるが、それは何のためだったのだ? ある日、可愛らしい一匹の犬を、それこそ身の毛もよだつほどいやらしい人間にしてしまうためだったとは!」
「なにかしら異常なことがあったのです!」
「そう、ぼくはその考えに全面的に賛成だ。それがどうして起こったかといえば、きみ、研究者が自然を感じつつ、自然と平行して研究を進めるかわりに、無理に問題をでっちあげ、カーテンを持ち上げようとしたためなのだ。そのためにシャリコフのようなのができてくるのだ、彼なんか粥に入れて食ってしまえというわけだ」(ブルガーコフ、同訳書、p171)

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 ここで注意を要するのは、この物語では人間が犬の性格を帯びて野卑になるわけではなく、元来善良と言ってもいい犬に、下品な人間の性格が乗り移るということだろう。(沼野充義、同訳書、解説p218)

「原稿は燃えない」
 このように、「犬の心臓」はソ連社会の不条理をグロテスクに諷刺しただけではなく、笑いを噴出させるようなカーニバル的活力を備えている。だからこそ、いま読んでも、当時のソ連社会の文脈を超えて、新鮮であり続けているのだろう。・・「犬の心臓」は、カーニバル的転倒の芸術的な可能性を十分に活用しているという意味ではカーニバル的文学だが、それと同時に、思想的には革命によるカーニバル的転倒の暴力性・非人間性を批判した「反カーニバル文学」の様相も示すことになる。この作品の奥行きの深さと評価の難しさは、まさにこの二律背反的な課題をブルガーコフが鮮やかに遂行しているということから来ているのではないかと思う。(沼野充義、同訳書、解説p221)

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補註(ネタバレ注意!) 2017年9月15日
「犬の心臓」が書かれたのと同じような時期に書かれたSF作品として、すでにこのブログでも紹介したことのある「ロボット」、それから「われら」、などを連想する。「ロボット」や「われら」の設定が、テーマが必然的に抱えている本質的に難しい問題(解決不能問題ともいえる)を中心に組み立てられているのに対し、このブルガーコフの「犬の心臓」は、その難題がひょっとすると「なかった」かもしれないような偶然・岐路も可能である。というのは、この小説では、犬に移植された人間の組織(ここでは脳下垂体と性腺)によって犬が人になってしまうのだが、その<イヌ→人>がその時代の人間社会での優等生に成長するという可能性もストーリーとしては十分あり得るからである。その場合には、この小説はすっかり様変わりした方向へ進んでしまう。ならば、この「犬の心臓」が抱えている本質的なストーリーの岐路は、「人を教育によって善へ導けるかどうか」というところへ収束してくる。惨めな生い立ちで厳しい環境を生きてきた俗悪な人といった<イヌ→ヒト>シャリコフが突然に教授の前に現れたとして、このヒト・シャリコフを教授にとって望ましい人・シャリコフへと教育(環境)によって変えられるか否かというテーマである。

「犬の心臓」では、手に負えないほど酷いシャリコフの振る舞いに耐えられなくなって、教授たちは再手術を施してシャリコフをもとのイヌに戻してしまう。もともとイヌだった人間をイヌに戻すだけだから刑法や倫理にとっては難しい課題であるが、それは今は重要な問題ではない。「イヌの心臓」のストーリー展開としては、言葉による教育を放棄して生徒や学生に体罰を加える教師・教授に対応する。あるいは、重い罪を犯した人間に対し死刑を執行する社会に対応するだろう。

おそらくブルガーコフ自身はこの小説で「教育の可能性」などをテーマとしているつもりはなかったと思うので、上記の問題にこれ以上立ち入ることは避けたい。

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ゴーリキー 零落者の群れ

2017年9月2日 土曜日 晴れ

ゴーリキー 零落者の群れ ゴーリキー短編集 上田進・横田瑞穂訳編 岩波文庫 赤627-1 1966年(原訳文は1950年;原作の発表は1894年から1897年)

 死と呼ばれているところの、すべてのものを滅ぼしてしまう神秘な力が、生と死との闘争の暗いおごそかな場面にこの酔っぱらいが登場して来たことに腹をたてて、自分の無情な仕事を一刻も早く片づけてしまおうと決心したらしかった。ーー教師は深い溜息をついて、低い呻き声をもらし、ぶるっと身を震わせたかと思うと、ぴんと手足を突っぱって、息をひきとってしまった。
 大尉は足をふんばって身体をゆらゆらさせながら、まだしゃべりつづけていた。
 ーー酒がのみたけりゃ、もって来てやるぜ。しかし、飲まない方がいいや、なあ、フィリップ・・我慢して、自分にうち克つんだ・・それとも、どうしても飲みたきゃ飲むがいいさ! 正直の話、なんだってそんなに我慢しなきゃならないんだ?・・なんのためによ? え、フィリップ、なんのためによ?
 彼は教師の足をつかんで、ひっぱった。
 ーーおい、フィリップ、お前眠ちまったのか? ・・・(中略)・・・ それぢゃ今夜は、ぐっすり眠ろよ・・死んじまったんでなきゃな・・(ゴーリキー、零落者の群れ、同訳書、p339-340)

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トルストイとバルザック:場面中心 vs 総括的描写

2017年8月20日 日曜日 未明(霧)

P.ラボック 小説の技術 佐伯彰一訳 現代小説作法シリーズ ダヴィッド社 1957年(原著は1921年)

トルストイの想像力が、明らかに一番伸び伸びと生動し得る形態たる、あの単刀直入な場面中心の形態(ラボック、同書、p190)

トルストイという偉大な例は、バルザックの例と相互に補足的なものといえる。バルザックの天分は、逆の方向に向いており、いつでも個々の場面より、総括的な描写のほうに引きつけられた。(ラボック、同書、p190)

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