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ディケンズとトルストイ

2017年7月19日 水曜日 曇り

オーウェル「チャールズ・ディケンズ」オーウェル評論集 小野寺健編訳 岩波文庫 赤262-1(訳本は1982年)

George Orwell, Essays, Penguin Modern Classics, 1984, 1994, 2000

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だがここで、「単なるカリカチュア作家にすぎない」という批判が実は非難とはいえないことが、まさにわかるのだ。ディケンズがたえず脱却しようとしているのにどうしてもカリカチュア作家だと見られてしまうという事実、これこそおそらく、彼の天才をもっとも確実に証明するものではないのか。彼が作り出した怪物たちは、まずメロドラマになりかねない筋に巻きこまれても、やはり怪物として記憶に残る。さいしょの衝撃があまりにもなまなましいので、その後で何があろうと、この衝撃は消えないのだ。・・こういう人物像が、ちょうど嗅ぎ煙草入れの蓋についているくらきらした細密画のように、ぴたりと定着されたきり消えないのだ。徹底的に空想じみた、信じがたい姿だが、どういうわけか、このほうが真面目な小説家たちの努力した人物像よりよほどくっきりしていて、はるかに記憶に残るのである。・・・(中略)・・・
 だが、それでも化けものの姿を描くとなると、ひとつ不利な点がある。結局、ディケンズはいくつかのきまった気分だけにしか訴えないのだ。つまり、彼の手がけっして届かない精神の広大な領域が残ってしまう。彼の作品にはどこを見ても詩的な感情はないし、純粋な悲劇もない。性的な愛さえもほとんどその視野には入ってこない。・・・(中略)・・・
トルストイのほうがわれわれ自身についてはるかに多くのことを語ってくれるような気がするのはなぜか? ・・トルストイの登場人物たちは成長するからなのである。彼らは自己の魂の形成に悪戦苦闘する(補註:フォースターのいう「ラウンド」な登場人物たち)。ところがディケンズの人物たちは初めから出来上がった完成品なのだ。(補註:フォースターのいう「フラット」な登場人物たち)。わたしのばあいには、トルストイの人物たちよりディケンズの人物たちのほうが、はるかに頻々と、かつ生き生きと心の中に現れるけれども、その姿勢はつねに同じで変わることがなく、まるで絵か家具のようである。・・要は、ディケンズの登場人物には精神生活がないということだ。彼らは当然言わなければならないことは完全に言うものの、それ以外のことを話すとはとうてい考えられない。何かを学んだり、思索したりすることは、けっしてないのだ。ディケンズの登場人物の中でもっとも瞑想的なのは、たぶんポール・ドンビー(補註:「ドンビー父子」の主人公)だろうが、彼の思想は甘ったるい感傷にすぎない。(オーウェル、同訳書、p134-137)

補註 このオーウェルのディケンズ論(1939年)を読んだのは数年前のことである。(オーディオブックを車に載せてずっと何度も聞いていたのである。)
 以前の私は、成長してゆくトルストイの人物たちにしか価値を認められなかったものだが、このところの私はディケンズを読み進めていて、かなり楽しめるようになってきている。
 E.M.フォースターの小説論(1927年)と併せ読んでみると面白いと思う。

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ディケンズと消費者の都市ロンドン

2017年7月19日 水曜日 曇り

オーウェル「チャールズ・ディケンズ」オーウェル評論集 小野寺健編訳 岩波文庫 赤262-1(訳本は1982年)

George Orwell, Essays, Penguin Modern Classics, 1984, 1994, 2000

ディケンズが農業のことはぜんぜん書かないのに、食べ物についてはいくらでも書いているのは、単なる偶然ではない。彼はロンドンっ子で、ロンドンは、胃袋が体の中心なのと似たような意味で、世界の中心なのである。ロンドンは消費者の都市、つまり教養はきわめてゆたかだが根本的には役立たずな人間の都市なのだ。ディケンズの作品の表面を一皮剥いでみると、一九世紀の小説家としてはいささか無知な印象を受ける。物事が怒る本当の仕組みが、彼にはほとんどわかっていないのだ。一見、この説はとんでもないでたらめと思えるだろうから、多少説明しなければなるまい。(オーウェル、同訳書、p106)

ディケンズは・・庶民の行動の動機、愛情、野心、貪欲さ、復讐などを描くのに苦労はしないのである。だが労働については書かないという点がはっきり目につくのだ。(同、p107)

・・ところが、一ページ一ページの内容となると、誰もが死ぬまで覚えているのではないだろうか。ディケンズが人間を見る目はこの上なく鋭く、鮮やかである。だが、それはつねに個人として、ひとつの「性格」として人間をとらえるのであって、社会の構成員として見てはいないのだ。つまり静的に見ている、ということになる。・・・(中略)・・・ その人物たちに行動をとらせようとすると、とたんにメロドラマが始まる。当たり前の仕事を軸にして行動させることができないのである。だからこそ、まるでクロスワード・パズルのように偶然とか陰謀、殺人、変装、埋もれていた緯書、行方不明だった兄弟といったものが必要になる。(同、p109)

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彼(=ディケンズ)の道徳感覚が狂うことはぜったいにない。だが知的好奇心のほうは皆無にひとしかったのだ。ここまで話がすすんだところで、われわれはディケンズのほんとうに大きなある欠陥、いかにも一九世紀の遠さを思わせるものに、ぶつかることになるーーーすなわち、彼には仕事というものについての理想がないのである。(オーウェル、同訳書、p114)

「善良」でかつ自立しているならば、株の配当だけで五十年暮らしたところで悪いいわれはないのだ。いつでも家庭生活さえあれば充分なのである。これが結局、彼の時代の世間の通念だったのだ。「上流階級のゆたかさ」、「資産」、「独立の生計をいとなむ紳士」(あるいは「安楽な境遇の」でもいい)−−−こういう言葉そのものが、十八-十九世紀中流ブルジョワの、奇妙で空疎な夢のすべてを語っている。これは完全な怠惰という夢である。(オーウェル、同訳書、p117)

・・だが毎年子供が生まれる以外には何事も起こらない。不思議なのは、これがほんとうに幸せな光景になっていること、あるいはディケンズの手にかかるとそう見えてくることだ。彼はこういう生活を考えるだけで満足なのである。それだけでもう、ディケンズの処女作(補註:1835年前後)が出てから百年以上たっている(補註:オーウェルがこのディケンズ論をものしたのは1939年)ことは充分わかるだろう。現代の人間には、こんな目標のない生活にあれほどの活気をあたえることはとうていできまい。(同、p120-121)

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Dickens, Our Mutual Friend (3) ディケンズと階級意識

2017年7月19日 水曜日 曇り

Charles Dickens, Our Mutual Friend, Penguin Classics, 1997 (First published in two volumes 1865)

“・・・I repeat the word. This lady. What else would you call her, if the gentleman were present?” ・・・ “I say,” resumes Tremlow, “if such feelings on the part of this gentleman, induced this gentleman to marry this lady, I think he is the greater gentleman for the action, and makes her the greater lady. I beg to say, that when I use the word, gentleman, I use it in the sense in which the degree may be attained by any man. The feelings of a gentleman I hold sacred, and I confess I am not comfortable when they are made the subject of sport or general discussion.” (ibid, p796)

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オーウェル「チャールズ・ディケンズ」オーウェル評論集 小野寺健編訳 岩波文庫 赤262-1(訳本は1982年)

「たがいの友」のユージン・レイバーン(怠惰な弁護士)とリジー・ヘクサムの物語は、およそ階級的偏見(補註:小説の作者の階級的偏見・階級意識のこと;小説の舞台となっている社会のそれのことを指しているのではない)とは無縁で、きわめて写実的に描かれている。・・・(中略)・・・ リジーは迫ってくるユージンに怯えるあまりたしかに彼らの許から逃げ出しはするけれども、彼らを嫌っているようには見えない。ユージンは彼女に惹かれるが、良識のせいで誘惑には踏み切れず、自分の家のことを思うと結婚する勇気もない。結局二人は結婚するものの、これで損をするのはトゥエムロウ氏くらいのもので、それも二、三、晩餐会の約束がフイになる程度にすぎず、誰一人この結婚で不幸になるものはいない。どこをとっても、いかにも現実の生活にありそうなことばかりである。(オーウェル、同訳書、p99-100)

ところがこれが逆となると、つまり貧しい男が自分より「上の」女に野心を抱くとなると、ディケンズはとたんに中産階級的な姿勢に退いてしまう。彼は、女(平凡な女でなく立派な女である)は男より「上」だという、ヴィクトリア朝的な考えかたがわりあいに好きなのだ。ピップはエステラが自分より「上」だと思い、・・・(中略)・・・、「二都物語」のルーシー・マネットは弁護士シドニー・カートンより「上」である。この中には「上」といっても単に道徳的な意味の場合もあるが、社会的にも上のこともある。ユライア・ヒープがアグネス・ウィックフィールドとの結婚をもくろんでいると知ったときのデイヴィッド・コッパーフィールドの反応は、まぎれもなく階級意識に由来している。 (オーウェル、同書、p100)

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ディケンズ オリバー・ツイスト

2017年6月19日 月曜日

チャールズ・ディケンズ オリバー・ツイスト(上・下) 中村能三(なかむらよしみ)訳 新潮文庫 昭和30年(1955年)

Charles Dickens, Oliver Twist, Penguin Classics, 2002 (First published 1837-8)

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 医者は死骸の方へ身をかがめて、左の手を持ちあげた。「よくあるやつだ」と彼は首をふりながら云った。「結婚指輪はないよ。じゃ、おやすみ」
 医者は食事をしに帰って行った。そして婆さんは・・赤ん坊に着物をきせはじめた。
 オリバー・ツイストは、着物というものの力を示す、絶好の実例であった。それまで、彼は毛布だけにくるまれていたのだが、それを見ると、貴族の子供といってもいいし、乞食の子供といってもよかった。・・ところが今、同じことにたびたび使われて、黄色くなった、キャラコの古着を着せられると、オリバーははっきり烙印をおされ、たちまちにして、本来の地位ーー教区保護の子供ーー救貧院の孤児ーーいやしい、いつも空き腹をかかえている苦役者ーーどこへ行っても打たれ蹴られーーみんなから蔑まれ、誰からも不憫をかけてもらえないーーへと落ちてしまったのである。(同訳書、上・p9-10)

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・・ぼくは今、騒々しい群衆の中での出世とか、悪意と誹謗の世界での生活、ほんとはすこしも不名誉でも恥辱でもないことで、正直な人間が頬をあからめねばならぬような世界での生活など捧げるのではなくて、ただ家庭ーー真心と家庭ーーそうだ、いとしいローズ、この二つ、この二つだけが、ぼくの捧げ得るすべてです。」(同訳書、下・p354-5)

補註 2017年6月29日・木曜日
「オリバー・ツイスト」読了。ディケンズの小説としては比較的短い、飜訳の文庫本で7-800ページほどの長さの小説である。ストーリーとプロットに少し古さ(出来過ぎている感)を感じるものの、ディケンズらしさがすでに満開で、これが彼の26歳の時の作品かと、その才能に驚かされる。

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ディケンズ 荒涼館(1)

2017年6月19日 月曜日 夜(天候は恐らく晴れ)

C.ディケンズ 荒涼館 I 青木雄造・小池滋訳 ちくま文庫(訳本の初版は1975年筑摩書房の世界文学大系34)
C.ディケンズ 荒涼館 II 青木雄造・小池滋訳 ちくま文庫
C.ディケンズ 荒涼館 下巻 青木雄造・小池滋訳 筑摩書房・世界文学全集23 昭和44年(1975年筑摩書房の世界文学大系34よりも古い版、上記文庫本のIIと第32章だけが重複している。文庫本の訳注はこの全集本には掲載されていない。)

 私に割り当てられた物語をどう書き出したらよいのか、本当に困ってしまいます。だって私が利口でないことは自分でも知っているのですから。それは昔からいつも知っていました。・・・以下、略・・・(同訳書、第3章、p35)

 ・・・たとい秘密ありげに歩いていたとしても? 女にはみんな秘密がある。そんなことはタルキングホーン氏は充分に心得ている。
 しかし、世間一般の女は今タルキングホーン氏と彼の家とをあとにして去ってゆく女と、かならずしも同じではなく、この女の質素な洋服と優雅なものごしとのあいだには、なにかひどく調和しないものがある。・・態度と歩き方を見ると、・・まさしく貴婦人である。(同訳書、第16章、p445)

補註 上記の訳本は4巻本で、そのうち第1巻を手に入れ、本日読了。
 正直言って、このディケンズ本は、いつものディケンズ本とは語りのスタイルが違っていて、私には読むのがきつい。
 語り手は2名、一人はもちろんディケンズで、神の視点に立つ。こちらには文句を言うまい。
 一方、交互に現れるもう一人の語り手(書き手)は、エステ嬢。「利口でない」と謙遜する彼女が、そう断ったことで許してもらったとばかりに「利口ではない方式」で延々と物語っていく。どうしてこの物語が始まってしまうのか、全体のストーリーの中で今はどんな時期なのか、そして最後にはどこに行きつくのか・・そのような流れに関して読者には一切の情報が与えられないまま、これが起こり、それからこれが起こり、それからこうなって・・という形、すなわち「ストーリー」が、エステの視点から時間経過を追って語られるだけなのだ。しかも、エステ嬢はあのディケンズのいつもの饒舌癖をたっぷりとお持ちなので、読者はあらゆる場面で寄り道に付き合わされている。実にじれったい。どうして「これ」が語られ、諸々の「あれら」は語られないのか、その「プロット」が450ページ読み進んでも読者には明かされないのである。小説の書き手の女性が「一人称形式」で語っていく場合、しかも彼女が美女で性格が良いと描かれている場合、読者はどうしてもその語り手を好きにさせられてしまいがちなものであるが、・・その少女がディケンズばりの微細な事柄を詳細に語るのであったら、2000ページの物語に付き合いきれるか、どうか? 

 上記で引用した第16章でなにか秘密ありげな事情がほのめかされる。

 今までの450ページは、恐らく最後までには何らかの重要な複線であったことが解き明かされることになるのだろう・・と期待しつつ読み進めるしかないのであろうし、150年前のヴィクトリア朝の読者たちもそんな期待を持って次の号が出るのを待っていたのであろう。うまく期待通りなら、ディケンズはドイルやクリスティーのお手本となる先駆者ということになろうし、がっかりなら、50年後や100年後のドイルやクリスティーに活躍の場をたっぷり残してあげようとした思いやりのある先輩ディケンズという位置づけになろう。

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補註: 岩波文庫で2017/6/17、佐々木徹さんという方の訳で出版されつつあるようだ。「おまえはおかあさんの恥でした」──両親の名も顔も知らず厳しい代母に育てられたエスターと、あまたの人を破滅させてなお継続する「ジャーンダイス訴訟」。この二つをつなぐ輪は何か? ミステリと社会小説を融合し、呪われた裁判に巻き込まれる人々を軸に、貴族から孤児まで、19世紀英国の全体を書ききったディケンズの代表作。(全四冊)・・と紹介されている。ほかにご存じ、田辺洋子さんの新訳も出ているようだ。あぽろん社(2007/08)

補註: アマゾンの世界文学大系本の紹介では: 村上春樹の短編小説に登場したことから、手に取る人が増えたディケンズの力作。筒井康隆も大絶賛のこの『荒涼館』は、読む人が長さに圧倒されるためか、読んで薦める人が少ないのかもしれないが、他のディケンズの名作『オリバー・トゥイスト』『二都物語』『ディヴィッド・コパーフィールド』や『クリスマス・キャロル』より以上に、小説の構成が緻密で巧みで、複雑のようでいて絡み合いが面白く、小説の極致といえる作品。他の名作以上に、小説らしく作り上げられている。・・とある。

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2017年7月10日 月曜日 晴れ

補註 全集本で「荒涼館」を読み進めている。このページの冒頭に6月19日付けの記録が見られるので、もうかれこれ3週間にもわたって「荒涼館」を読み続けているのであることに、今さらながら驚く。「エスタの物語」は次第に面白くなってきている。これも辛抱しながら最初の4分の1を読み終えたことからの継続である。

イギリスの法律の一つの大原則は、現状をそのまま続けさせよ、ということである。これほどはっきりした、確実な、またこれまできわどい目にいろいろ会いながら、終始一貫守られてきた原則はない。こう考えてみると、法律というものは首尾一貫した体系で、とかく素人が考えるようなめちゃくちゃな混沌ではない。法の大原則とは君らの腹を痛ませて現状を続けさせることなのだ、と素人どもにはっきりわからせてやれば、きっと彼らはぶつぶつ不平をいうのをやめるだろう。(ディケンズ、同訳書、全集版下巻、p110)

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2017年7月11日 火曜日 曇り一時雨

・・じきにスントールバンズに着き、夜明け少し前に車から下りました。やっとこのときになって、前夜の出来事の筋道がちゃんと分かりかかってきて、あれは夢ではなかったのだと思い始めるのでした。(ディケンズ、同訳書、全集版下巻、p334)

補註 後半、タルキングホーン氏殺害事件とバケット警部の活躍からは、小説は俄然テンポを上げて切迫しながら転がり出す。その面白さは素晴らしい。上記に引用したスントールバンズの地名もこうして警部とエスタ嬢とが奥方の道行きを追跡する場面での重要地名となってみると、前半のノンビリしたエスタ嬢の叙述の中で私が読みながら見すごしていたことを反省させられる。本書をまだ読み終わってはいないものの、このディケンズ本は、2度目に読むときには前半の部分も大変面白く読めるのではないかと、後半を読み進んでいる読者に感じさせる。文庫本にして恐らく2000ページ近い本書を、生涯に何度も読み返すためには、相当の長生きをすることが前提であり、ディケンズ読破は、人生を楽しい、長いものに(場合によっては短すぎて物足りないものに)してくれるはずである。さて、これからエスタは、その母は、どうなるのだろうか・・雨読のプロとなって読み進めることとする。(雨がまだ降らないのであるが・・今にも降り出しそうである)。

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