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トルストイとバルザック:場面中心 vs 総括的描写

2017年8月20日 日曜日 未明(霧)

P.ラボック 小説の技術 佐伯彰一訳 現代小説作法シリーズ ダヴィッド社 1957年(原著は1921年)

トルストイの想像力が、明らかに一番伸び伸びと生動し得る形態たる、あの単刀直入な場面中心の形態(ラボック、同書、p190)

トルストイという偉大な例は、バルザックの例と相互に補足的なものといえる。バルザックの天分は、逆の方向に向いており、いつでも個々の場面より、総括的な描写のほうに引きつけられた。(ラボック、同書、p190)

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小説の作者は技術者だ。

2017年8月20日 日曜日 未明(霧)

P.ラボック 小説の技術(The Craft of Fiction) 佐伯彰一訳 現代小説作法シリーズ ダヴィッド社 1957年(原著は1921年)

・・小説を扱う批評の任務は、とにかく、明瞭だ、と思われる。われわれが小説の組み立てという問題をしかと捉え、効果的にその探究を進めるまでは、小説に関して有用な発言は出来ない。小説について語る際、つねに、われわれを妨げるのは、いわゆる小説の技術面に対する無智であり、したがってまた、これこそ、われわれのぶつかってゆくべき面なのだ。・・・(中略)・・・われわれが是が非でも見たいものは、作者の才能や素養のみならず、その作品なのだーーところで、作品をしかと眺めようとすれば、われわれの力で再創造せねばならぬ。そして、永続的に再創造するための、唯一つの明確な道というのはーー技術を研究し、その過程を追い、構成に注意して読むことだ。この方法の実践こそ、現在の私にとって、正直なところ、小説批評の唯一の興味なのである。小説家に関する論議も、作品自体を真に、明瞭かつ正確に眺めるまでは、そこに何一つ新しいものは期待できまい。
 そして、結局真に、明瞭かつ正確に眺めることは不可能であるーーこれは確かだ。作品というものは、われわれがその上に手をおくと、消えてしまう。・・・(中略)・・・だが、それにしても影の間に、われわれを誘う一条の光が、きらめいている。・・もしそうなら、その可能性はいまあげた方向にこそ存在しているにちがいないと思われる。小説の作者は技術者だ。批評家は、彼をその仕事場で捕らえて、いかにして小説が作られたかを、見なければならぬのである。(ラボック、同書、p206-208)

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小説家は、その(=小説の)扱い方の中に含まれている無尽蔵の機会を、そのまま見逃すはずもあるまい。・・安易な道は、道とはいえぬ。唯一の道は、語ろうとする物語を一番よく生かす道であり、選ばれ、鍛錬を加えた方法によらずしては、物語を生かすことなど、出来ないのである。(ラボック、同書、p201)

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多くの小説論議は、じつは、小説論ではないのです。・・・(中略)・・・では、小説そのものを、どうして捉え、どうして論ずるか、これが本書の主題です。(木村彰一、同書、あとがき、p219)

‘art’(芸術)ではなくて、 ‘craft’(技術)なのだと、最近出た新版の序文で著者(=ラボック)自身もふれています。<芸術>という<高遠な>言葉をさけて、<技術>という地道な言葉をわざわざ選んだというのです。軽やかな一般論の高みに舞い上がることをさけて、小説自体という対象に密着したかったからだ、というのです。(木村彰一、同書、あとがき、p220)

<技術>についての分析は精細ですが、作家が何故、また何を目指して、彼の<技術>を選び取るのか、という点には全く触れていないのです。作家と読者との関係という問題も、この点を離れては、生きたつながりとは成り得ないのではないでしょうか。彼の先駆的な考察を動力学へと組みかえてゆくのが、今日の僕らの仕事だと思います。(木村、同書あとがき、p223)

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ラボック「小説の技術(1921年)」:a ‘straw man’-textbook

2017年8月19日 土曜日 晴れ(久しぶりの快晴・暑い陽射し)

P.ラボック 小説の技術 佐伯彰一訳 現代小説作法シリーズ ダヴィッド社 1957年(原著は1921年)

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グランデ爺さんのけち臭さは、金持ちになるにつれて、ますますひどくなるのだ。現在は過去と同じであり、未来は現在のそのままの延長だ。こうした場面の中で、中年になったウージェニィの辛抱強い忍従は、はっきりと眼で見える事実となり、それ以上強調せずとも、ただちに感じとられ、受け入れられる。・・・(中略)・・・「五年の歳月は去った」とバルザックは言う。しかし、それを言う以前に、歳月の影は少女の上にちらつき、その孤独に押しせまり、みずみずしさを奪い去り、じっと待っている彼女のむっつりとした諦めだけを残してゆく様が、ありありと見える。(ラボック、同訳書、p174)

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補註 ラボック(Percy Lubbock)は1879年生まれ。ということは、この「小説の技術」はラボックが42歳頃の著作ということになる。

ウィキペディアによると・・・Percy Lubbock, CBE (4 June 1879 – 1 August 1965) was an English man of letters, known as an essayist, critic and biographer.
His 1921 book The Craft of Fiction (‘the official textbook of the Modernist aesthetics of indirection'[4]) became a straw man (補註* 参照)for writers including Forster, Virginia Woolf and Graham Greene, who disagreed with his rather formalist view of the novel. Wayne Booth in The Rhetoric of Fiction[5] considers that Lubbock’s take on the craft of Henry James was in fact schematizing and formal, if systematic, with a flattening effect. Nevertheless, Lubbock’s The Craft of Fiction had a profound influence on novelists in the 1920s and after. As Michaela Bronstein has noted, “Lubbock’s book didn’t just influence critics; it was also a spur to contemporary novelists. Virginia Woolf vacillated between echoing and condemning his ideas. Woolf’s lengthiest engagement with Lubbock was her 1922 essay “On Re-reading Novels,” which primarily praises and extends Lubbock’s argument. However, in her Diary in 15 October 1923, she found herself disagreeing with him from an artistic perspective: “his ideal aesthetic form,” she says, “cannot be accomplished consciously.”[6](以上、ウィキペディアより引用)

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補註* a straw man 「容易に倒せそうな藁人形」
ウィキペディアによると・・・ 
ストローマン(英: straw man)は、議論において対抗する者の意見を正しく引用しなかったり、歪められた内容に基づいて反論するという誤った論法、あるいはその歪められた架空の意見そのものを指す。藁人形論法ともいう。

語源は不明である。 比喩的な用法は、容易に倒せそうな藁人形、ダミー、かかしなどを示唆する(以上、ウィキペディアより引用)、とのこと。

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ディケンズとトルストイ

2017年7月19日 水曜日 曇り

オーウェル「チャールズ・ディケンズ」オーウェル評論集 小野寺健編訳 岩波文庫 赤262-1(訳本は1982年)

George Orwell, Essays, Penguin Modern Classics, 1984, 1994, 2000

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だがここで、「単なるカリカチュア作家にすぎない」という批判が実は非難とはいえないことが、まさにわかるのだ。ディケンズがたえず脱却しようとしているのにどうしてもカリカチュア作家だと見られてしまうという事実、これこそおそらく、彼の天才をもっとも確実に証明するものではないのか。彼が作り出した怪物たちは、まずメロドラマになりかねない筋に巻きこまれても、やはり怪物として記憶に残る。さいしょの衝撃があまりにもなまなましいので、その後で何があろうと、この衝撃は消えないのだ。・・こういう人物像が、ちょうど嗅ぎ煙草入れの蓋についているくらきらした細密画のように、ぴたりと定着されたきり消えないのだ。徹底的に空想じみた、信じがたい姿だが、どういうわけか、このほうが真面目な小説家たちの努力した人物像よりよほどくっきりしていて、はるかに記憶に残るのである。・・・(中略)・・・
 だが、それでも化けものの姿を描くとなると、ひとつ不利な点がある。結局、ディケンズはいくつかのきまった気分だけにしか訴えないのだ。つまり、彼の手がけっして届かない精神の広大な領域が残ってしまう。彼の作品にはどこを見ても詩的な感情はないし、純粋な悲劇もない。性的な愛さえもほとんどその視野には入ってこない。・・・(中略)・・・
トルストイのほうがわれわれ自身についてはるかに多くのことを語ってくれるような気がするのはなぜか? ・・トルストイの登場人物たちは成長するからなのである。彼らは自己の魂の形成に悪戦苦闘する(補註:フォースターのいう「ラウンド」な登場人物たち)。ところがディケンズの人物たちは初めから出来上がった完成品なのだ。(補註:フォースターのいう「フラット」な登場人物たち)。わたしのばあいには、トルストイの人物たちよりディケンズの人物たちのほうが、はるかに頻々と、かつ生き生きと心の中に現れるけれども、その姿勢はつねに同じで変わることがなく、まるで絵か家具のようである。・・要は、ディケンズの登場人物には精神生活がないということだ。彼らは当然言わなければならないことは完全に言うものの、それ以外のことを話すとはとうてい考えられない。何かを学んだり、思索したりすることは、けっしてないのだ。ディケンズの登場人物の中でもっとも瞑想的なのは、たぶんポール・ドンビー(補註:「ドンビー父子」の主人公)だろうが、彼の思想は甘ったるい感傷にすぎない。(オーウェル、同訳書、p134-137)

補註 このオーウェルのディケンズ論(1939年)を読んだのは数年前のことである。(オーディオブックを車に載せてずっと何度も聞いていたのである。)
 以前の私は、成長してゆくトルストイの人物たちにしか価値を認められなかったものだが、このところの私はディケンズを読み進めていて、かなり楽しめるようになってきている。
 E.M.フォースターの小説論(1927年)と併せ読んでみると面白いと思う。

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ディケンズと消費者の都市ロンドン

2017年7月19日 水曜日 曇り

オーウェル「チャールズ・ディケンズ」オーウェル評論集 小野寺健編訳 岩波文庫 赤262-1(訳本は1982年)

George Orwell, Essays, Penguin Modern Classics, 1984, 1994, 2000

ディケンズが農業のことはぜんぜん書かないのに、食べ物についてはいくらでも書いているのは、単なる偶然ではない。彼はロンドンっ子で、ロンドンは、胃袋が体の中心なのと似たような意味で、世界の中心なのである。ロンドンは消費者の都市、つまり教養はきわめてゆたかだが根本的には役立たずな人間の都市なのだ。ディケンズの作品の表面を一皮剥いでみると、一九世紀の小説家としてはいささか無知な印象を受ける。物事が怒る本当の仕組みが、彼にはほとんどわかっていないのだ。一見、この説はとんでもないでたらめと思えるだろうから、多少説明しなければなるまい。(オーウェル、同訳書、p106)

ディケンズは・・庶民の行動の動機、愛情、野心、貪欲さ、復讐などを描くのに苦労はしないのである。だが労働については書かないという点がはっきり目につくのだ。(同、p107)

・・ところが、一ページ一ページの内容となると、誰もが死ぬまで覚えているのではないだろうか。ディケンズが人間を見る目はこの上なく鋭く、鮮やかである。だが、それはつねに個人として、ひとつの「性格」として人間をとらえるのであって、社会の構成員として見てはいないのだ。つまり静的に見ている、ということになる。・・・(中略)・・・ その人物たちに行動をとらせようとすると、とたんにメロドラマが始まる。当たり前の仕事を軸にして行動させることができないのである。だからこそ、まるでクロスワード・パズルのように偶然とか陰謀、殺人、変装、埋もれていた緯書、行方不明だった兄弟といったものが必要になる。(同、p109)

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彼(=ディケンズ)の道徳感覚が狂うことはぜったいにない。だが知的好奇心のほうは皆無にひとしかったのだ。ここまで話がすすんだところで、われわれはディケンズのほんとうに大きなある欠陥、いかにも一九世紀の遠さを思わせるものに、ぶつかることになるーーーすなわち、彼には仕事というものについての理想がないのである。(オーウェル、同訳書、p114)

「善良」でかつ自立しているならば、株の配当だけで五十年暮らしたところで悪いいわれはないのだ。いつでも家庭生活さえあれば充分なのである。これが結局、彼の時代の世間の通念だったのだ。「上流階級のゆたかさ」、「資産」、「独立の生計をいとなむ紳士」(あるいは「安楽な境遇の」でもいい)−−−こういう言葉そのものが、十八-十九世紀中流ブルジョワの、奇妙で空疎な夢のすべてを語っている。これは完全な怠惰という夢である。(オーウェル、同訳書、p117)

・・だが毎年子供が生まれる以外には何事も起こらない。不思議なのは、これがほんとうに幸せな光景になっていること、あるいはディケンズの手にかかるとそう見えてくることだ。彼はこういう生活を考えるだけで満足なのである。それだけでもう、ディケンズの処女作(補註:1835年前後)が出てから百年以上たっている(補註:オーウェルがこのディケンズ論をものしたのは1939年)ことは充分わかるだろう。現代の人間には、こんな目標のない生活にあれほどの活気をあたえることはとうていできまい。(同、p120-121)

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