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Dickens, Our Mutual Friend (3) ディケンズと階級意識

2017年7月19日 水曜日 曇り

Charles Dickens, Our Mutual Friend, Penguin Classics, 1997 (First published in two volumes 1865)

“・・・I repeat the word. This lady. What else would you call her, if the gentleman were present?” ・・・ “I say,” resumes Tremlow, “if such feelings on the part of this gentleman, induced this gentleman to marry this lady, I think he is the greater gentleman for the action, and makes her the greater lady. I beg to say, that when I use the word, gentleman, I use it in the sense in which the degree may be attained by any man. The feelings of a gentleman I hold sacred, and I confess I am not comfortable when they are made the subject of sport or general discussion.” (ibid, p796)

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オーウェル「チャールズ・ディケンズ」オーウェル評論集 小野寺健編訳 岩波文庫 赤262-1(訳本は1982年)

「たがいの友」のユージン・レイバーン(怠惰な弁護士)とリジー・ヘクサムの物語は、およそ階級的偏見(補註:小説の作者の階級的偏見・階級意識のこと;小説の舞台となっている社会のそれのことを指しているのではない)とは無縁で、きわめて写実的に描かれている。・・・(中略)・・・ リジーは迫ってくるユージンに怯えるあまりたしかに彼らの許から逃げ出しはするけれども、彼らを嫌っているようには見えない。ユージンは彼女に惹かれるが、良識のせいで誘惑には踏み切れず、自分の家のことを思うと結婚する勇気もない。結局二人は結婚するものの、これで損をするのはトゥエムロウ氏くらいのもので、それも二、三、晩餐会の約束がフイになる程度にすぎず、誰一人この結婚で不幸になるものはいない。どこをとっても、いかにも現実の生活にありそうなことばかりである。(オーウェル、同訳書、p99-100)

ところがこれが逆となると、つまり貧しい男が自分より「上の」女に野心を抱くとなると、ディケンズはとたんに中産階級的な姿勢に退いてしまう。彼は、女(平凡な女でなく立派な女である)は男より「上」だという、ヴィクトリア朝的な考えかたがわりあいに好きなのだ。ピップはエステラが自分より「上」だと思い、・・・(中略)・・・、「二都物語」のルーシー・マネットは弁護士シドニー・カートンより「上」である。この中には「上」といっても単に道徳的な意味の場合もあるが、社会的にも上のこともある。ユライア・ヒープがアグネス・ウィックフィールドとの結婚をもくろんでいると知ったときのデイヴィッド・コッパーフィールドの反応は、まぎれもなく階級意識に由来している。 (オーウェル、同書、p100)

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ディケンズ オリバー・ツイスト

2017年6月19日 月曜日

チャールズ・ディケンズ オリバー・ツイスト(上・下) 中村能三(なかむらよしみ)訳 新潮文庫 昭和30年(1955年)

Charles Dickens, Oliver Twist, Penguin Classics, 2002 (First published 1837-8)

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 医者は死骸の方へ身をかがめて、左の手を持ちあげた。「よくあるやつだ」と彼は首をふりながら云った。「結婚指輪はないよ。じゃ、おやすみ」
 医者は食事をしに帰って行った。そして婆さんは・・赤ん坊に着物をきせはじめた。
 オリバー・ツイストは、着物というものの力を示す、絶好の実例であった。それまで、彼は毛布だけにくるまれていたのだが、それを見ると、貴族の子供といってもいいし、乞食の子供といってもよかった。・・ところが今、同じことにたびたび使われて、黄色くなった、キャラコの古着を着せられると、オリバーははっきり烙印をおされ、たちまちにして、本来の地位ーー教区保護の子供ーー救貧院の孤児ーーいやしい、いつも空き腹をかかえている苦役者ーーどこへ行っても打たれ蹴られーーみんなから蔑まれ、誰からも不憫をかけてもらえないーーへと落ちてしまったのである。(同訳書、上・p9-10)

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・・ぼくは今、騒々しい群衆の中での出世とか、悪意と誹謗の世界での生活、ほんとはすこしも不名誉でも恥辱でもないことで、正直な人間が頬をあからめねばならぬような世界での生活など捧げるのではなくて、ただ家庭ーー真心と家庭ーーそうだ、いとしいローズ、この二つ、この二つだけが、ぼくの捧げ得るすべてです。」(同訳書、下・p354-5)

補註 2017年6月29日・木曜日
「オリバー・ツイスト」読了。ディケンズの小説としては比較的短い、飜訳の文庫本で7-800ページほどの長さの小説である。ストーリーとプロットに少し古さ(出来過ぎている感)を感じるものの、ディケンズらしさがすでに満開で、これが彼の26歳の時の作品かと、その才能に驚かされる。

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ディケンズ 荒涼館(1)

2017年6月19日 月曜日 夜(天候は恐らく晴れ)

C.ディケンズ 荒涼館 I 青木雄造・小池滋訳 ちくま文庫(訳本の初版は1975年筑摩書房の世界文学大系34)
C.ディケンズ 荒涼館 II 青木雄造・小池滋訳 ちくま文庫
C.ディケンズ 荒涼館 下巻 青木雄造・小池滋訳 筑摩書房・世界文学全集23 昭和44年(1975年筑摩書房の世界文学大系34よりも古い版、上記文庫本のIIと第32章だけが重複している。文庫本の訳注はこの全集本には掲載されていない。)

 私に割り当てられた物語をどう書き出したらよいのか、本当に困ってしまいます。だって私が利口でないことは自分でも知っているのですから。それは昔からいつも知っていました。・・・以下、略・・・(同訳書、第3章、p35)

 ・・・たとい秘密ありげに歩いていたとしても? 女にはみんな秘密がある。そんなことはタルキングホーン氏は充分に心得ている。
 しかし、世間一般の女は今タルキングホーン氏と彼の家とをあとにして去ってゆく女と、かならずしも同じではなく、この女の質素な洋服と優雅なものごしとのあいだには、なにかひどく調和しないものがある。・・態度と歩き方を見ると、・・まさしく貴婦人である。(同訳書、第16章、p445)

補註 上記の訳本は4巻本で、そのうち第1巻を手に入れ、本日読了。
 正直言って、このディケンズ本は、いつものディケンズ本とは語りのスタイルが違っていて、私には読むのがきつい。
 語り手は2名、一人はもちろんディケンズで、神の視点に立つ。こちらには文句を言うまい。
 一方、交互に現れるもう一人の語り手(書き手)は、エステ嬢。「利口でない」と謙遜する彼女が、そう断ったことで許してもらったとばかりに「利口ではない方式」で延々と物語っていく。どうしてこの物語が始まってしまうのか、全体のストーリーの中で今はどんな時期なのか、そして最後にはどこに行きつくのか・・そのような流れに関して読者には一切の情報が与えられないまま、これが起こり、それからこれが起こり、それからこうなって・・という形、すなわち「ストーリー」が、エステの視点から時間経過を追って語られるだけなのだ。しかも、エステ嬢はあのディケンズのいつもの饒舌癖をたっぷりとお持ちなので、読者はあらゆる場面で寄り道に付き合わされている。実にじれったい。どうして「これ」が語られ、諸々の「あれら」は語られないのか、その「プロット」が450ページ読み進んでも読者には明かされないのである。小説の書き手の女性が「一人称形式」で語っていく場合、しかも彼女が美女で性格が良いと描かれている場合、読者はどうしてもその語り手を好きにさせられてしまいがちなものであるが、・・その少女がディケンズばりの微細な事柄を詳細に語るのであったら、2000ページの物語に付き合いきれるか、どうか? 

 上記で引用した第16章でなにか秘密ありげな事情がほのめかされる。

 今までの450ページは、恐らく最後までには何らかの重要な複線であったことが解き明かされることになるのだろう・・と期待しつつ読み進めるしかないのであろうし、150年前のヴィクトリア朝の読者たちもそんな期待を持って次の号が出るのを待っていたのであろう。うまく期待通りなら、ディケンズはドイルやクリスティーのお手本となる先駆者ということになろうし、がっかりなら、50年後や100年後のドイルやクリスティーに活躍の場をたっぷり残してあげようとした思いやりのある先輩ディケンズという位置づけになろう。

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補註: 岩波文庫で2017/6/17、佐々木徹さんという方の訳で出版されつつあるようだ。「おまえはおかあさんの恥でした」──両親の名も顔も知らず厳しい代母に育てられたエスターと、あまたの人を破滅させてなお継続する「ジャーンダイス訴訟」。この二つをつなぐ輪は何か? ミステリと社会小説を融合し、呪われた裁判に巻き込まれる人々を軸に、貴族から孤児まで、19世紀英国の全体を書ききったディケンズの代表作。(全四冊)・・と紹介されている。ほかにご存じ、田辺洋子さんの新訳も出ているようだ。あぽろん社(2007/08)

補註: アマゾンの世界文学大系本の紹介では: 村上春樹の短編小説に登場したことから、手に取る人が増えたディケンズの力作。筒井康隆も大絶賛のこの『荒涼館』は、読む人が長さに圧倒されるためか、読んで薦める人が少ないのかもしれないが、他のディケンズの名作『オリバー・トゥイスト』『二都物語』『ディヴィッド・コパーフィールド』や『クリスマス・キャロル』より以上に、小説の構成が緻密で巧みで、複雑のようでいて絡み合いが面白く、小説の極致といえる作品。他の名作以上に、小説らしく作り上げられている。・・とある。

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2017年7月10日 月曜日 晴れ

補註 全集本で「荒涼館」を読み進めている。このページの冒頭に6月19日付けの記録が見られるので、もうかれこれ3週間にもわたって「荒涼館」を読み続けているのであることに、今さらながら驚く。「エスタの物語」は次第に面白くなってきている。これも辛抱しながら最初の4分の1を読み終えたことからの継続である。

イギリスの法律の一つの大原則は、現状をそのまま続けさせよ、ということである。これほどはっきりした、確実な、またこれまできわどい目にいろいろ会いながら、終始一貫守られてきた原則はない。こう考えてみると、法律というものは首尾一貫した体系で、とかく素人が考えるようなめちゃくちゃな混沌ではない。法の大原則とは君らの腹を痛ませて現状を続けさせることなのだ、と素人どもにはっきりわからせてやれば、きっと彼らはぶつぶつ不平をいうのをやめるだろう。(ディケンズ、同訳書、全集版下巻、p110)

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2017年7月11日 火曜日 曇り一時雨

・・じきにスントールバンズに着き、夜明け少し前に車から下りました。やっとこのときになって、前夜の出来事の筋道がちゃんと分かりかかってきて、あれは夢ではなかったのだと思い始めるのでした。(ディケンズ、同訳書、全集版下巻、p334)

補註 後半、タルキングホーン氏殺害事件とバケット警部の活躍からは、小説は俄然テンポを上げて切迫しながら転がり出す。その面白さは素晴らしい。上記に引用したスントールバンズの地名もこうして警部とエスタ嬢とが奥方の道行きを追跡する場面での重要地名となってみると、前半のノンビリしたエスタ嬢の叙述の中で私が読みながら見すごしていたことを反省させられる。本書をまだ読み終わってはいないものの、このディケンズ本は、2度目に読むときには前半の部分も大変面白く読めるのではないかと、後半を読み進んでいる読者に感じさせる。文庫本にして恐らく2000ページ近い本書を、生涯に何度も読み返すためには、相当の長生きをすることが前提であり、ディケンズ読破は、人生を楽しい、長いものに(場合によっては短すぎて物足りないものに)してくれるはずである。さて、これからエスタは、その母は、どうなるのだろうか・・雨読のプロとなって読み進めることとする。(雨がまだ降らないのであるが・・今にも降り出しそうである)。

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ディケンズ 我らが共通の友(中)

2017年6月15日 木曜日 雨

C・ディケンズ 我らが共通の友(中) 間二郎訳 ちくま文庫

彼(=ユージン)に欠点があるのは分かっている、でもその欠点は彼の寄る辺ない気持ちから生まれたものなのーー何も信じられるものがない、大事にしたいものがない、これはと思えるものがない、だからそうなの。(補註1) そして彼女(=想像上のお金持ちで美しいレディ=つまりリジー本人の架空の姿)はーーあたしなんか足元にも寄れない、このお金持ちで美しいレディは、こうも言ってる。「・・略・・ 取るにも足りない私がいくらかでもお役に立つことで、今よりもずっと立派なあなたになって頂けるかもしれないんですもの」って(補註2)(同訳書、p140)

「女の心がーーあなたが言われた弱さを持つ女心がーーなにか得しよう、などと思うものでしょうか?」リジーは問い返した。この問いは、ベラが自分の父親に宣言したあの人生観と真正面から対立するものだったので、彼女(=ベラ)は胸中に呟いた。「ほらね、おまえなんか我利我利亡者の人でなしなのよ!いまの言葉を聞いたでしょ? 自分を恥ずかしいとは思わないの?」(同訳書、p478)(補註3)

「・・ほんとに、心の底から愛してるんですーーですから、あたしの人生はつらい事の連続なんだろうと思う時も、あたしはそれを誇らしく、嬉しく思うんです。あの方のためになにかに耐えていくことが、誇らしく、嬉しいーーそれがあの方になんの役にも立たないのはもちろん、あの方はそんなこと知りもしないし気にかけてもいない。でもいいんです」(同訳書、p479)(補註4)

「・・でもあの方の目が与えてくださった光明は、ぜったいにあたしの人生から失いたくないんです。どんな幸せに換えても。・・」(同訳書、p480)(補註5)

補註1 ここのところ、すなわちユージン・レイバーンの「寄る辺ない気持ちから、彼の欠点が生まれる」・・それをもう少し明確に詳しく描いて欲しいものであるが、極めて簡潔に、しかもリジーの視線から叙述されているだけなのである。「二都物語」のシドニー・カートンの役作りの際にも感じさせられることであるが、「ここに至るまでの経過」が描かれておらず、「ここに至ってしまっている」人物が「変わることなく」活躍する・・従って、EMフォースターの言うところの「円球人物」として成長ないし退化する「時間」は描かれていない・・という小説の構造なのである。しかし、このディケンズ・ワールド、それはそれで楽しい。「扁平人物たち」が織り成すディケンズ「空間」、その描写の世界も素晴らしく、楽しめるのである。

補註2 リジーがここまで献身的にユージンを愛するようになったその経緯も正面切っては語られていないのが、ディケンズ小説の世界である。
 こんな美女でここまで性格の良いリジーであってみれば、シンデレラ物語としてどんな王子とも結ばれて良いはずであるが、それが何故、ここまで欠点の多いユージンなんかに献身的に結ばれねばならないのか、と現代人なら考えてしまう。が、何しろ150年前のヴィクトリア朝の身分社会であってみれば、紳士のユージンと貧しく教育のない生い立ちのリジーとの段差は絶望的に超え難いものであって、これ以上のものを超えさせるのは、保守漸進的なディケンズには難しかったし、たとえ小説でも扱いがたい荒唐無稽となったのであろう。むしろ、(当時としては)ここまで厳しい超え難い壁を越えさせるディケンズの悩みと勇断に注目すべきなのである。

補註3&4 リジー(ロンドンを去って、秘かに田舎に身を潜め、工場で働いている)が(ベティ婆さんの埋葬に際して)訪ねてきたベラに、気持ちを語る場面。

補註5 「リジーがここまで献身的にユージンを愛するようになったその経緯」(補註2参照)が、リジーの口から語られる場面。理路整然という理性の世界ではなく、恋という心の世界の働きだから、まさに、この時のリジーが語るような語り口が正しいのであろう。小説でも直接的な描写言葉で語れない、人と空間と時間とを描写するしかなかったのかもしれない。

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「あいつ(=秘書のロークスミス氏)だって従僕どもと同じなんだ。こっちがあの連中を踏みにじるか、こっちがあの連中に踏みにじられるか、ふたつにひとつだってことがわしには分かってきたんだ。あいつらは、わしら(=ボッフィン氏夫妻)の昔のことを(たいていは嘘っぱちだが)もう知ってるんだ。こっちが初手から強く出なけりゃ、馬鹿にされるのがおちなんだよ。もとを洗えば、せいぜいのところがおれたちと似たもんじゃねえか、なにが偉い? とくるわけさ。気を許さずにつっぱり通すか、やつらの足もとに身を投げ出すか、そのどっちかを選ぶしかないんだ。本当だぜ」
 ベラは思い切って、睫毛の下から一瞬そっと彼(=ボッフィン氏)の方を盗み見た。以前は晴れやかだった彼の顔には、疑念、貪欲、うぬぼれが暗いかげりを投げていた。(同訳書、p360)

「でも、ボッフィン氏の側に、許してもらう必要なんてあるのかしら?」ベラは自室で椅子にかけながら考えたーー彼が言ったことは理にかなっている、そうよ、まさにその通りなんだわ。あれはあたしがしょっちゅう自分に言っていることそのままじゃないの。それなのにこんな気持ちになるなんて、あたしがそういう考え方を好きじゃないということかしら? そう、好きじゃないんだわ。そして彼はあたしにとって大恩人なんだけど、ああいう考え方をする彼に軽蔑を感じてしまうんだわ。それならばよ」ベラはいつもの通り、姿見にうつる自分の姿にきびしくこの質問をつきつけた。「いったいあんたはどういうつもりなの、矛盾だらけの、人でなしの小娘さん?」・・・(中略)・・・そして翌朝彼女は、またもや黄金の塵芥屋の表情にあのかげりをさがし、それがいっそう濃くなっていはしないかを確かめようとした。(同訳書、p363)

補註 扁平から突如円球へと変貌し、退縮(=ボッフィン氏)・成長(=ベラ)していく二人が描かれている、ややディケンズ離れした人物二人である。
 汚れ役のボギー(ハンフリー・ボガート)主演の映画「シィエラ・マドレの黄金」、あるいは、ご存じ「指輪物語」の魔術に囚われた人々を彷彿とさせるこのボッフィン氏の変貌、そしてその魔術の中にすでに呑まれていたかに描かれていたベラが、魔法には囚われていない新たな自己を見出し、その自分に問いかけながら生き方の答えを探し始める場面である。
 「彼(=ボッフィン氏)が言ったことは理にかなっている、そうよ、まさにその通りなんだわ。あれはあたし(=ベラ)がしょっちゅう自分に言っていることそのままじゃないの」・・つまり、極めて「ありきたり」の事象の描写ながら、ディケンズが描くと映画の一場面を見ているように印象的である。

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2017年6月16日 金曜日 晴れ

Charles Dickens, Our Mutual Friend, Penguin Classics, 1997 (First published in two volumes 1865)

補註 間二郎訳の同書、上中下の3巻本で日本語文庫で恐らく1500ページ以上。先ほど、中巻566ページを読み終えた。下巻に関しては、「¥ 3,738 より 7 中古品の出品」などとなってプレミアムがついており、なかなか手の出せる額ではないので、残り3分の1は原書で通読し始めることになる。

ちくま文庫版ではなぜか挿絵がカバーに一枚だけで残念であった。たとえば、中巻の挿絵は、ロジャー(ローグ)の娘・プレザント嬢が謎の人物(ロークスミス氏の変装)の訪問に緊張して髪をたくし上げる仕草をする場面ーー何気ない場面であるが、筋の展開ではかなり重要な場面(ペンギン版では Miss Riderhood at Home のレジェンド入り、p349)ーーこの一枚だけ。

一方、ペンギン版はオリジナルの挿絵が全て載せられていてありがたい。ぺらぺらと捲って見ると、ベラ嬢がボッフィン氏の本屋さん巡りに付き合う場面ーーベラは小顔で長身、ごつい大顔のボッフィン氏よりもすらりと背が高い美女に描かれている。圧巻のベラとリジーとの出会いの場面は・・残念ながら挿絵なし。

さて、訳本に頼って3分の2までは安直にたどり着けたものの、これからの3分の1の道のり、ディケンズ英語はかなり難解であり、最後までたどり着けるかどうか、危ぶまれる。

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ディケンズ 我らが共通の友

2017年6月8日 木曜日 雨のち曇り(晴れ間と陽射しもあり)

C.ディケンズ 我らが共通の友(上) 間二郎訳 ちくま文庫 1997年(原作は1864-65年)

「ばかげた気分になってるんだよ」ユージンが言った。「僕はばかげた男なんだ。何から何までばかげてる。さ、行こうぜ!」
 ライトウッドの心を、友人(補註:=ユージン、駄洒落ではないはず)の身にある種の変化がここ半時間ほどの間に起こっている、という思いがよぎった。彼のもっとも突飛な、なげやりな、無鉄砲な面を増幅した、とでも言うしかないような変化が・・・。日頃のユージンにはすっかり慣れっこのはずなんだが、今の彼には何かこれまでにない不自然なところがある・・・、ライトウッドはそう思って一瞬とまどいを覚えた。その思いは彼の心をふっとよぎって、すぐに消えて行った。だがそれを、彼は後になって思い出したのだった。
「ほら、あの家だよ、娘が座ってまってるのは」吠え猛る風にさらされて土手の下に立った時、ユージンが言った。「あの明かりは火鉢の火なんだがね」(同訳書、p326-327)

補註: ユージンはどことなく「二都物語」のシドニー・カートンを思い起こさせる人物であるが、長い小説は始まったばかりで、この人物がどのように描かれるか、今はわからない。E.M.フォースターによる「扁平人物」と「円球人物」という表現分けの視点からは、ディケンズ本の登場人物の多くは扁平キャラクターであるが、ユージンの身に起こっているある種の変化が、ユージンを円球人物にしていくのか、あるいは扁平にとどまってしまうのか、読み進めていくうちに明らかになるのかもしれない。

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