カテゴリー別アーカイブ: religion

原感覚としての儒教を大切にすること

2017年8月15日 火曜日 曇り

加地伸行 儒教とは何か 中公新書989 1990年

私は真言宗信者として仏教を、原感覚として儒教を、論理矛盾を知った上で、ともに大切にしている。(加地、同書、p224)

**

*****

********************************************

民衆の壮大な仏教誤解

2017年8月13日 日曜日 小雨

朝は雨。

**

加地伸行 儒教とは何か 中公新書989 1990年

 それでは、再生や長生という現世への執着に満ちていた中国人が、なぜ輪廻転生という異質の仏教を信じたのかという問題がある。結論を先に言えば、仏教をよく知っていた知識人は別として、民衆の壮大な仏教誤解があったからである。すなわち、輪が回り続けるように苦しみが<転生>して長く長く続くという点がすっぽりと抜け落ち、死んでも来生に再び<肉体を持って>生まれることができるなら良いではないかと考えたのである。・・楽しいこの世に肉体を持ってもう一度生まれることができる転生を良いものと誤解したのである。・・・(中略)・・・ その上、儒教の<再生>は、神主・木主<魂の憑りつくところ>におけるものであるから、結局は観念的とならざるをえない。生きた肉体を伴わない<再生>であるからである。しかし、仏教の<輪廻転生>を「輪廻」抜きで、・・・(中略)・・・ただ過去から現在へ、現在から未来へというレベルで<転生>を言うとき、それは<楽しい>この世に、儒教のように神主に憑りつくだけではなくて、快楽をつくせる生きた肉体を持って再生することができるというふうに誤解することとなる。しかし、この誤解は、同じく再生を説く儒教に比べてかえって魅力的であり、こういう壮大な誤解によって、民衆において仏教が大流行したのである。それが、魏晋六朝時代から隋唐時代に至る状況であった。(加地、同書、p174-175)

**

・・一般民衆にとっての仏教とは<死後も楽しいこの世に再び生まれ変わることができる>ものであり、それならいいではないかと誤解された仏教であった。・・死後、<苦の世界>でなくて<楽の世界>へというこの発想が中国人民衆に広がった結果、そのつきつめた形として浄土思想が大流行となる。すなわち、死後、浄土に<往>ってそこで<生>きる、すなわち<往生>である。
 これは日本においても大流行する。こうした浄土思想、すなわち、死後に長い長い輪廻の苦しみが待っているとはしないで、阿弥陀如来の本願にすがって浄土へ行けるとするのは、中国人や日本人、楽天的な東北アジア人にぴったりであった。(同書、p176)

**

補註: お盆の時期を迎えて、今から50年以上も前、田舎の祖母や叔母と過ごしたお盆の日々を思い返したりしている。お盆の3日間だけは、私たち子供が魚や虫を捕ってはいけないと固く禁じられていた。これは、一年中を通してベースにあった仏教の生類憐れみの仏教思想だけではなくて、この特別なお盆の日に、ご先祖の霊がフナやカブトムシに宿ってこの家に帰ってきているかもしれないという祖霊の<招魂再生>の思想が変形されて一般民衆の心の中にあったことの現れであったのかもしれない。子供の私は、深く疑うでもなく、また深く信じるでもなく、素直に聞き従っていたように思う。北東アジアの民衆の「壮大な仏教誤解」から生まれた俗信であったかもしれないが、私たち子供には通奏低音として心の底を流れ奏でられる日常だっただろう。
 今では私も還暦を過ぎ、父母の位牌だけでなく、祖母やその家を守ってくれた叔母の位牌をも祀る身となってしまった。今日、このお盆の日には、天候が許せば、春から育ててきてやっと咲きはじめたムギワラギクの花を摘んで、若くして異国で死んだ伯父の位牌を代表として、祖母や叔母や父母、私が祀るべき祖霊を想い、家族で語りながら、その依りつくべき位牌に花を飾ることとしたい。

**

*****

********************************************

トルストイ 生きることの意味を求めて

2017年1月4日 水曜日 曇り・雪

八島雅彦 トルストイ 人と思想162 清水書院 1998年

**

トルストイ 生きることの意味を求めて
神への奉仕とは何かーーーそれは価値の尺度をただ神だけに求め、神の前によりよい自分を築き、自分の中に愛を発現していくことにほかならない。

**

最初のヨーロッパ旅行
・・どちらの思い出においても、トルストイの脳裏に刻みつけられたものは、文明と呼ばれるものが持っている残酷で野蛮な側面であった。・・・(中略)・・・ そこで彼は生まれて初めてギロチンによる死刑執行を目撃したのだった。その衝撃は信じがたいものであった。パリの魅力はすっかり色あせてしまった。・・このヨーロッパ旅行の印象は結局パリで見たギロチンに集約されるものだった。
 犯罪人を罰として八つ裂きにすることは残酷なことではあるが、理解できることだ、とトルストイには思われた。だが、八つ裂きにするのは野蛮だという理由でギロチンが開発されるという文明の進み方が、トルストイには理解できなかったし、理解したくもないことだったのである。

祖国ロシアの姿とその進むべき道
・・けれども、トルストイはこの国でやっていこうと思った。ここを足場として、ここから出発しようと考えた。変革は必要であるが、それはヨーロッパの真似ごとをすることではないということがヨーロッパから帰ったトルストイにはもうはっきりしていた。(同書、p35-36)

**

生きることの意味を求めて
・・彼ら(農民や巡礼や行商人たち)の暮らしは信じがたいほどに貧しかった。しかし、彼らは快活に生きており、その快活さは真実に気づいていないための快活さではなく、反対に、トルストイの知らない真実を知っているがゆえの快活さであるようにトルストイには思われた。・・こうしてトルストイは生きるために、生きていける状態を取り戻すために、民衆と一体になる生活へと入っていったのだった。(八島、同書、p62)

信仰の意味
・・そのどこにも楽しみらしいものの見当たらない暮らしの中で、しかし彼らは決して善良さを失うことがなく、死をも静かに受け入れるのだった。彼らの生活を支えていたのは無知でも、根拠のないオプティミズムでもなく、ほかならぬ神に対する信仰だったのである。神にはこうなるのがよいのだと、彼らは労働も不幸も災難も、そして自分たちの死さえも受け入れた。神に必要なことであってみれば、それらを受け入れることは喜びだったのである。・・・(中略)・・・ 民衆の信仰が教会に由来していることは否定できなかったが、教会の求める信仰は、民衆の信仰とは明らかに異なっていた。(八島、同書、p62-63)

生活の回復
そんなトルストイの中に、いつしか、信仰とは神を求めようとすることにほかならないのではないかという考えが生まれ、それが次第に固まってきた。神を求め続けること、それこそが生きることなのではないか、と。(八島、同書、p63)

・・神を求めることが信仰であるとすれば、信仰の最大の妨げとなっているのが、ほかならぬ教会であるように思われてきたのである。しかも、それは偶然そうなっているのではなく、教会は故意に本来あるべき信仰を妨げているのだった。(同、p64)

**

では、自分で考えた人間が本当の答えを知りたいと思うのはなぜだろう。それは自分の目と頭を信じているからなのだ。・・自分の目と頭に対する信頼が大きければ大きいほど、本当の答えを知りたいという欲求も強くなる。そこに創造の可能性も開けてくるのである。・・大切なのは、自分の目を信じることのできる人間、自分の思考を信頼できる人間をつくることなのであり、それこそがトルストイの教育の最終目標になっていると考えられるのである。(同、p112)

**

もし彼らに本当の信仰があるなら、彼らは、信仰とは生命の意味であり、人それぞれが神との間に確立する関係であって、それゆえ信仰は教えられないこと、教えられるのは信仰の欺瞞だけであることを知っているはずである。(同、p124)

欺瞞の源泉
・・この逸脱はキリストの使徒たち、なかでも教育好きのパウロの時代から始まっている。そしてキリスト教が広まれば広まるほど、教義はますます逸脱していき、キリストによってあれほどきっぱりと否定を表明されている、ほかならぬ外面的敬神と教育活動の方法をわがものとしていくのである。(同書、p125-126)

事業としての教会
コンスタンティヌスとニカイア公会議以降、教会は事業に、そして欺瞞の事業になっていくのである。(同、p126) 始まりは悪であったーーー憎しみ、人間の高慢、アリウス(補註##)その他に対する敵意であった。そして、もう一つの、さらに大きな悪がキリスト教徒と権力との統一である。権力、すなわち・・コンスタンティヌスがキリスト教を受け入れ、・・公会議によって唯一正当なキリスト教信仰を確立するのである。(同書、p126-127)

**

人間の務め
みなさんの心の主要な願望が自分自身がよくなることであるときには自分自身を信じることだ。私が言うのは完成ということではない。なぜなら、自己完成ということには、何か自愛心を満足させるような個人的なものがあるからだ。私が言うのは、われわれに生命を与えた、その神の欲するものになることであり、われわれの中に埋め込まれている、神に似た根源を自らのうちに開示して、百姓たちが言うように神に従って生きるということなのだ。
 自分自身を信じ、すべての力を一つのこと、自分自身の中に神を現すということに向けて生きることだ。そうすれば、みなさんは、自分の幸福のためにも、世界全体の幸福のためにも、自分にできることはすべてすることになる。神の王国とその真実を探せば、あとはひとりでにうまくいくものだ。そう、みなさんの心の中に、自分は神から生まれたものだという意識の光が最初に燃え出すきわめて重大なときには、自分自身を信じることだ。その光を消すことなく、全力で守り、燃え上がらせるようにすることだ。このことにのみ、この光を燃え上がらせることにのみ、あらゆる人の人生の唯一の偉大で喜ばしい意味があるのだから。(トルストイ「自分自身を信じること」(1906-1907)、同、p193-194)

神への奉仕
「神の国は汝らのうちにあり」で、トルストイは「人類」という観念に奉仕するのは誤りであるとはっきり述べている。それは漠然とした観念であり、実際問題として、時間的にも空間的にも人類全体を把握することができない以上、「人類」という観念の前では、人はどうしても恣意的な行動しかとることができない。だから、「人類」に対してではなく、「神」に奉仕せよとトルストイは説くのである。「人類」に対する奉仕がしばしば人間同士の争いを引き起こしかねないのに対し、神への奉仕は決して人類に害悪を及ぼすことはなく、結果的に人類に幸福をもたらすことになるのだ、と。そう、人類の幸福は結果であって目的であってはならないのだ。
 では、神への奉仕とは何かーーーそれは価値の尺度をただ神だけに求め、神の前によりよい自分を築き、自分の中に愛を発現していくことにほかならない。一人の人間には結局それ以上のことはできないし、それ以外のことは求められていない。だから、ただ神の声としての自分自身の内なる善の声に耳を傾けなさいーーーこれが若者たちに対するトルストイの最後のメッセージだったのである。(同、p197)

**

*****

補註## アリウス ウィキペディアによると・・・
アリウス(Arius、250年 – 336年)は、アレクサンドリアの司祭で、古代のキリスト教アリウス主義の提唱者。325年、第1ニカイア公会議にてコンスタンティヌス1世はアリウスの広めた教えを異端とし、アリウス及びその同調者の破門を正式に決定した。その後、ニコメディアのエウセビオスの仲裁などにより復帰を許されたが、コンスタンティノープルで336年死亡した。
 アリウスは、子なるイエス・キリストが生まれた者であれば父なる神と同質ではありえないとするユダヤ教同様の厳格な唯一神教(ヘテロウシオス)を説いたのに対し、アタナシオスらニカイア派はキリストの誕生を人間のそれと同一に考えるべきではないと、三位一体論を説いた。
325年のニカイア公会議でアリウスの教えは異端とされ、その際採択された『ニカイア信条』により神である父と子であるキリストは同質であることが確認された。一応の決着は見られたが、その教えを信奉するアリウス派は多く、その死後もアノモイオス派、ホモイオス派、ホモイウシオス派の三派に分裂しつつも、勢力を保った。
しかし381年の第1コンスタンティノポリス公会議において、ニカイア信条が有効であることが再確認され、さらに451年に開催されたカルケドン公会議において再度異端であることが確認された。(以上、ウィキペディアより引用)

補註 アリウス派 ウィキペディアによると・・
アリウス派の主張内容については、「イエス・キリストの神性を否定した」とも、あるいは「イエス・キリストは神的であるとは言おうとしていたが、その神性は神の養子とされたことによる」とも、「イエス・キリストの人性を主張し、三位一体説を退けた」とも言われる。
 ただし、「人性の主張」との要約についてはやや正確さを欠くもので、アリウス派と対峙したニカイア派(アタナシオス派)も、イエスの神性と人性の両方を認めている。さらに、「神性を否定した」については、先述のように「神的であるとは言おうとしていた」と評される事もあり、議論が分かれる。
 なお、アリウス派と対峙した、いわゆる正統派となった派を「アタナシオス派」(もしくはラテン語から転写して「アタナシウス派」)と呼ぶ例が高校世界史で一般的であるが、こちらの派もアタナシオスが創始したわけではない。実際、初期にアリウスと対峙し、アリウスを破門したのはアレクサンドリアの主教アレクサンドロスである。そのため、専門書では、いわゆるアタナシオス派はニカイア信条から名をとって「ニカイア派」などと呼ばれる。<以上、ウィキペディアより引用終わり>

*****

********************************************

善悪の二つ存知せざるなり

2016年8月5日 金曜日 極めて暑い

筧次郎 ことばのニルヴァーナ 歎異抄を信解する 邯鄲アートサービス刊 2004年

辛い労働と貧しい暮らしと孤独に直面して打ちのめされそうになったとき、私は「歎異抄」の「善悪の二つ総じてもって存知せざるなり」という親鸞聖人の言葉を初めて了解(りょうげ)したのです。(筧、同書、p223)

親鸞聖人の言葉に出会って、私は「世の中を変えよう」という気持ちを捨てました。それをきっかけに心がずいぶん軽くなり、百姓暮らしの中に豊かさや楽しさを見いだすことができるようになりました。(筧、同書、p225)

*****

科学技術の発展が欧米の豊かさをもたらしたように思っている人が多いのですが、科学技術は富を創り出したのではなく、富を集める道具を創り出したのです。・・現代の工業機械も形こそ違うが武器のような役割を果たして、南の国の人々の富や労働を奪っています。(筧、同書、p222)

*****

「・・商いをもし田畠を作りて過ぐる人も、ただ同じことなり。さるべき業縁の催せば、いかなる振る舞いもすべし」とこそ、聖人の仰せ候いしに、・・(筧、同書、p161に引用されている歎異抄、第十三条)

*****

********************************************

モラリストとしてのスウィフトの限界

2016年7月19日 曇り

三浦謙(ゆずる) スウィフト管見 南雲堂 1984年

私たちには相手に慈しみをもたせるような宗教はない: モラリストとしてのスウィフトの限界

宗教について
私たちには、相手を憎悪させる宗教はあるが、相手に慈しみをもたせるような宗教はない。(The Prose Works of Swift, New York, AMS Press, 1971, VOl. I, pp273-87; Vol. III, p307)(三浦、同書、p116より孫引用)

スウィフトは、とりわけ非国教徒と地主階級には根強い反感を抱いていた。上掲の引用は、このような対立抗争から、生涯抜け出ることのできなかったスウィフト自身の内省のことばでもあろう。

スウィフトは、「教会は、死んだ人間ばかりでなく、生きている人間の寄宿舎でもあるのではないか」(The Prose Works of Swift, New York, AMS Press, 1971, VOl. I, pp273-87; Vol. III, p307)という疑問を、たえず自身に問いかけていたのである。スウィフトは担当の教区を隈無く回って、積極的に布教活動を行いながら、貧者には金を惜しげもなく与えた。スウィフトが慈善に費やした金額は、キング大主教と同率であったといわれている。(三浦、同書、p117)

*****

混沌の中にあって自他ともに生きる方途を模索する
スウィフトは、モンテーニュのように開明的ではなかった。スウィフトは、どちらかというと矛盾を思念の世界で受け入れた。現実に生かすには保守的すぎたのである。モンテーニュは酸鼻をきわめて新旧両派の抗争に、命がけで身を乗り出し調停に当たった。しかし、宗教的には頑迷であったスウィフトは、国教会の枠を超えて宗派の調停に乗り出すことはできなかった。スウィフトは最後まで国教会にとどまり、ついには、教会およびキリスト教に絶望するのである。モンテーニュのように現実をありのままに見つめ、混沌の中にあって自他ともに生きる方途を模索できなかったところに、モラリストとしてのスウィフトの限界がある。(三浦、同書、p118-119)

*****

僧界でのこのような着実な昇進ぶりは、聖職者としてのスウィフトが、少なくとも義務の履行を怠らなかったことを裏書きしている。事実、法衣を纏ったスウィフトには、奇行らしきものは見られないし、教区の評判もなかなかのものであったらしい。  ところがいざペンを執ると、スウィフトは大きく変貌する。その宗教批判は、現職の宗教家としては常軌を逸している感があり、・・その著作を読めば大方の人はその正気を疑いたくなる。その問題の著作の一つが、「桶物語」である。(三浦、同書、p121-122)

*****

風刺はすべての機知の中で、最も安易だと思われている。だが時代がいたって悪い場合には、そうではないと私は考える。・・きわだった悪徳の持ち主を風刺するのは難しいからだ。(三浦、同書、第九章 スウィフト随想録より孫引用、p136)

*****

補注 その組織の内部にいて、その組織の真の全面的な批判者であることができるのだろうか。自らが属するヤフーを徹底的に批判してついにフウィヌムの仲間になりたいと願っ(て果たせず人間界に追放され)たガリバーのように、人間の世界の中にあっても人間の世界では暮らせない狂人になる危険を孕んでいるのではなかろうか。
 自らの属する世界で通常の生を営むためには、「自己言及的な語り得ぬ事柄」については「沈黙する」ということが自己防衛の手立てとなる。スウィフトは文人としてその一線を越えて(匿名ではあっても公然の)宗教批判を展開しながら、一方で聖職者として正義感に溢れ熱心に業務をこなしていたのであった。鋭い刃の風刺文学をものす文人、そしてその徹底的な批判の対象となる宗教界に身を沈める職業人、その二つを我が身に引き受けることを是としたスウィフトは、分裂した狂気への道を否応なしに歩んでいくことになったのであろう。
 人が嫌なら人でなしの世界にゆくしかない・・その前提からスタートしてどのような道を人は選んで行くべきなのか。芸術や学問などの人類にとって価値あるものは、その選択肢の一つである(補注#)。スウィフトが選んだ風刺文学の道は、一見安易そうにみえても、意外と険しく(補注*)、スウィフトのように突きつめれば、人でなしの世界にまで足を踏み込むという深淵が待ち構えている。もう一つの道、「混沌の中にあって自他ともに生きる方途」を懸命に探してゆかなければ明かりを手にすることができないのではなかろうか。2016年7月19日追記

補注# 有名な草枕の冒頭「・・あれば人でなしの國へ行く許りだ。人でなしの國は人の世よりも猶住みにくからう。 越す事のならぬ世が住みにくければ、住みにくい所をどれほどか、寛容(くつろげ)て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ。ここに詩人といふ天職が出來て、ここに畫 …」を思い浮かべる。

 ところが、ガリバーの辿りついたフウィヌムの国は、人の世よりもずっと住みやすかったために、ガリバーの懊悩は一層深まる。草枕の主人公の物語のような展開にはならなかったのである。
 漱石は三十歳の若い芸術家を登場させて草枕の世界に暫しの明かりを見出す。しかし、漱石もまた、その世界に安らかに住み続けることはできなかった。草枕の世界を後にして、「混沌の中にあって自他ともに生きる方途」を懸命に探していったのだ。

補注* 風刺はすべての機知の中で、最も安易だと思われている。だが時代がいたって悪い場合には、そうではないと私は考える。・・きわだった悪徳の持ち主を風刺するのは難しいからだ。(三浦、同書、第九章 スウィフト随想録より孫引用、p136)

*****

********************************************