卒業式によせて:開校百年史

 

卒業式によせて: 津山市林田小学校の開校百年史から

 

2006年3月17日

 

快晴。雪解けがどんどん進む。今日は、札幌市内の小学校の卒業式とのこと。センチメンタルな昔のポップなど聴く。

Some dance to remember, some dance to forget.

So I called up the Captain,

“Please bring me my wine”

He said, “We haven’t had that spirit here

since nineteen sixty nine”

And still these voices are calling from far away,

Wake you up in the middle of the night

Just to hear them say…

Welcome to the Hotel California (*)

1969年って、どんな時代だったのか。泥沼のベトナム戦争、、、計算してみると、ちょうど1969年の3月に私は小学校を卒業したことになる。私にとって、1969年まで持っていて、そして失ってしまったスピリットって、なんなのだろうか。

職場に飾ってあるだけで、めったに取り出してみることもない歴史書を開けてみることとした。歴史書といっても、一般には手に入らない私の母校(津山市立林田小学校)の「開校百年」史(**)である。昭和43年度の6年生として、3ページがあてられている。「昭和43年8月、講堂屋根大修理。経費十五万円」とある。そんな「大修理」がたったの十五万円だったとは驚く。当時の物価が今よりはかなり安かったとしても、それでも不思議な安さである。その下には「昭和44年2月、ファックスを新調した」とある。金額は書かれていないが、ひょっとすると講堂の屋根の大修理の費用に負けないぐらいの一大事だったのかもしれない。ようやく電話が一般家庭に普及しだした頃だ。当時、少なくとも田舎では、ファックスは見たことも聞いたこともない技術であった。当たり前にファックスを使うようになったのが1980年代のこと。そして、今ではpdfファイルの電子送信に取って代わられた。

日本の出来事(1968.4から1969.3)として、以下のようなことが列挙されている。

東大などの一連の学園紛争。

初の心臓移植手術(札幌医大和田寿郎教授)。

川端康成にノーベル文学賞。

小笠原諸島日本へ帰る。

水俣病を公害病と認定。

世界の出来事としては以下の通り。

ソ連・東欧軍、チェコに侵入。

ベトナム和平交渉開始と北爆の停止。

キング牧師暗殺、全米土で黒人暴動。

流行語として、以下の3つ。

昭和元禄、大きいことはいいことだ、タレント候補

思い出の歌、として以下の3つ。

三百六十五歩のマーチ、帰ってきたヨッパライ、恋の季節

映画、として以下の4つ。

黒部の太陽、オリバー、卒業、猿の惑星。

一年の出来事を十行程度にまとめる難しい仕事をよくやったものだ。それぞれの行が、感慨深い。行間を若干埋めてみると、、、

1)東大の安田講堂への機動隊導入、私もテレビでリアルタイムで見た。医師のインターン制度は、廃止され、そして30数年を経て、今また復活した。

2)不思議な因果で、私自身が札幌医大に勤めている。和田心臓移植に関して、札幌医大はきちんと調べ、歴史を書きしるし、そしてその上で、心臓移植をも含む先端医療に積極的に取り組んでいって欲しい。私も基礎研究者として鋭意取り組んでゆきたい。

3)川端さんは今は亡い。私もときどき「雪国」など読む。「駒子もすなるスキーなるものを我もしてみむとて」、5年前に恐る恐る始めたスキーではあったが、ついつい技術的側面にのめり込んでしまい、なかなか川端さんの情緒に自己を同化することができない。つまり、簡単に言えば、私は川端文学を理解できていない。

4)沖縄が1972年。これに関しては、別のところで。

5)水俣の歴史、これも、別のところで。聞書水俣民衆史 ―村に工場が来た、岡本 達明 (著) などを、読んでゆきたいと思っている。「藩政時代、米一粒一粒まで数えられるほどの収奪を受けていたこの地域の百姓」(***)、人々の生き様を描く歴史の書物を読みながら、水俣を理解したいと思っている。

6)「プラハの春、1968年」、大学時代にフーサという作曲家の現代音楽を吹奏楽部で演奏した。だから、この年号は忘れられない。自動小銃か機関銃の連射を表す音の連打が、今も頭の中に響く。ペレストロイカの雪解けは、20年余り先。ところで、田舎の少年には世界の動きがリアルタイムでは飛び込んでこなかったようだ。このニュースは全く記憶にない。

7)ベトナム戦争、アメリカの公民権運動、これらに関しては、別のところで。

小学校の百年史には、もっと昔の子供たちが載っている。1969年よりさらに30年前、1939年(昭和14年)にさかのぼると、「昭和14年7月9日水飲み場屋根の工事を起こす、7月13日竣工す。工事費は一百五十円なりき。」とある。当時の150円はある程度の大金で、こうして特筆してあるのであろう。「津山の出来事」の欄に「平沼騏一郎が内閣総理大臣となる」とある。こんな小さな町のできごとなのだろうか、と疑問の向きもあろうが、平沼は、私の郷土の生んだ大物政治家、善悪・評価はともかく、真正面から見つめるべきであろう。日本の出来事として、「国民徴用令を公布、全国の招魂社をを護国神社と改称」とある。「昭和12年7月に起こった日中戦争の拡大につれ戦時大戦下の小学生生活であった。クラスは男女別々、祝祭日は登校日で校長の訓辞、奉安殿前の最敬礼、東津山駅頭での出征兵士見送り、戦勝祈願の神社参拝、田植え休み前の苗代田の蛾取りなど戦意高揚に主眼が置かれていた(尾島正敏さん、思い出1939)」と書かれている。このころの卒業生たちは、15年戦争のさなかで育っていったのであり、大変な少年少女時代だったろう。祝日も校長先生の話を聞きに登校し、「田植え休み」には田植えを手伝い、中学や女学校に進んでからは、勉強どころではなく、学徒動員であった。卒業生のクラス写真、確かに、男女それぞれ1枚ずつで別々になっている。この集合写真のなかに私の母がいるはずなのだが、どれが12歳の母か、私にはわからない。私の同級生の安藤さんや須江さんのお母様がたがそれぞれ母と同級生だったので、もしお元気でいらっしゃれば帰郷の折などにお会いして、写真を見ていただくと判明するかもしれない。ローカルな話で申し訳ない。さて、この年、「世界の出来事」として、ただ一つ、「ドイツ軍がポーランドに侵攻、第二次世界大戦が始まる」とある。私の教授室の書棚には「裏切り(BETRAYAL)」(****)という物騒な題名の本が立っている。「ヒットラー=スターリン協定の衝撃」。1939年8月23日独ソ不可侵協定締結、平沼騏一郎内閣もこれで崩れるのである。

ところで、この百年史がもっとすごいのは、当たり前のことではあるが、もっともっと昔の子供たちが載っていることである。幸いなことに、私の母校は百年の年月を経た現在まで、敷地の移転を免れたため、祖母、母、私の3代で同じ土の上で遊んだことになる。母の卒業からさらに27年を遡り、1912年を見てみよう。明治45年大正1年度生のページには私の祖母の名が見つかる。この頃は、苫田郡林田村立の林田尋常高等小学校という名前であったようだ。「明治四十年三月、小学校令の改正により尋常小学校の修業年限が六年となり、義務教育が六年となりました。」とあるので、明治45年大正1年度生たちは、みんな六年生で卒業したのであろう。この頃の校舎は瓦葺き木造である。卒業生の数は50人程度。この地域は、昔から安定して人の住んできた地域である。「八世紀の木簡に林田郷という地名が記載されています。林田(はいだ)という地名は、実に千二百年以上に及ぶ長い歴史を持っているのです。」とある。

この辺りのページをめくってゆくと、お髭の立派なすらりと長躯の先生が詰め襟でピンと背筋を伸ばして、どの写真にも登場する。子供たちに比べて、むちゃくちゃ背が高い。この方が第一代校長の植月寅吉先生であろう。明治34年10月4日就任、大正14年3月退任、となっているので、1901年から1925年まで、四半世紀にわたって学校の顔だったことになる。校長先生からの冬期休業中(冬休み)の心得として、

「一、年のくれはどこのお宅でもお忙しいから、年そうおうに出来る丈の御用を精出してかせがねばならぬ

一、年の始めは、まことにおめでたいのであるから、きげんよくにこにこしてくらす様にせねばならぬ、云々」

とあって、まことにほほえましい。また、夏休みの注意として、

「一、衛生に注意せよ。

イ、飲み食ひに注意し、氷や生水は成るべくのむな。

ロ、からだや、きものをきれいにせよ。

ハ、ねびえせぬ様に注意せよ。

ニ、朝成るべく深呼吸せよ。

ホ、病気になったら直ぐお父さんお母さんに話せ。云々」

これは、明治45年の七月に、この寅吉校長が生徒たちに命じたことだそうだ。私の祖母も、この寅吉校長のお話をちゃんと聴いていただろうか、そして、「お父さんお母さんその他目上のいひつけを良く守」って、「宿題をきっとして」いただろうか? 私が知っている祖母はすでにおばあちゃんであったので、明治時代のドラマから抜け出してきたようなこの寅吉校長から訓辞を受けている小学生の祖母を思い浮かべることができない。絣の着物を着た「普通の」かわいらしい明治時代の田舎少女を想像してみるだけである。卒業生の名簿に載っている人数よりも、写真に整列している人数の方がはるかに少なく、よって、私の祖母はこの写真の中には写っていないかもしれない。写真を検討してみると、校長先生は、全部同じ詰め襟である。帽子をかぶっているのが1908年と1912年の2回。あとはすべて無帽。コートを羽織って横を向いているのが1904年の1回。明治35年から大正4年まで、約15年にわたって、校長先生は同じ丸刈りと同じお髭、恒常心のしっかりした方にお見受けする。しかし、その年齢が余り進んでいないように見える。15年分を全部を一時に撮影することは不可能としても、このような田舎だと、数年に一度というペースでしか写真撮影されなかったらしい。よって、子供たちも全部12歳ではなく、とても幼いのから中学生に相当するようなお兄さんお姉さんまで、卒業年度ごとに差があって面白い。1916-18の3回分の写真が無くて、突然、1919年の写真では、おじいちゃんになった寅吉校長が現れる。詰め襟ではなく、おそらくモーニングの礼装である。写真から、とても立派に齢を重ねられた尊敬すべき愛すべき校長先生と拝察する。植月寅吉校長に関しては、「小成に安んずることなく、次なる大成をめざせ。常に、児童に対して実践躬行(じっせんきゅうこう)・奮励努力を勧め、林田小学校に自主・自立・自治の校風をはぐくんだ気骨の教育者であった。」と記されている。

さて、この百年史で残念なのは、いくらさかのぼれるといっても100年で終わってしまうこと。前身の玉琳小学の設立が明治7年とある。1874年である。百三十余年。その前は寺子屋(私塾)が、地区に数件有り、読み書き算盤、礼儀作法などを教えていたのだが、資料が乏しく、詳細は不明とのこと。寺子屋時代の街や子供たちや先生の写真を見ることができれば、きっと面白いだろうに。それにしても、実にたった100年程度の歴史では、若輩の私でさえ大昔の人間の部類に区分けされそうで、大いに面白くない。けしからぬことである。ピサ大学やオックスフォード大学のように1000年800年の昔へとは遡れないにしても、江戸時代、安土桃山、室町時代ぐらいまで遡って、子供たちや学校のことを(できればオーディオビジュアルに)見たり聞いたりできれば、とっても楽しく、私も大いに若返ることができそうだが。

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さて、冒頭でイーグルスの歌詞を引用したが、イーグルスは私の好みではない。ただ、1969年が、ロックの魂が死んだ年、という言葉が気にかかるのである。しかし、どっこい生きてるロックスピリット、ということで、次回はセックスピストールズについて書く予定。

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*) Eagles, HOTEL CALIFORNIA, The complete greatest hits, イーグルス ベスト・コレクション、より引用。

**)開校百年 津山市立林田小学校創立百周年記念誌部編集、平成13年4月21日発行

***)鹿野政直 歴史を学ぶこと 岩波高校生セミナーp66,p72

****)ヴォルフガング・レオンハルト (菅谷泰雄訳) 裏切り 創元社

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<以上2006年3月17日のWEB記事より再掲>

 

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冬越しの柏の木

 

2014年3月9日 日曜日

 

雪の中にすっくと立って冬越ししている柏の木に出会いました。

 

柏の木240309aIMG_8673w

 

葉っぱを落とさずに春を迎えるのです。陽射しが暖かく、春が近づいてきているのを感じます。積雪は深く、1メートル以上はあるでしょう。4月の中ごろには雪解けを迎えます。あと1か月余り。

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芥川の「蛙」つづき

芥川の「蛙」感想文への感想文

2010年3月10日

芥川の「蛙」、今では電子図書館などで簡単に読むことができるので、是非ご覧ください。
– 図書館. http://toshokan.in/book3800.html

さて、この作品中、蛇は本当に「カエルのためにある」ものなのであろうか? それとも、蛇はカエルにとって理不尽な存在であり、何としても戦うべき相手なのだろうか。この問いかけへの答えは、答えるものの立ち位置によって大きく違ってくるだろう。この文章の作者は、カエルではなく、人間みたいで、

以下は、蛙 – 図書館.http://toshokan.in/book3800.html より、冒頭を引用。

蛙 - 図書館.http://toshokan.in/book3800.html より、冒頭を引用。
蛙 – 図書館.http://toshokan.in/book3800.html より、冒頭を引用。

明記されているように、縁側に寝ころんで古池を眺めているのである。2000年前のイソップやギリシアの賢人たちと同じような明晰な頭を持って池の世界で起こる事象を観察し記録してこのような面白い寓話に仕立てた。葦や蒲や並木や夏の空が、池の水面を反射鏡として、「実際よりも遙かに美しい」風景となって作者の眼に映っているのである。

5年前には気づかなかったけれども、「実際よりも遙かに美しい」という言葉にも引っかかる。確かに水面に映る景色は詳細が捨象されて私たちの目にとても美しく映るものではある。しかし、本物を見つめることなしに、水面に映る虚像の方を「実際よりも美しい」と言って良いものだろうか。

さて、5年前に書いた私の感想文は、あえて作者の視点に異論をとなえたものである。水面に映る葦や蒲や並木や夏の空の虚像を眺める視点ではなく、水面に身を浮かべて、直接「葦や蒲や並木や夏の空」を真正面から見つめている。だから、芥川の視点と交わるところがない。

この視点から、古池の蛙の世界を見れば、蛇は本当に巨大で恐ろしい。そして何よりもこの大学教授の蛙の突然の死が悲しくて悲しくてたまらない。理不尽な死に方がかわいそうで仕方がない。他人のことではない。

広い世界の一部の狭いエコスフィアの内部で繰り広げられる自然の摂理を、外の世界から池を観察しながら深く感じている(この文章の作者のような)他の生命体が存在することも事実であろう。しかし、小さなカエルを馬鹿にしてはいけない。大きな宇宙とそれを貫く自然の摂理があること、たとえ池の中で泥まみれで鳴いていようとも、それを慮ることはできる。大きな宇宙の法則を観照しながらも、なおかつ自分の今生きている池の現実を正面から見つめているカエルは、いる。理不尽な悲惨な現実と闘うための道を、何とか編み出したいと考えた小学五年生の(私が感想文を引用させていただいた)小さなカエルに、私は大きな尊敬を感じ、共感し、また、その小学生の不確かな将来を案じるのである。

 

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以上は、2010-03-10付けWEB記事再掲 2005年の感想文への感想文(2010年)

 

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芥川「かえる」へ寄せて感想文

    芥川「かえる」へ寄せて感想文 ほんとうに言いたいことは何か?

2005年5月20日

 

ほんとうに言いたいことは何か?

前回の文章「、、臥薪嘗胆を忘れる」を読んでくださった方から、坐骨神経は「坐骨」と書くべきこと、コルビジェは、ル・コルビジェと書かれる場合が多いこと、など、ご指摘をいただいた。謹んで訂正したい。坐骨神経は、ワープロでの漢字変換のぼんやりミス。こんなミスをしていたとは、指摘されるまで気づかなかった。ル・コルビジェの方は、知ってはいたけれど、ル・を付けるとどことなく文章がキザな感じになるような気がしたから略してしまった。ちなみに、ザ・チェアと書くからには、当然ヴェゲナーの名前も挙げたかったのだが、カタカナ表記に自信が無く、省略していたのである。北欧家具のヴェゲナーと、大陸移動説のヴェゲナーが頭に浮かぶ。

このところ、来月(6月8日)の大学院実験入門セミナーの講義の支度をしている。形式は、高い見地から既知の役立ち情報を教える、というのでは面白くないので、当部や他のグループの大学院生たちのずっこけや失敗をタネに、どこが間違っているのか、どうしたら良かったのかを、大学院生を指さして、答えさせながら進めていこうと思う。Q&A方式なので、当日出席する学生次第で、どう進むか予測が難しい。上手に講義を組み立てられるかどうか不明。

ところで、先週、小学5年生の国語の問題を見せてもらったら、芥川龍之介の「かえる」という寓話であった。大学教授のような蛙が池にいる多くの蛙たちに政治的・哲学的・宗教的思想(「この世のものはすべて蛙のために存在する」)を述べるのだが、突然、蛇に食われてしまう、という比較的単純な話だ。全文を読ませてから、多くの質問に答えさせる形式。最後の質問を見て、ムムッと考え込んでしまった。「作者がほんとうに言いたいことは何でしょうか?」という、本質的質問である。文章で自由に答えさせる形式だ。私は、札幌医科大学にやってきてから、大学院入学試験の英語の問題を作る係をしばらくやっていたことがあるが、もしこんなふうに「作者がほんとうに言いたいことは何でしょうか? 英語で自由に書いてください。」という問題を作ったら、きっと、余りにも難しすぎるという理由で、不適当問題としてカットされていただろう。しかし、小学5年なら、真正面から答えなければならない。私も、大学教授という同業者への共感もあり、このカエルの主人公に我が身を重ね合わせ、身につまされるものを感じる。

カエルがヘビに食われるのは、私たちヒトから見れば、ごく当たり前の事象であろう。ところが、大学教授の蛙自身から見れば、ことはそれほど自明ではない。蛇のような「蛙を食うもの」も蛙の幸いのために存在するのか? 大勢の蛙の中から、どうして自分が災難に見舞われるのか。今日まで、幸せに生きてきたのに、どうして今日、このような災いに出会わなければならないのか。ほんとうにこれが、蛙のために世界を作った偉大な神の意志なのだろうか? 芥川の寓話に表現されているように、蛙にとっての一神教の神の摂理では説明しきれない、不条理がそこにある。しかも、小学5年生に容易に答えられるように、芥川は、これをカエルにだけ当てはまる特殊な事情とは考えていないだろう。ヒトも人間も、やっぱりカエルと同じではないか?

私は、癌(をはじめとする難病)の治療法開発ということで、ずーっと仕事してきたけれど、このような目的に関して、多くの人から必ずしも共感を得られてはいないことを経験している。多くの場合ひとりでソリを引くことになる。

高い見地から見れば、人が難病で苦しむことも一定の確率で起こり得る自然の摂理であり、いってみれば、ヘビに食われるカエルと同様、悲しむ必要はない、受け入れればよい、と考え得る。高い見地から(他人事として)見れば、難病で苦しむことに何の不条理もない。しかし、一旦、その高い見地から降りて、我が身にその難病を引き受けてみれば、この不条理さは甚だしい。現実にその疾患に罹患する前は、罹患確率0.000** と、自分には起こり得るとしても極めて可能性の低かった事象が、一旦我が身に引き受けた途端に、確率1、つまり、確率論で云々できない現実のものとなる。この時、通常、人は、自分のことを他人事としては受け止められないのである。

私の研究スタンスは、常に、「きわめて低い見地から」超近視眼的に、食われるカエルの目線で、ヘビ(難病)を眺めるものである。これ(ヘビに食われて死ぬこと、難病で苦しむこと)を自然の摂理とはとらえず、あってはならない不条理、戦うべき敵と考える。ヘビが強敵であることは承知しているが、私は受け入れるカエルとして死ぬよりも、戦うカエルとして生き続けたい。

さて、芥川のほんとうに言いたかったことは、何だったのか? 48歳の私はかなりずるくもなっているので、1分で答える試験問題だったら、出題者の求めている答えをすぐさま書ける。ただ、普通は60分の試験時間だ。考えるゆとりはたっぷりある。きっと余った試験時間で、より深く考えて以下のような答えに到達するのである(極めて低い見地からの答えであるが)。

<以下、感想文>

「カエルの大学教授を、カエルの少年たちは見殺しにすべきではない。少年たちは、何とか、知恵を出して、勇気を奮い起こして、ヘビを撃退し、教授を助けなくてはならない。

カエルの大学教授も、大学教授だ。ヘビのような恐ろしい敵がいると知っていながら、独りよがりの哲学を振り回しているだけだった。井の中のカエルの教授、と言われても仕方がない。

もし、小学5年のカエルの僕が大学教授だったら、カエルのアルキメデスになって、ヘビに命中させて退治する投石機の開発に命をかけてみたい。大勢いる仲間のカエルたちには当てないで、ヘビだけをねらって命中させる投石機だ。

この大学教授のカエルの死を決して無駄にしてはならないのだ。」

<以上、感想文おわり>

というような回答を考える少年だったので、私の国語の成績は何故か芳しくなかったのである。40年後の今も似たようなものなので、やっぱり戦うカエルとして、どろんこの地面で生き続けるつもりだ。

 

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2005年5月20日の記事より<以上再掲・引用終わり>

この感想文に対する感想文:  も是非ご覧ください。

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ゆく冬を惜しむ

 

2010年3月9日 火曜日

 

昨日の記事に「私にとっては、春は、ふるさとの「ぽかぽか陽気の春」である。だから、札幌の4月は、正直、つらい。春とは名ばかりの寒い、冬の終わりの時期である」とあったが、あれから5年。札幌にやってきてからすでに11シーズン目の冬を過ごしてくると、この表現にはどことなく違和感を感じる。今ではかえって北を指す故郷、といった心持ちだ。

札幌の3月は雪解けの季節。当たり前の冬景色の中に、いろんな面白いものを見つけて楽しみたいと思う。たとえば自転車。2月にはなかったものが、この季節、雪の中からどんどん生えてくる。

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これらの放置自転車はかわいそうだ。大量の重い雪にすっかり埋もれていたわけだから、ものすごい圧力を受けたに違いない。斜めの力が加われば、ホイール(リムやスポーク)、シャフトやレバーはひとたまりもないだろう。秋にはしゃんとしていたはずのものが、新品の昔をしのぶ影もなく、ぐにゃぐにゃよごよごの負傷・病兵となってこの季節に出現してくる。

持ち主の人々にもそれぞれいろんな事情があり、自転車との別れと出会いもさまざまだろうけれど。

冬を越えた自転車の苦労をねぎらってあげたいのはやまやまだ。しかし、曲がった自転車に乗って安全と楽しさが担保できるような気がしない。じょうずに治して社会復帰させられるようなら私も立派な自転車医者であろうが、そんなプロの技術は持ちあわせない。などと瞬時は思うものの、この季節、自転車たちのことは忘れて過ごしたい。自転車たちは、もっと深くふんわり雪の布団の中で眠っていて欲しい。

なぜなら、3月も、私たち北国のスキーヤーにとっては、スキーシーズンのまっただ中。今冬みすみす(看)また過ぐ。何とか達成したいのにその前に春が来てしまう悔しさ。ほんの一ヶ月前には午後4時を過ぎれば真っ暗になってナイター照明が灯ったものだった。が、この季節、どんどん日が長くなり、5時になっても青空が明るい。リフトに揺られて周りの眼下を見渡せば、ところどころに草や土が出現し、迫る雪解けからは逃げられない。ゆく冬をクリフのひとと惜しみけり。残った短い冬のあいだで何とか今年の課題を克服しなければならない。今年は節目の10シーズン目のスキー。何としても一ランク上の滑りへと変身したい。

しかし、イーストAコースの壁は、暖かい雪解け日和の翌日からは氷点下の冬日が続き、カチコチ氷の凸凹の姿固め(子供たちからはゴロゴロ君という愛称で呼ばれる)にうっすらの湿雪。クラストになっている場所もある。根のしっかりした石筍のような雪氷の突起も生え出し、ターンの脚を引っかける。この条件でのターンは難しい。が、それだからこそ、私たちは入ってゆく。私も石筍のひとつに後ろ頭をそっとぶつけて、ヘルメットの奏でるコンという心地よい響きを楽しんだりする。あわてて降りてゆくのではなく、少し青空を眺めて、ゆく季節を惜しむ。

そんなわけで、今しばらくのあいだ、札幌の自転車たちには深い雪の中に身を隠して余生を楽しんでいてもらいたいと願うのである。

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