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何かあたりさわりのない教訓を繰り返して、まあ、まあと、なだめるばかりで、私たち、いつまでも、恥ずかしいスッポカシをくっているのだ。

2021年2月4日 火曜日 晴れ(薄もや)

太宰治 「女生徒」 ちくま文庫版太宰治全集2 1988年(「女生徒」オリジナルは昭和14年4月1日発行の「文学界」)朗読は、 シャボン 朗読横丁 https://www.youtube.com/watch?v=_5z44wch8Eo で聴いた。(通して聴くと、1:40の長さ。)

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・・明日もまた、同じ日が来るのだろう。幸福は一生、来ないのだ。それは、わかっている。けれども、きっと来る、あすは来る、と信じて寝るのがいいのでしょう。わざと、ださんと大きい音たてて蒲団にたおれる。・・幸福は一夜おくれて来る。ぼんやり、そんな言葉を思い出す。幸福を待って待って、とうとう堪え切れずに家を飛び出してしまって、そのあくる日に、素晴らしい幸福の知らせが、捨てた家を訪れたが、もうおそかった。幸福は一夜おくれて来る。幸福は、ーーー (太宰、同書、p213)

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・・お月様は、知らぬ顔をしていた。ふと、この同じ瞬間、どこかの可哀想な寂しい娘が、同じ様にこうしてお洗濯しながら、このお月様に、そっと笑いかけた、たしかに笑いかけた、と信じてしまって、それは、遠い田舎の山の頂上の一軒家、深夜だまって背戸でお洗濯している、くるしい娘さんが、いま、いるのだ。・・・(中略)・・・ 私たちみんなの苦しみを、ほんとに誰も知らないのだもの。いまに大人になってしまえば、私たちの苦しさ侘しさは、可笑しなものだった、となんでもなく追憶できるようになるかも知れないのだけれど、けれども、その大人になりきるまでの、この長い厭な期間を、どうして暮らしていったらいいのだろう。誰も教えて呉れないのだ。・・・(中略)・・・ その当人にしてみれば、苦しくて苦しくて、それでも、やっとそこまで堪えて、何か世の中から聞こう聞こうと懸命に耳をすましていても、やっぱり、何かあたりさわりのない教訓を繰り返して、まあ、まあと、なだめるばかりで、私たち、いつまでも、恥ずかしいスッポカシをくっているのだ。私たちは、決して刹那主義ではないけれども、あんまり遠くの山を指さして、あそこまで行けば見はらしがいい、と、それは、きっとその通りで、みじんも嘘のないことは、わかっているのだけれど、現在こんな烈しい腹痛を起こしているのに、その腹痛に対しては、見て見ぬふりをして、ただ、さあさあ、もう少しのがまんだ、あの山の頂上まで行けば、しめたものだ、とただ、そのことばかり教えている。きっと、誰かが間違っている。わるいのは、あなただ。(太宰、同書、p211-212)

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・・むかしの女は、奴隷とか、自己を無視している虫けらとか、人形とか、悪口言われているけれど、いまの私なんかよりは、ずっとずっと、いい意味の女らしさがあって、心の余裕もあったし、忍従を爽やかにさばいて行けるだけの叡智もあったし、純粋の自己犠牲の美しさも知っていたし、完全に無報酬の、奉仕のよろこびもわきまえていたのだ。(同書、p209)

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・・親切だった、ほんとうに感心な若いまじめな坑夫は、いまどうしているかしら。花を、あぶない所に行って取って来て呉れた、ただ、それだけなのだけれど、百合を見るときには、きっと坑夫を思い出す。(太宰、同書、p207

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補註:「シャボン 朗読横丁」さんの朗読ユーチューブのページ。「著作権フリーの文学作品の朗読をしています。 リクエストがありましたらコメント欄にどうぞ!」とのこと。

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