2026年(令和8年)1月1日(元旦) 木曜日 曇り
佐藤雅美 知の巨人 荻生徂徠伝 角川書店 2014年
「詩書礼楽」に書かれていること、あるいは「詩書礼楽」が教えることはひっくるめると、君子(為政者)が民を教え導く基準となる歴史的事実であり、それら歴史的事実はすべて聖人が建つる所、制作して名づけたものであって、それらの歴史的事実から離れて「道」というものは存在しない。(p268)
「孔子の道は先王の道なり。先王の道は先王の造るところなり。天地自然の道に非ざるなり」(p268) ・・道といふは国天下を治め候仕様(しよう;方法)に候」(p269)
・・「道は天下国家を平定するために、聖人が建立(制作)したものである」とする徂徠学の根本テーゼを打ち立てた。・・宋儒や江戸期のこの時代までの儒者は道徳とか仁義とかを政治に優先させた。身を律することに重きをおいた。徂徠はそれを引っ繰り返し、政治を道徳や仁義から切り離した。儒学の世界を根底から覆した。(p270)
・・朱子は「聖人とは仁義や道徳を完璧に身につけた者で、努力次第で人はみな聖人にな れる」といい、その方法が二つある、「居敬(きょけい;敬に居る)」と「窮理(理を窮める・格物致知)」だといった。・・それはでたらめだという。
・・おのれの身や心さえおさまれば天下国家はおのずとおさまるなどというのは、仏教や道教の悪い影響を受けてのことである。(p271)
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補註:以下はウィキペディアからの引用:
主著『弁名』『弁道』では、「名」と「物」の関係を考察した。「名」とは道や仁義礼智のような儒教の概念のことであり、それは古代中国の聖人(先王)の時代には儀礼や習俗のことである「物」と一致していた。それは先王が「名」を与えることで「礼楽刑政」という儀礼体系を「道」(道徳ではなく社会制度)として成立させ、社会を創出したからである。しかし、後世になると「物」は忘れられ、「名」だけが残った。その「名」を南宋時代の意味で理解する朱子に対して、徂徠は「六経」を読むことで古代の「物」を考証し、本来の「名」を復元できると主張した。
「徂徠」の号は『詩経』「徂徠之松」に由来し、「松が茂る」の意味である「茂卿」ともに松に関する名であることが指摘される
古文辞学によって解明した知識をもとに、中国古代の聖人が制作した「先王の道」(「礼楽刑政」)に従った「制度」を立て、政治を行うことが重要だとした。徂徠は農本主義的な思想を説き、武士や町人が帰農することで、市場経済化に適応できず困窮(「旅宿の徒」)していた武士を救えると考えた。
徂徠は柳沢吉保や第8代将軍徳川吉宗への政治的助言者でもあった。吉宗に提出した政治改革論『政談』には、徂徠の政治思想が具体的に示されている。人口問題の記述や身分にとらわれない人材登用論は特に有名である。これは、日本思想史の流れのなかで政治と宗教道徳の分離を推し進める画期的な著作でもあり、こののち経世思想(経世論)が本格的に生まれてくる。服部南郭をはじめ徂徠の弟子の多くは風流を好む文人として活躍したが、『経済録』を遺した弟子の太宰春台や、孫弟子(宇佐美灊水弟子)の海保青陵は市場経済をそれぞれ消極的、積極的に肯定する経世論を展開した。兵法にも詳しく、『孫子国字解』を残した。卓越した『孫子』の注釈書と言われている。
直接の弟子筋の他にも徂徠学に影響を受けた者は多い。大坂の町人が運営した私塾である懐徳堂では朱子学者の中井竹山などが徂徠学を批判した[7]。その中からは富永仲基のような優れた文献学者が輩出されていった。また、本居宣長は古文辞学の方法に大きな影響を受け、それを日本に適用した『古事記』『日本書紀』研究を行った。徂徠学の影響力は幕末まで続き、西洋哲学者の西周は徂徠学を学んでいた。
<以上、ウィキペディアより引用終わり>

上記の画像はウィキペディアからの引用:
享保13年(1728年)に死去、享年63。墓所は東京都港区三田4丁目の長松寺(ちょうしょうじ)。 東京都港区三田4-7-29; 最寄り駅: 東京メトロ南北線「白金高輪」駅 / 都営三田線「白金高輪」駅 / 京急本線「泉岳寺」駅
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・・つまり、いっせいに徂徠学を批判し、かつ反撥して徂徠学を的にかけたのだが、結果として、彼らは徂徠を一歩も超えることができなかった。・・・(中略)・・・その後、明治以後の日本人は、なに食わぬ顔をして儒学を捨てた。いまでは一部の学者をのぞいて、漢詩文を書いて読める者などいない。・・ならば、江戸期二百五十年の日本人は寄ってたかって不毛の学問に没頭していたのか。むろん、そうではない。江戸時代に学問は儒学しかなかった。だから、・・こぞって儒学に向かった。そして知と知を競い合った。・・脳は知を競い合わねば劣化する。競い合うことによって、日本人は脳に磨きをかけた。・・そしてその知の競い合いの頂点に立った男こそ、「知の巨人、荻生徂徠」その人であった。(佐藤雅美、同書、p367)
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六義園 ウィキペディアからの引用
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