2016年12月31日 土曜日 晴れ
吉野裕子全集 第3巻 陰陽五行思想からみた日本の祭り 人文書院 2007年
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ホムツワケ皇子説話
啞の皇子と出雲
「古事記」中巻垂仁紀は豊かな叙情性と複雑難解な呪術を以て始められている。天皇の最初の后(きさき)、沙本毘賣(さほひめ)は悲劇の女性であった。后は兄の謀反のゆえに懐妊のまま反軍に身を投じ、戦火の中に皇子を生むが、詔(みことのり)に応えて、火中(ほなか)に生まれたというのでホムツワケと名づけ、この皇子を皇軍に渡して自身はその兄と運命を共にして死んでゆく。ホムツワケノ皇子は生まれながらにして火気の難を負っていたわけである。 皇子は啞で壮年になっても物が言えなかった。・・(吉野、同書、p98)
①火難、②白い鳥、③出雲、の三点は共通であって、そのことはつまり、この三点が呪術の基本であることを物語っていると思われる。そこでこの共通点を考察し、次に「古事記」にのみ記述されている呪術について推理したい。(吉野、同書、p100)
五行配当の中、人間に関わる「五事(ごじ)」は、次のように配当されている。
木 → 貌
火 → 視
土 → 思
金 → 言
水 → 聴
ホムツワケ皇子は生まれながらにして火難を負っていた。五行において火は、「火剋金」で金を剋す。五事において金気は「言語」である。ホムツワケ皇子はその生時において火難を負う故に、「火剋金」の理で、言語能力喪失者とされたのである。
「言語」が配当されている「金気」は、図表で示されているように色は「白」、十二支では「酉(鳥)」、方位「西」。ところで出雲は国土の西の果てである。・・・皇子は、金気を象徴するこれら一連の、白・鳥・出雲の呪力によって、はじめて言葉を取戻し、生まれながらにして失っていた言語能力を恢復するのである。(吉野、同書、p101-102)
簡潔な「書紀」に対し、「古事記」の呪術は執拗に続く。・・皇子の口を開かせるものは何か。そこに必要とされるものは、「言」をもたらす原動力となるものなのである。 「記」の作者は、いかにして皇子の言語、その失われた機能を生み出すか、換言すれば、その金気をいかにして作動させるか、その点に苦心したと思われる。その手段として、とられたものが「五行相生の理」であった。・・・(中略)・・・白・鳥・出雲大社など、言語を象徴する呪物の道具立てが整っただけでは、呪術は動き出さない。その上に、それを生み出す「理」を加えて、はじめて最終目標の言語活動が動き出してくる。これはまったく「尚書洪範」に説かれる「五事」の用意周到な負うようである。「古事記」のこの条は一見、奇異な叙述ではあるが、動くこと、行(めぐ)ることを重視する五行の理の実践が秘められている、とみるべきであろう。(吉野、同書、p102-103)
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・・このジレンマに立った大和朝廷首長が考え出した呪術が出雲大社建立である。
それゆえ、出雲大社建立の真意は説話の表面からはまったく伏せられている。出雲大社の建立は出雲大神、つまりオホナムチの願いではなくて、天地合一相を理想像とする大和朝廷の当事者達の強い希求であって、天皇の宮殿に匹敵する大社の建立は天と地のバランスをはかるための一大呪術であった。
さらに注意されるのは、この説話の末尾に、檳榔(ビロウ;あじまさ)の宮でホムツワケが蛇と婚する話が期されていることである。・・神と交わる巫女が本土では早く男性にとって代わられた。ということは祭祀権が男性の手にきしたことであるが、この説話はその過程を示しているものでもあろう。
そこでホムツワケ説話は表層・中層・下層・深層に分けることができ、
表層・・出雲大神の神殿建立要求。
中層・・大和朝廷首長による天地同根の中国哲理実践。
下層・・五行思想の応用。
深層・・蒲葵(ビロウ)にまつわる日本古代信仰形態の推移。
として捉えることが可能かと思われる。
垂仁紀はこの出雲大神の神殿建立要求に対応するかのように、倭姫による天照大神の伊勢五十鈴川畔鎮祭も物語られていて、天神地祇奉斎のバランスがはかられている点は見逃せない。これらはすべて垂仁紀の出来事として物語られているが、恐らくその主要部分は、記紀撰定のあった天武朝における史実の潤色ではなかったろうか。(吉野、同書、p104-105)
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補註 奉斎
ほう さい 【奉斎】 神仏をつつしんで祀(まつ)ること。つつしみきよめて祀ること。
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補註 「尚書洪範」 ウィキペディアによると・・・
洪範九疇(こうはんきゅうちゅう)は、中国古代の伝説上、夏の禹が天帝から授けられたという天地の大法。単に九疇(きゅうちゅう)あるいは九章(きゅうしょう)、九法(きゅうほう)などともいわれる。洪は「大いなる」、範は「法(のり)」、疇は畝で区切られた田畑の領域から「類(たぐい)」の意味である。その内容は『尚書』洪範篇において殷の箕子が周の武王へ語るかたちで載せられており、君主が水・火・木・金・土の五行にもとづいて行動し、天下を治めることを説いている。儒家経典の中で五行説の中心となるものであり、陰陽説にもとづいた『易』の八卦と表裏の関係とされた。このことから西洋哲学におけるカテゴリの訳語である「範疇」の語源となった。
九疇の内容:
九疇は五行・五事・八政・五紀・皇極・三徳・稽疑・庶徴・五福六極とされ、その内容は以下のようである。
五行 – 水・火・木・金・土
五事 – 貌・言・視・聴・思
八政 – 食・貨・祀・司空・司徒・司寇・賓・師
五紀 – 歳・月・日・星辰・暦数
皇極
三徳 – 正直・剛克・柔克
稽疑 – 卜筮
庶徴 – 休徴・咎徴
五福・六極 – 寿・富・康寧・攸好德・考終命、凶短折・疾・憂・貧・悪・弱
<以上、ウィキペディアより引用>
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補註 沙本毘売命(さほひめのみこと) ウィキペディアによると・・・
狭穂姫命(さほひめのみこと、生年不詳 – 垂仁天皇5年10月薨)は、日本の皇族。
記紀に伝えられる垂仁天皇の最初の皇后(垂仁天皇2年2月9日立后)で、皇子誉津別命(本牟智和気御子)の生母。同母兄に狭穂彦王(沙本毘古)がおり、垂仁天皇治世下における同王の叛乱の中心人物。『日本書紀』では狭穂姫命、『古事記』では沙本毘売命、または佐波遅比売命に作る。
父は彦坐王(開化天皇の皇子)、母は沙本之大闇見戸売(春日建国勝戸売の女)。同母の兄弟として狭穂彦王の他に袁邪本王(次兄。葛野別・近淡海蚊野別の祖)、室毘古王(弟。若狭耳別の祖)がいた(『古事記』)。
ちなみに垂仁天皇の次の皇后である日葉酢媛命は彦坐王の子である丹波道主王の女であり、姪に当たる。
春の女神で同名の佐保姫とは無関係。佐保姫の項、参照。(以上、ウィキペディアより引用)
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