culture & history

四世紀の後半、短甲と大刀の重装歩兵軍装に、朝鮮半島から導入した新型鉄鏃が加わった装備が列島の広い範囲に行きわたった。

2024年3月5日 火曜日 晴れ(霞曇)

松木武彦 人はなぜ戦うのか 考古学からみた戦争 講談社選書メチエ213 2001年

倭軍のスタイル=倭人としての自覚

 ・・新しい武装内容のうち、短甲(たんこう)と大刀(たち)はどちらも歩兵用の武器であることだ。つまり、それらの増強は、朝鮮半島にひろまりつつあった騎馬戦術に対応したものではなく、むしろ、徒歩による接近戦術の充実を目ざしたものと理解されるのである。(中略) ・・短甲と大刀という重装歩兵の軍装に、朝鮮半島から導入した新型鉄鏃(てつぞく)が加わった装備が四世紀の後半、列島の広い範囲に行きわたったことは事実だ。倭王を明主とする各地の英雄は、共同で作った同型式のよろいかぶとに身をつつんで大刀をもつという、同じスタイルの軍装を共有することになる。(中略)・・この時期にはじめて、倭王軍の制式武装ともいえるそろいの軍装で身を包むようになったわけだ。かれらの部下や配下の一般戦士たちもまた、防具の付属具などに多少の差はあるが、やはり同じスタイルの兵装でいでたちをそろえ、手には同じように大刀をにぎるようになった。  こうして軍装をそろえた戦団は、朝鮮半島など外部社会の人々からは、一見して「倭軍」「倭兵」などと認識されるようになっただろう。見られる側もそれを意識したにちがいない。(松木、同書、p135-137)

**

倭軍、敗れる(以下は、広開土王碑文による)

(西暦)371年 百済が高句麗に勝った。

375年 広開土王即位。

396年 広開土王、百済に攻め込んで大勝。百済に服属を誓わせた。

399年 広開土王、百済を攻めるために南下。

400年 広開土王、大軍を送って新羅から倭軍を追い出した。

404年 高句麗の南辺、百済との国境近い「帯方界」に侵入した倭軍を、広開土王みずから軍を率いて撃退。

407年 広開土王は三たび百済を攻めて大勝。(松木、同書、p138)

*****

*********************************

RELATED POST