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ロシア文学の「土臭い傾向」: ガルシンの露土戦争(1877年)

2024年2月22日 木曜日 少しの雪のち曇り、その後猛吹雪(3月を思わせるような早い雪解け風景・・と思って窓外を見ると、真っ白の吹雪。千歳空港に向かう高速道路は通っているが、札幌方面行きは閉鎖されているのか一台もやってこない。やはり2月の冬の札幌の風景。午後、雪は降り続き、高速道路に行き交う車は一台も見られなくなった。)

ガルシン全集 全1巻 中村融訳 清娥書房 1973年

 ・・彼(=ヴェンツェリ)は熱心にロシア文学を研究していた。・・彼は、その言葉をかりれば、その「土臭い傾向」を厳しく非難した。(中略)・・僕は言葉によって行動しようとつとめた。道徳的影響を得ようとつとめたんだね。だが、一年たつと、それらは僕から全力をしぼり上げてしまった。現実にぶつかってみると、いわゆる良書というものから残ったものは、センチメンタルなうわごとでしかないということが分かったんだ。今じゃ、僕は、はっきり分かる唯一の方法はーーほらこれだ、と思っているよ!(中略)ーー拳固さ!ーー彼は、きっぱり言った。(ガルシン、『兵卒イワーノフの回想より(オリジナルは1883年発表)』、同書、p204)

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・・1877年には、大隊は現在のように四箇中隊ではなく、五箇中隊から編成されていた。行軍中は、狙撃中隊は後方から従っていたので、つまり、われわれの中隊の後尾が狙撃中隊の前衛と接していたわけである。(ガルシン、『兵卒イワーノフの回想より(オリジナルは1883年発表)』、同書、p199)

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 硝煙、炸裂音、うめき、狂乱の「万歳(ウラー)」・・血と火薬の匂い・・煙に包まれた、奇妙な、異国の人々と蒼白いその顔々。野蛮な、非人間的な格闘。こんな瞬間をうろ覚えぐらいで済ましていられることに対する神への感謝。

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 ちょうど、われわれが駆けつけたとき、ヴェンツェリは弾丸(たま)をばらまいてよこすトルコ軍に対して、自分の中隊の生存者を立ち向かわせてもう五回目だった。が、今度は狙撃隊は村へ突入した。(ガルシン、『兵卒イワーノフの回想より(オリジナルは1883年発表)』、同書、p238)

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補註: 露土戦争: ウィキペディアによると・・・<以下引用> 狭義の露土戦争は1877年-1878年の戦争をいう。

露土戦争(ろとせんそう、1877年 – 1878年)は、ロシア帝国とオスマン帝国の間で起こった戦争のひとつ。

バルカン半島に在住するオスマン帝国領下のスラヴ系諸民族がオスマン帝国の支配に対して反乱し、それを支援するかたちでロシアが介入して起こった。ロシア帝国の勝利で終わった。

ルーマニアでは「ルーマニア独立戦争」、トルコではイスラームの暦年(ヒジュラ暦1293年)にちなんで「93年戦争 (Doksanüç Harbi)」、また「オスマン・ロシア戦争」とも呼ばれた。ギリシャ独立戦争に続いて、東ヨーロッパ諸国の独立回復のための重要な戦役となった。

(中略)

戦争を始めるにあたり、ロシアは1850年代に起こったクリミア戦争での苦い敗北の経験もあって、汎スラヴ主義的心情に訴えるべくバルカン半島のスラブ民族独立のための戦争であると宣伝した。しかし、その背後には地中海への通路を確保しようとするロシアの意図があり、不凍港獲得を目指す南下政策の一環としての側面を持った戦争でもあった。

小説家のドストエフスキーは、ロシアを中心とするスラブ人の統一と正教徒の統合を説き、この戦争より神聖かつ清浄な功業はないと訴えていた。

(中略)

サン・ステファノ条約によって、セルビア、モンテネグロ、ルーマニアの各公国はオスマン帝国から独立し、またロシアの影響を強く受けた広大な自治領「ブルガリア公国」の成立が定められた。

しかし、軍事的な勝利を収めたロシアの勢力拡大に対して欧州各国が警戒感が広がったため、新生ドイツ帝国の帝国宰相、オットー・フォン・ビスマルクの仲介でベルリン会議が開かれ、サン・ステファノ条約を修正したベルリン条約が結ばれた。ベルリン会議後、ロシア国内では皇帝アレクサンドル2世への失望と不満が広がっていった。この戦争を戦ったルーマニアはロシアと同盟した際に、ロシアは戦争終了後自国に対する領土要求を行なわないとの約束を取り付けていたが、ベルリン会議によりベッサラビア南部はロシアに併合されることになってしまった。

一方、ギリシャ王国はオスマン帝国の不利をみて参戦を決めたものの、その矢先に露土間の休戦が結ばれたために機を逸し、得るものなく軍を撤退させた。

ブルガリアやカフカスでは戦後に多数のムスリムが難民となり、オスマン帝国へと逃れシリアやヨルダンなどに移民した。

オスマン帝国の国内では戦争中、非常事態を口実にした無期限の憲法停止と議会の閉鎖が行われた。これにより第一次立憲制は崩壊し、アブデュルハミト2世によるスルタンの専制体制が敷かれることとなった。

露土戦争を題材とした小説:
レフ・トルストイ『アンナ・カレーニナ』- 終盤の第8編で、登場人物の一人であるヴロンスキーが露土戦争へ志願出征する。 補註: ガルシンの戦争作品も、無論、この露土戦争(1877−78)を舞台としている。 補註: ウィキペディアによると・・・アンナ・カレーニナ: 1873年から執筆を開始し、1875年から雑誌『ロシア報知』(露: Русскій Вѣстникъ)に連載した。1877年に単行本初版が刊行された、とのこと。アンナは1870年代に生きていた。補註終わり。

・・・以下略・・・

<以上、ウィキペディアより引用終わり>

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ウィキペディアから引用

ウィキペディアから。以下引用。露土戦争最大の激戦地シプカ峠の戦い: シプカ峠は現在のブルガリアに位置する。1877年7月の戦いでロシア軍が確保、その後2度にわたるオスマン軍の攻撃から峠を死守し、1878年1月にはオスマン軍を完全に撃退した。

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ウィキペディアから。以下引用。『敗北。パニヒダ。』(ロシア語: Побежденные. Панихида. – 英語: Defeated. Requiem.)ヴァシーリー・ヴェレシチャーギンによる露土戦争の一場面を描いた油彩画。膨大な数の兵士達の遺体を前に、正教会の司祭がパニヒダを捧げている。

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補註: 当ウェブサイトの以前の記事もご参照ください。

千年のビザンツ帝国; 1204年の十字軍によるコンスタンティノープル陥落; プロノイア制の拡大した後期ビザンツは、中央集権を旨とする君主専制の「帝国」とは呼べない。

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https://quercus-mikasa.com/archives/11158 アブデュルハミト二世: 日本に軍艦エルトゥールル号を派遣(1890年)。・・日本海軍のコルベット艦である「比叡」と「金剛」が遭難事故の20日後の10月5日、東京の品川湾から出航し、神戸港で生存乗員を分乗させて1891年1月2日にオスマン帝国の首都・コンスタンティノープルまで送り届けた。

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補註: この位置に日露戦争に関連した記事を挟みたいところだが、遠くない未来への宿題とさせてください。

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https://quercus-mikasa.com/archives/11154 アブデュルハミト二世の退位とレシャトの即位(1909年)

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