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夕陽 無限に好し 只だ是れ 黄昏に近し

2016年4月19日 火曜日

一海知義 漢詩一日一首 平凡社 1976年

李商隱

登樂遊原

向晩意不適,
驅車登古原。
夕陽無限好,
只是近黄昏。

樂遊原に 登る
晩(くれ)に向(なんな)んとして  意(こころ) 適(かな)わず,
車を驅(か)って  古原に登る。
夕陽(せきよう)  無限に好し,
只だ是れ  黄昏(こうこん)に近し。

訓み下しは一海、同書、p55

問題の第一は、「無限好」という表現にある。「夕陽は、好きこと無限なり」、というのか、「夕陽は、無限にして、好し」というのか。・・・(中略)・・・問題の第二は、さいごの句の「只是」にある。・・・(中略)・・・詩の後半にのみこだわりすぎたが、前半にも、ことばの表面の意味は別として、簡単には読みすごせぬ含意がある。詩人の「意(こころ)適(かな)わざる」時間が、「晩(くれ)に向かわんとする」時間であること、「車を駆る」のは、一種衝動的な行為であること、登ったのが古代の陵(みささぎ)の点在する「古原」であったこと、夕映えのもとに俯瞰されるのが、世界の中心都市、栄華をほこった長安のまちであること、などがそれである。(一海、同書、p59)

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錦瑟

李商隱

錦瑟無端五十弦,
一弦一柱思華年。
莊生曉夢迷蝴蝶,
望帝春心托杜鵑。
滄海月明珠有涙,
藍田日暖玉生煙。
此情可待成追憶,
只是當時已惘然。

  
錦瑟(きんしつ) 端無(はし な)くも  五十弦(ご じふげん),
一弦(いちげん)一柱(いっちゅう)  華年(くゎねん)を思う。
莊生(さうせい)の曉夢(げう む)は  蝴蝶(こ てふ)に迷い,
望帝(ばうてい)の春心(しゅんしん)は  杜鵑(と けん)に托(たく)す。
滄海(さうかい) 月(つき) 明(あき)らかにして  珠(たま)に涙 有り,
藍田(らんでん)日(ひ) 暖かにして  玉(たま)は煙(けむり)を 生(しゃう)ず。
此(こ)の情 追憶と成(な)るを 待つ可(べ)けんや,
只(た)だ是(こ)れ 當時より  已(すで)に惘然(ばうぜん)。

原文と読み下しは、「詩詞世界・碇豊長の詩詞」サイト http://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/shi4_08/rs342.htm から引用。

※錦瑟:立派な瑟(おおごと)。夫婦仲の良いことをいう琴瑟の片方で、かつて妻が奏でた瑟(おおごと)に感じて詠う。悼亡詩であり、また、官途で不遇を託(かこ)ったことを追憶しての詩である。・・・(中略)・・・・春心托杜鵑:(蜀の望帝が)春を傷(いた)む心は、血を吐きながら悲しげに鳴く杜鵑(ホトトギス)に托す、ということは、作者自身の官途が不遇であって、個人的にも妻を失った悲しみにも耽っているさまをいう。 ・杜鵑:〔とけん;du4juan1●○〕ほととぎす。血を吐きながら悲しげに鳴くという。(同じく、碇豊長さんの「詩詞世界・碇豊長の詩詞」サイトから引用)

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補注 ウィキペディアによると・・・
李商隠(り しょういん、812年(元和7年) – 858年(大中12年)。ただし、生年は813年の説あり)は、晩唐の官僚政治家で、時代を代表する漢詩人。字は義山、号は玉谿生。また獺祭魚と呼ばれる。懐州河内(現河南省沁陽市)の人。官僚としては不遇だったが、その妖艶で唯美的な詩風は高く評価されて多くの追随者を生み、北宋初期に一大流行を見る西崑体の祖となった。似たような婉約な詩風を特徴とする同時代の温庭筠と共に温李と呼ばれ、また杜牧と共に小李杜とも称される。

以下、ウィキペディアには非常に詳しい解説が載っている。
・・当時、唐宮廷の官僚は、牛僧孺・李宗閔らを領袖とする科挙及第者の派閥と、李徳裕に率いられる門閥貴族出身者の派閥に分かれ、政争に明け暮れていた。いわゆる牛李の党争である。若き李商隠は、牛僧孺派の重鎮であった興元尹・山南西道節度使 令狐楚の庇護を受け、837年、26歳にして進士科に及第する。しかしながら同年に令狐楚が没し、翌年には上級試験にも落第すると、今度は李徳裕の派に属する太原公王茂元の招きに応じてその庇護下に入り、娘を娶った。翌839年、王茂元の働きかけにより文人官僚のスタートとして最も理想的といわれる秘書省の校書郎に任官されるも、牛僧孺派からは忘恩の徒として激しい謗りを受けることになった。以後も李商隠は、処世のために牛李両党間を渡り歩いたので変節奸と見なされ、厳しい批判を受けて官僚としては一生不遇で終わることとなる。(以下、略)

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