- 芥川「かえる」へ寄せて感想文 ほんとうに言いたいことは何か?
2005年5月20日
ほんとうに言いたいことは何か?
前回の文章「、、臥薪嘗胆を忘れる」を読んでくださった方から、坐骨神経は「坐骨」と書くべきこと、コルビジェは、ル・コルビジェと書かれる場合が多いこと、など、ご指摘をいただいた。謹んで訂正したい。坐骨神経は、ワープロでの漢字変換のぼんやりミス。こんなミスをしていたとは、指摘されるまで気づかなかった。ル・コルビジェの方は、知ってはいたけれど、ル・を付けるとどことなく文章がキザな感じになるような気がしたから略してしまった。ちなみに、ザ・チェアと書くからには、当然ヴェゲナーの名前も挙げたかったのだが、カタカナ表記に自信が無く、省略していたのである。北欧家具のヴェゲナーと、大陸移動説のヴェゲナーが頭に浮かぶ。
このところ、来月(6月8日)の大学院実験入門セミナーの講義の支度をしている。形式は、高い見地から既知の役立ち情報を教える、というのでは面白くないので、当部や他のグループの大学院生たちのずっこけや失敗をタネに、どこが間違っているのか、どうしたら良かったのかを、大学院生を指さして、答えさせながら進めていこうと思う。Q&A方式なので、当日出席する学生次第で、どう進むか予測が難しい。上手に講義を組み立てられるかどうか不明。
ところで、先週、小学5年生の国語の問題を見せてもらったら、芥川龍之介の「かえる」という寓話であった。大学教授のような蛙が池にいる多くの蛙たちに政治的・哲学的・宗教的思想(「この世のものはすべて蛙のために存在する」)を述べるのだが、突然、蛇に食われてしまう、という比較的単純な話だ。全文を読ませてから、多くの質問に答えさせる形式。最後の質問を見て、ムムッと考え込んでしまった。「作者がほんとうに言いたいことは何でしょうか?」という、本質的質問である。文章で自由に答えさせる形式だ。私は、札幌医科大学にやってきてから、大学院入学試験の英語の問題を作る係をしばらくやっていたことがあるが、もしこんなふうに「作者がほんとうに言いたいことは何でしょうか? 英語で自由に書いてください。」という問題を作ったら、きっと、余りにも難しすぎるという理由で、不適当問題としてカットされていただろう。しかし、小学5年なら、真正面から答えなければならない。私も、大学教授という同業者への共感もあり、このカエルの主人公に我が身を重ね合わせ、身につまされるものを感じる。
カエルがヘビに食われるのは、私たちヒトから見れば、ごく当たり前の事象であろう。ところが、大学教授の蛙自身から見れば、ことはそれほど自明ではない。蛇のような「蛙を食うもの」も蛙の幸いのために存在するのか? 大勢の蛙の中から、どうして自分が災難に見舞われるのか。今日まで、幸せに生きてきたのに、どうして今日、このような災いに出会わなければならないのか。ほんとうにこれが、蛙のために世界を作った偉大な神の意志なのだろうか? 芥川の寓話に表現されているように、蛙にとっての一神教の神の摂理では説明しきれない、不条理がそこにある。しかも、小学5年生に容易に答えられるように、芥川は、これをカエルにだけ当てはまる特殊な事情とは考えていないだろう。ヒトも人間も、やっぱりカエルと同じではないか?
私は、癌(をはじめとする難病)の治療法開発ということで、ずーっと仕事してきたけれど、このような目的に関して、多くの人から必ずしも共感を得られてはいないことを経験している。多くの場合ひとりでソリを引くことになる。
高い見地から見れば、人が難病で苦しむことも一定の確率で起こり得る自然の摂理であり、いってみれば、ヘビに食われるカエルと同様、悲しむ必要はない、受け入れればよい、と考え得る。高い見地から(他人事として)見れば、難病で苦しむことに何の不条理もない。しかし、一旦、その高い見地から降りて、我が身にその難病を引き受けてみれば、この不条理さは甚だしい。現実にその疾患に罹患する前は、罹患確率0.000** と、自分には起こり得るとしても極めて可能性の低かった事象が、一旦我が身に引き受けた途端に、確率1、つまり、確率論で云々できない現実のものとなる。この時、通常、人は、自分のことを他人事としては受け止められないのである。
私の研究スタンスは、常に、「きわめて低い見地から」超近視眼的に、食われるカエルの目線で、ヘビ(難病)を眺めるものである。これ(ヘビに食われて死ぬこと、難病で苦しむこと)を自然の摂理とはとらえず、あってはならない不条理、戦うべき敵と考える。ヘビが強敵であることは承知しているが、私は受け入れるカエルとして死ぬよりも、戦うカエルとして生き続けたい。
さて、芥川のほんとうに言いたかったことは、何だったのか? 48歳の私はかなりずるくもなっているので、1分で答える試験問題だったら、出題者の求めている答えをすぐさま書ける。ただ、普通は60分の試験時間だ。考えるゆとりはたっぷりある。きっと余った試験時間で、より深く考えて以下のような答えに到達するのである(極めて低い見地からの答えであるが)。
<以下、感想文>
「カエルの大学教授を、カエルの少年たちは見殺しにすべきではない。少年たちは、何とか、知恵を出して、勇気を奮い起こして、ヘビを撃退し、教授を助けなくてはならない。
カエルの大学教授も、大学教授だ。ヘビのような恐ろしい敵がいると知っていながら、独りよがりの哲学を振り回しているだけだった。井の中のカエルの教授、と言われても仕方がない。
もし、小学5年のカエルの僕が大学教授だったら、カエルのアルキメデスになって、ヘビに命中させて退治する投石機の開発に命をかけてみたい。大勢いる仲間のカエルたちには当てないで、ヘビだけをねらって命中させる投石機だ。
この大学教授のカエルの死を決して無駄にしてはならないのだ。」
<以上、感想文おわり>
というような回答を考える少年だったので、私の国語の成績は何故か芳しくなかったのである。40年後の今も似たようなものなので、やっぱり戦うカエルとして、どろんこの地面で生き続けるつもりだ。
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2005年5月20日の記事より<以上再掲・引用終わり>
この感想文に対する感想文: 芥川の「蛙」つづき も是非ご覧ください。
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