芥川の「蛙」感想文への感想文
2010年3月10日
芥川の「蛙」、今では電子図書館などで簡単に読むことができるので、是非ご覧ください。
– 図書館. http://toshokan.in/book3800.html
さて、この作品中、蛇は本当に「カエルのためにある」ものなのであろうか? それとも、蛇はカエルにとって理不尽な存在であり、何としても戦うべき相手なのだろうか。この問いかけへの答えは、答えるものの立ち位置によって大きく違ってくるだろう。この文章の作者は、カエルではなく、人間みたいで、
以下は、蛙 – 図書館.http://toshokan.in/book3800.html より、冒頭を引用。
明記されているように、縁側に寝ころんで古池を眺めているのである。2000年前のイソップやギリシアの賢人たちと同じような明晰な頭を持って池の世界で起こる事象を観察し記録してこのような面白い寓話に仕立てた。葦や蒲や並木や夏の空が、池の水面を反射鏡として、「実際よりも遙かに美しい」風景となって作者の眼に映っているのである。
5年前には気づかなかったけれども、「実際よりも遙かに美しい」という言葉にも引っかかる。確かに水面に映る景色は詳細が捨象されて私たちの目にとても美しく映るものではある。しかし、本物を見つめることなしに、水面に映る虚像の方を「実際よりも美しい」と言って良いものだろうか。
さて、5年前に書いた私の感想文は、あえて作者の視点に異論をとなえたものである。水面に映る葦や蒲や並木や夏の空の虚像を眺める視点ではなく、水面に身を浮かべて、直接「葦や蒲や並木や夏の空」を真正面から見つめている。だから、芥川の視点と交わるところがない。
この視点から、古池の蛙の世界を見れば、蛇は本当に巨大で恐ろしい。そして何よりもこの大学教授の蛙の突然の死が悲しくて悲しくてたまらない。理不尽な死に方がかわいそうで仕方がない。他人のことではない。
広い世界の一部の狭いエコスフィアの内部で繰り広げられる自然の摂理を、外の世界から池を観察しながら深く感じている(この文章の作者のような)他の生命体が存在することも事実であろう。しかし、小さなカエルを馬鹿にしてはいけない。大きな宇宙とそれを貫く自然の摂理があること、たとえ池の中で泥まみれで鳴いていようとも、それを慮ることはできる。大きな宇宙の法則を観照しながらも、なおかつ自分の今生きている池の現実を正面から見つめているカエルは、いる。理不尽な悲惨な現実と闘うための道を、何とか編み出したいと考えた小学五年生の(私が感想文を引用させていただいた)小さなカエルに、私は大きな尊敬を感じ、共感し、また、その小学生の不確かな将来を案じるのである。
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以上は、2010-03-10付けWEB記事再掲 2005年の感想文への感想文(2010年)
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