2025年12月3日 水曜日 曇り
山本周五郎 天地静大(上) 新潮文庫(オリジナルは・・)
「施薬所の人たちを見ているうちに、愛情だけにうちこむと人は不幸になる、ということを悟りました、人は生きなければなりませんし、子を生み、子を育て、よく生きるためには人よりぬきんでた仕事もしなければならない、殿方にはこういう大きな負担がかかっておりますわ」(山本周五郎、同書上巻、p364)
・・「施薬所のお手伝いをするうちに、自分でもものの考えかたが変わったのにおどろくこともございますわ、けれどもともとこういう性分だったのですね、こういう性分だから変わったのだとも思いますわ」(同、p368)
・・二人は源森川の角で別れた。 透(とおる)は堀に沿って南のほうへ歩きながら、自分の心のふしぎな乱れに悩まされた。なほ(補註、作中の準主人公の女性の名前です)の口ぶりには、もう逢わない、という意味がかなり明らかに感じられた。 ーーーこんなことで毀れるのか。 こんなふうに終わってしまうようなものだったのか。そういう絶望的なむなしさと、同時に心のどこかでほっとするような、肩が軽くなったような気持を感じていたのだ。(同書、p370)
なほのいうことは理路がととのっていた。施薬所の貧しい病人や孤児たちと暮らしているうちに、現実のきびしく、動かしがたいことを知って、ものの見かたや考えかたが大きく変化した。
愛情だけにうちこむと、人は不幸になる。
人間は生きてゆかなければならない。郷臣(もとおみ;補註:本作の主人公の一人の名)の言葉とは違って、なほの考えは極めて現実的であり、興ざめるほど割り切っていた。(同書、p368-369)
**
補註: この文脈での「よく生きる」という言葉の意味は、「よりよく生きる」という意味に近いと考えて良いと思います。その人の持っているポテンシャルを発揮すること、それがその人の周りの人々や社会にとってプラスになること。私見ですが、その結果として、高評価や高賃金が付いてくるはずですが、その狭い意味だけを指しているわけではない、そんな表現だと捉えられます。
**
・・勤王を叫び、佐幕を叫ぶ青年たちの大部分は、自分の心からの叫び、信念によって行動するのではなく、接近しつつある大きな虚像の力に圧倒され、その不安と恐怖から遁れるために、虚像のふところへとびこんだり、反抗の気勢をあげたりしているのだ。(同書、p376)
・・今日の時勢、安閑と学問などをしているときではない。立って大義のために一身を捧げろ。いま役に立つことのできないものは存在を許されない。どちらも「時勢」に頭をぶっつけ、そのほかのものは眼にはいらなくなっている。 ーーー悪いはやり風邪のようなものだ。 水谷郷臣(もとおみ)はそう云ったが、はやり風邪どころではない、これは狂気に近いものだ、と透は思った。(同書、p414-415)
・・「あなたは強くおなりだ」と母は云った、「あなたが強くおなりだろうということは、わたくしにはわかっていました、こちらのことは心配せずにお立ちなさい、母にできるだけのことはしてあげますよ」(同書、p422)
補註:このような母がいたなら・・主人公の透のような人物を育てることができるのだろうか・・世俗の現実の話にはなるが、こんな良い母がどこにいる? ・・周五郎さんの勝手な非現実的妄想だろうか? いや、そうではなかろう。周五郎さんは、きっとどうしても、このような母を描きたかったのだ。だから私も、このほんの少しの、数行だけの記述に、このような深い感慨を味わうのである。こんな良い母がどこにいる? きっとどこかにいる。
補註:同書の下巻が手元に無いため、続きはとりあえずキンドルヴァージョンで購入してみよう・・『樅ノ木は残った』の読破の時と似たような状況。
**
アマゾンの紹介ページより<以下引用>
この作品は、激動の幕末を時代背景にした長編小説である。著者の山本周五郎は、この作品の執筆の意図をつぎのように述べている。 「現代の青少年が、人口過多、オートメーション化による就職難、人間的な尊厳の喪失、原子戦などの難問に直面しているように、幕末、明治維新の大変革時代の青少年たちも、同じように不安や疑惑や絶望に当面したことと思う。私はこの小説で主役を演ずる昌平黌の学生たちに託して、この『激しい変革』に当面しての不安やおびえや絶望にもめげず、自分の信念を守って、こつこつと文明を開拓してゆく青年たちのことを書きたいと思います。」 この作品は、山本周五郎がその執筆の意図を思う存分に書き表した秀作といえるだろう。<以上、アマゾンのこの本の紹介より引用終わり>
補註: <以下ウィキペディアより引用>「湯島」は古代の豊島郡湯島郷に由来する地名で、「本郷」という地名も湯島郷の本郷に由来するという説もある。一方、「神田」は神田明神もしくは伊勢神宮の神田に由来する地名であったことから、由来の異なる両方の地名が被る地域も存在した。そのため、湯島聖堂・昌平坂学問所とその周辺地域は「神田」とも「湯島」とも称されたが、1887年に神田区と本郷区の境界が確定した際に湯島聖堂・昌平坂学問所のあった神田区宮本町は本郷区に編入されて湯島二丁目(現在の湯島二丁目とは境域が異なる)と改称された(参照:『日本歴史地名大系 13 東京都の地名』(平凡社、2002年) P509-511)。<以上、ウィキペディアより引用終わり>
**
*****
*********************************
