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プラハ近郊の「白山の戦い」:フェルディナント二世の三十年戦争の始まりと神聖ローマ帝国改編

2020年12月31日 大晦日 曇り

菊池良生 戦うハプスブルク家 近代の序章としての三十年戦争 講談社現代新書1282 1995年

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プラハ近郊の「白山の戦い」はまさに長い戦いの始まりであった:

補註 「ハシェク、1620年のフヴェズダの戦いを語る」のノートもご覧ください。https://quercus-mikasa.com/archives/11487

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 ・・「フェルディナント帝はハプスブルク世襲領を越えて帝国全体の再配分を断行しようとする」(ウエッジウッド)。帝国の絶対主義。これがフェルディナント帝のクレドとなった。(菊池、同書、p64)

 自領の一元支配には領邦議会(等族議会、身分制代表議会)を徹底して無視することである。帝国(神聖ローマ帝国)の一元支配には帝国議会をとことんないがしろにすることである。帝国議員とは帝国においてはいわば領邦国家における等族にあたる存在である。こうして皇帝フェルディナント二世と帝国議員、すなわち帝国諸侯との軋轢が生じる。両者の武力衝突は必至となる。その意味で、プラハ近郊の「白山の戦い」はまさに長い戦いの始まりであったのである。戦争は続き、帝国は三十年戦争に引きずり込まれていく。(菊池、同書、p64)

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Battle of White Mountain

白山の戦い ウィキペディアによると・・・

<以下引用>

1617年、ボヘミア王国を支配していたハプスブルク家は、熱烈なカトリック信徒で異教徒迫害を行うフェルディナント大公(後の神聖ローマ皇帝フェルディナント2世)をボヘミア王に即位させた。これに反対するボヘミアのプロテスタント貴族は王を認めず、1618年には、国王の使者3人がプラハ城を襲った民衆によって窓から投げ落とされる事件が起こった(第二次プラハ窓外投擲事件)。事件後、ボヘミアのプロテスタント貴族は、多数のカトリックの聖職者らを追放し、プロテスタント信徒であるプファルツ選帝侯フリードリヒ5世をボヘミア王に迎え、神聖ローマ帝国から離反する動きを見せた。ハプスブルク家は、この事件をプロテスタント信徒の反乱とみなし、カトリック連盟盟主のバイエルン公マクシミリアン1世などと協力してティリー伯ヨハン・セルクラエスを総司令官として、よく訓練された傭兵軍を派遣し鎮圧しようとした。

Memorial on Bílá hora commemorating the Battle of White Mountain in 1620. The memorial has been created in 1920.

ボヘミアのプロテスタント貴族は、ドイツやトランシルヴァニアのプロテスタント貴族に対して援助を求めたが断られ、わずか半日で壊滅した。ボヘミア王フリードリヒと妃エリーザベトは亡命し、ティリー伯が入城したプラハでは暴動が鎮圧され、多くの市民はカトリック復興を歓迎した。反乱軍を指揮した貴族・騎士・市民など47人は裁判にかけられ、クリシュトフ・ハラントを含む貴族3人と騎士7人、そして市民(市長・市会議員・弁護士など)が20人、合わせて27人がプラハの旧市街広場でジャン・マイドラーの手によって処刑された。旧市街広場の石畳には犠牲者に対する敬意として、玉石で作られた27本の十字架が現在でも残されている。敗戦後、プロテスタント貴族の首謀者は処刑され、戦いに参加したものは財産を没収、国外追放などの迫害を受け、ボヘミアのプロテスタントは宗教に寛容なポーランドなどヨーロッパ各国に散らばった(チェコ貴族の入れ替えが起きる)。これにより、ハプスブルク家のボヘミアに対する支配はますます強まっていった。チェコではこの戦い以後、18世紀から19世紀頃に起こった民族主義運動が勃興するまでの期間を暗黒時代(Těmno)と呼ぶ。

Hinrichtung der böhmischen Rebellen auf dem Prager Altstädter Ring 1621, zeitgenössischer Holzschnitt

この苛烈な戦後処理は、他のプロテスタント諸侯・諸国の反発を招き、反乱が30年にわたる国際戦争に発展する原因となった。1621年、皇帝フェルディナント2世は、3日間のうちに領域を立ち去るよう、全てのカルヴァン派信徒、非ルター派信徒へ命じた。翌年、皇帝は反乱に参加していなかったルター派信徒に対し、カトリックに改宗するか国を去るかを選択させた。1627年までに、プラハ大司教と皇帝代理ヤロスラフ・ボジタは平和理に住民のカトリックへの改宗を行った。これにより、ボヘミア人の多数がカトリックとなったが、代表的なプロテスタントのボヘミア人はそのままであった。反抗的なネーデルラント諸州を包囲しようとするスペインは、プファルツ選帝侯領を占領した。弾圧は言語にも及んだ。チェコ人の教養層に対し、ドイツ語が行政や高等教育の場で強制された。19世紀まで、チェコ語は書き言葉にすぎなかった。(補註: この場合、チェコ語は「話しことば」になるのではなかろうか? 要・確認)

1872年、アントニン・ドヴォルザークはヴィチェスラフ・ハーレク(英語版)の詞によるカンタータ「賛歌―白山の後継者たち Hymnus “dědicové bílé hory”」を作曲した。

補註: 録音も簡易で再生回数は多くないようだが、ユーチューブなどで聴くことができた: https://www.youtube.com/watch?v=q3Mu1raBCW4&ab_channel=Chorus%26OrchestraofCharlesUniversityinPrague

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