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埒があかなければ武力に訴える。それは別に違法ではなかった。特に等族にとって、半ば公然の権利でもあった。

2020年12月31日 大晦日 曇り

菊池良生 戦うハプスブルク家 近代の序章としての三十年戦争 講談社現代新書1282 1995年

ゲーテの戯曲『エグモント』

・ カール五世麾下の勇将でネーデルラント貴族、すなわち等族の一人。

・ 後のウイレム一世沈黙王(ボヘミア冬王フリードリッヒの母方の祖父)らとともに、本国スペインに反旗を翻し、ネーデルラント北部七州の独立を図るが、とき未だ熟せず失敗。捕らわれて処刑される。(菊池、同書、p60)

・ エグモントは処刑寸前まで恩赦を期待していた。

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中生ヨーロッパは・・無数の領邦国家によって埋め尽くされていた。そしてその領邦国家は領邦君主と、土地貴族、僧侶、都市貴族ら等族たちとの共同支配、すなわち二重権力構造によって支配されていた。それゆえ、領邦議会(等族議会、身分制代表議会)は君主と等族たちの利害が激しくぶつかる場であった。とりわけ十六世紀以降は従来の税金、法律上の争いに、宗教問題が絡んできて、対立は先鋭化していた。  

埒があかなければ武力に訴える。それは別に違法ではなかった。特に等族にとって、半ば公然の権利でもあった。君主と等族の戦いで「等族が勝った場合には、等族は領邦君主に契約で自分たちの意志を認めさせる。君主側が危機を乗り切ったときには君主は屈服させた等族を、その反乱については全て水に流し、再び受け入れる」(ブルクハルト)のが当時の慣習であった。等族の反乱は国家反乱とはならなかったのである。

・・スペイン・ハプスブルクは、ことネーデルラントに関しては従来の二重権力体制からの脱却を図り、一元支配、絶対主義を模索し始めたということなのであろう。(菊池、同書、p60~62)

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補註: 等族についてコトバンクから<以下引用>

等族(読み)とうぞく出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版

【神聖ローマ帝国】より

…その結果,帝国国制の独特な二元主義的構造が定着したが,それは帝国全体を表すのに使われてきた〈皇帝と帝国〉なる定式の意味変化によく示されている。すなわち,もともと両概念は同じことで,皇帝の支配が帝国を意味していたのに対し,いまや両者は完全に分離して,〈帝国〉とは皇帝ぬきの等族(シュテンデStände)の全体を表し,家門勢力を背景とするにすぎない皇帝は,国制上,帝国住民との直接的関係をすべて失うことになった。住民と皇帝との間には領邦が割り込み,その全体がいまや〈帝国〉として皇帝と相対することになったのである。…

【身分制議会】より

…中世後期のヨーロッパ諸国で,身分制社会を土台に成立した議会。等族議会ともいう。近代の議会が国民代表機関の性格をもつのに対し,この時期の議会は特権的な社会層たる諸身分(等族Stände,états)の利害を表現している。…

【身分制国家】より

…中世後期,ヨーロッパ各地に成立した国家形態で,特権をもつ諸身分(等族Stände,états)が,身分制議会を通じて,君主の権力行使を制約している点に,その特徴がある。等族制国家ともいう。


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