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水無瀬殿おぼし出づるも夢のやうになん。はるばると見やらるる海の眺望、二千里の外も残りなき心ちする、いまさらめきたり。

2024年3月15日 金曜日 曇り

目崎徳衛 芭蕉のうちなる西行 角川選書212 平成3年(1991年)(以下に引用した「後鳥羽院小伝」の初出は、『図説日本の古典』4 古今集・新古今集 昭和五十四年)

 ・・七月六日、後鳥羽院は武士の厳重な警固のうちに鳥羽殿(とばどの)へ移される。八日、出家。絵師藤原信実に似絵(にせえ)を描かせ、形見として母の七条院に贈る。十三日、隠岐に配流。供奉(ぐぶ)を許されたのは、坊門信清女(ぼうもんのぶきよのむすめ)の西御方(にしのおんかた)と伊賀の局(いがのつぼね)(亀菊)、それに二,三人の側近だけである。

 絶海の孤島隠岐国阿摩郡苅田(かつた)郷の配所のさまは、『増鏡』の名文によって知られる。

 このおはします所は、人離れ里遠き島の中なり、海づらよりは少しひき入れて、山かげにかたそへて、大きやかなる巌のそばだてるをたよりにて、松の柱に葦ふける廊など、気色ばかり事そぎたり。まことに「しばの庵のただしばし」と、かりそめに見えたる御やどりなれど、さるかたになまめかしくゆゑづきてしなさせたまへり。水無瀬殿おぼし出づるも夢のやうになん。はるばると見やらるる海の眺望、二千里の外も残りなき心ちする、いまさらめきたり。潮風のいとこちたく吹来るをきこしめして、

 我こそは新島守(にいしまもり)よ隠岐の海の 荒き浪かぜ心して吹け

 おなじ世に又すみの江の月や見ん けふこそよそに隠岐の島もり

(目崎、後鳥羽院小伝、同書、p224)

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 ・・後鳥羽院は配所にあること十九年、延応元年(1239)二月二十二日、六十歳で世を去った。(中略)はじめ、讃岐に配流された崇徳院の例にならって顕徳院と追号されたのが、任治三年(1241)、院の遺志を汲んで後鳥羽院と改められたのも、その鎮魂のためであった。(目崎、同書、p228)

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補註: 鳥羽殿 ウェブ辞書によると・・鳥羽殿(とばどの)跡. txt: 白河・鳥羽・後白河3代上皇の院政の中心舞台となった離宮で、応徳4年(1087)にまず南殿が造営され、鳥羽上皇の時までに北殿・泉殿・東殿・田中殿の舎屋と附属の堂塔がつくられた。

補註 似絵 ウェブ辞書によると・・似絵(にせえ)は、鎌倉時代から南北朝時代にかけて流行した大和絵系の肖像画を指す絵画用語。

補註 坊門信清女 ぼうもん・のぶきよのむすめ 

ウェブ辞書によると・・

女子:坊門局(西御方) – 後鳥羽天皇女房、道助入道親王・礼子内親王、頼仁親王母 

一方、実朝の妻となったのは、女子:西八条禅尼(1193年 – 1274年) – 源実朝室。京都の貴族坊門信清(ぼうもん・のぶきよ)の娘である。 坊門家は、信清の姉殖子(七条院)と高倉院との間に生まれた皇子が即位し、後鳥羽(ごとば)天皇となったことから、急速に台頭した一族である。

坊門 信清(ぼうもん のぶきよ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期の公卿。修理大夫・藤原信隆の子。同母姉に高倉天皇妃の殖子(七条院)がおり、後鳥羽天皇の外叔父にあたる。四条壬生と三条坊門にそれぞれ邸宅を所有していた。また、京都の太秦にも山荘があったことから、太秦内府と称した。 女子:坊門局(西御方) – 後鳥羽天皇女房、道助入道親王・礼子内親王、頼仁親王母 女子:西八条禅尼(1193年 – 1274年) – 源実朝室

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