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人麻呂の吉野歌は呪歌的儀礼的なものであって、叙景ではない。

2016年2月10日 水曜日 雪

白川静 初期万葉論 中公文庫(初出1979年)

人麻呂は天智・天武の諸皇子とかなりの交渉をもっていたらしく、その作歌には、日並・川島・高市・の諸皇子、明日香皇女の挽歌、軽皇子・長皇子の遊猟に従う歌、新田部皇子への献歌などもあり、その歌集にみえるものにも弓削皇子に献ずるもの合わせて五首、舎人皇子二首などがある。日並は持統三(689)年、川島は持統五(691)年に没しており、人麻呂と王室との関係はそれ以前からのことであろう。ただ、天智系諸皇子との交渉は、おそらく間接的なもの・・・以下、略・・・(白川、同書、p220)

人麻呂は一方において神話的自然を挽歌や儀礼歌において完成させながら、やがて自然を恋愛の象徴として捉えることができた。もっともこの相聞の世界の成就者は、「人麻呂歌集」中の作者たちであろう。皇子への献詠に類歌が多いことからも、その背景には集団の姿が隠見する。(白川、同書、p224)

持統の朱鳥四(689)年四月、皇太子草壁皇子が薨じた。持統が大位を与えようとした草壁の死は、この中皇命たる女帝にはよほど大きな衝撃を与えたことであろう。これよりのち、あの頻繁な吉野行幸が始められるのである。それは中皇命としての行為であったと考えられる。 草壁の殯宮挽歌は、人麻呂に命じて作られた。「日並皇子尊の殯宮の時、柿本朝臣人麿の作る歌、一首並びに短歌」(二・一六七から一六九)がそれであり、舎人歌二十三首(二・一七一から一九三)の大群作がつづく。天智・天武の後宮挽歌に代わって、ここに専門的な詞人が登場し、かつ多数の舎人たちが歌を献じている。(白川、同書、p227)

人麻呂の公的な儀礼歌は、右のように六八九年より七〇〇年に至る十二年間に作られている。そしてこれよりのち、王室の殯宮挽歌は絶え、持統太上の崩じたときにもそのことは行われていない。喪葬の法が火葬となったこともあるが、・・・(中略)・・・挽歌の伝統は人麻呂とともに絶えたといってよい。(白川、同書、p228)

(高市皇子の挽歌は)叙事詩への傾斜を思わせるものであるが、しかし「万葉」では、そこから叙事詩への展開をとることはなかった。挽歌はその文学様式のいわば頂点をなしている。その意味でそれは、「詩経」の詩篇と同じ古代性をもつものであったといえよう。・・・(中略)・・・基本的には、いずれにも叙事詩的要求をもつことがなかったということであろう。英雄詩をも叙事詩をも生むことのなかった東アジアの古代文学として、「詩経」と「万葉集」とには、ある種の類同性のあることは否定しえないことである。(白川、同書、p230、p232)

「万葉」の最も充実した作品がみられる時期は、人麻呂を中心とする持統期であり、またその時期には多くのすぐれた挽歌が作られており、挽歌の時代ともよびうる時期でもあった。挽歌は呪歌の伝統の上に立つもので、祝頌や予祝など古代呪歌のいわば結束をなすものともいいうる。しかし挽歌は天智挽歌、つづいて人麻呂の作歌ののちには、また間もなくその伝統が絶える。・・・やがて火葬の施行とともに挽歌も衰落し果てるが、それは古代的なことだま文学の終焉を意味する。古代的なものが滅び、律令的国家の体制が急速に進行しつつあることを示す事実でもあった。  古代的なことだまの文学は、律令体制のなかではもはや展開の道をえないのみでなく、文学としての生命を持続することも困難であった。文学受容のしかたにも、また変化が生まれる。それで「万葉」の編者には、すでに本来の挽歌を挽歌として理解しえぬという事態すら生ずる。(白川、同書、p247-248)

人麻呂の死をめぐる歌の周辺に、依羅や丹比の名がみえることは決して偶然ではなく、これらの古い呪的集団のなかに蓄積されたものが、おそらく「人麻呂歌集」などの名でよばれている古歌集であろうと思われる。(白川、同書、p278-279)

人麻呂が歌聖とされるのは、「万葉」における人麻呂作歌によるものではない。むしろ「人麻呂歌集」における、地下人たちの伝承歌の系譜によるのである。(白川、同書、p285-286)

「万葉」の理解は、まずその正しい軌跡の図形を描くことからはじめるべきである。それには、東アジア的な社会として基礎条件を同じうする文化圏の文学のありかたとの間に、比較文学的な方法をとることが、最も有効であろう。(白川、同書、p288)

「東の野に炎(かぎろひ)の」一連の歌は、天皇霊の現前とその受霊という、荘厳にして絶対的な祭式的時間を歌うもので、叙景ではない。・・・叙景の名歌とされるものには、人麻呂や赤人など前期に属するものが多いが、その吉野歌などはいずれも呪歌的儀礼的なものであって、自然詠ではない。これを自然の生命的実相にせまる叙景歌として鑑賞するのは、近代人の自然観を古代の文学に投影させた錯覚にすぎない。(白川、同書、p291)

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