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「白村江」以後:国家危機と東アジア外交

2016年2月10日 水曜日 雪

森公章 「白村江」以後:国家危機と東アジア外交 講談社選書メチエ 1998年

日本の遣唐使も基本的には朝貢使であり、近年では、八世紀以降については二〇年一貢の約束がなされていたことが明らかにされている。 とすると、到来した唐の使者を迎える外交儀礼(賓礼ひんれい)も、朝貢国が臣属して、宗主国の使者を迎える作法で行わなければならないことになる。・・・皇帝の使者は南面し、北面した蕃主に使旨(しし)を告げるのがその形式であった。(森、同書、p6-7)

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倭国の曖昧な外交論理
武力介入は外交失敗の証=唐
武力による威嚇外交=倭
モノによって動く・・・すなわち軍事力行使の代償として、人・文物の獲得を要請しているのであって、最近ではこうした倭の行動を傭兵と評する見解も呈されている。さらに「日本書紀」に描かれた五一二年の「任那四県」の割譲の際にも、百済の賄賂をえた大友金村(おおとものかなむら)が「割譲」を認可したという風聞が記されており、・・・(中略)・・・一方、唐は、・・・六四六年、高句麗が美女二人を献上して謝罪しようとした際も、大宗はこれを返却し、高句麗征伐継続の意志を明示している。このように、明確な論理がなく、モノによって左右されがちな倭のあり方を示す事例は多く、それとは対照的に明確な論理にもとづいて行動する唐との違いを浮き彫りにしている。(森、同書、p79-87より抄)

白村江・・・百済救援の役、百済の役
百済支援決定の当否は別にしても、倭には唐と対決するという厳しい状況が十分認識されていたか、はなはだ疑わしい点もうかがわれる。(森、同書、p92)

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(「白村江」以前の)倭国の外交が一国中心主義的かつ個別対応で全体的な体系性に欠けると、その特色を指摘したが、「白村江」以後においてもその基本的性格は変わらなかった。・・・日本の対唐外交は「通交」というにはほど遠く、結局日本が関係を維持する国は新羅だけであった。しかし、その新羅との関係も、・・八世紀中葉頃から悪化しはじめる。 ちょうどその頃から来日するようになったのが、渤海使である。・・新羅から渤海という来日国の変化はあるが、朝鮮諸国を従属国と位置づける日本の外交方針は保持され、また新羅・渤海両国との安定した関係が並行しなかったという意味では一国中心主義という外交形態も変化しなかったといえよう。 外交儀礼の面から見ても、・・・日本では、なおも外国使全般に対する普遍的賓礼が欠如していた・・つまり個別的対応という特色は、やはり変わっていないのである。  要するに、文字どおり「極東」の島国であった日本は、「白村江」以後は厳しい外交関係を体験する必要がなく、国際的には朝鮮諸国に対する日本中心主義的対応と唐に対する事大主義的姿勢の二重構造でのぞみ、また対唐外交遂行の上でも国際的には事大主義、国内的には日本中心主義という二つの対唐観を使い分けることが可能だったのである。そのため、外交形態の基本的性格に変容を迫られることはなく、外交面では白村江の敗戦の教訓が生かされなかったといえる(森、同書、p222-223)

白村江の戦いで露呈した外交面での欠点、すなわち一国中心主義で多面的な外交が展開できない、個別対応で普遍的な原理・原則が示せない、国際情勢に対する関心が薄く、把握が甘いといった点は、解消されないまま抱えこまれたことになる。

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