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帰去来・故郷

2020年12月23日 水曜日 曇り

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太宰治 帰去来 筑摩文庫版太宰治全集5 1989年(オリジナルは、昭和17年の作、昭和17年11月刊行予定だったのが遅れて、昭和18年6月15日に発行された。大宰の10年ぶりの帰郷は昭和16年の夏のこと)

太宰治 故郷 筑摩文庫版太宰治全集5 1989年(オリジナルは、昭和18年1月1日に発行。大宰の再帰郷は昭和17年10月27日・東京発。園子は一歳四か月。修治は三四歳。)

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五所川原市位置図

津軽鉄道線の津軽飯詰~五農高前。バックは岩木山

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(次兄の)英治さんは兄弟中で一ばん頑丈な体格をしていて、気象も豪傑だという事になっていた筈なのに、十年振りで逢ってみると、実に優しい華奢な人であった。東京で十年間、さまざまの人と争い、荒くれた汚い生活をして来た私に比べると、全然別種の人のように上品だった。顔の線も細く、綺麗だった。多くの肉親の中で私ひとりが、さもしい貧乏人根性の、下等な醜い男になってしまったのだと、はっきり思い知らされて、私はひそかに苦笑していた。(太宰、帰去来、同書、p308)

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その夜は叔母の家でおそくまで、母と叔母と私と三人、水入らずで、話をした。私は、妻が三鷹の家の小さい庭をたがやして、いろんな野菜をつくっているという事を笑いながら言ったら、それが、いたくお二人の気に入ったらしく、よくまあ、のう、よくまあ、と何度も二人でこっくりこっくり首肯(うなず)き合っていた。私も津軽弁が、やや自然に言えるようになっていたが、こみいった話になると、やっぱり東京の言葉を遣った。(太宰、帰去来、同書、p310)

補註: 太宰の「おさん」(昭和22年10月1日発行)にも、この庭の畑の描写がある。「・・玄関のわきに、十坪くらいの畑地があって、以前は私がそこへいろいろ野菜を植えていたのだけれども、子供が三人になって、とても畑のほうにまで手がまわらず、また夫も、昔は私の畑仕事にときどき手伝ってくださったものなのに、ちか頃はてんで、うちの事にかまわず、・・ただ雑草ばかり生えしげって、・・」と書かれている。

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・・刻一刻、気持ちが暗鬱になった。みんないい人なのだ。誰も、わるい人はいないのだ。私ひとりが過去に於いて、ぶていさいな事を行い、いまもなお十分に聡明ではなく、悪評高く、その日暮らしの貧乏な文士であるという事実のために、すべてがこのように気まずくなるのだ。

「景色のいいところですね。」妻は窓外の津軽平野をながめながら言った。「案外、明るい土地ですね。」(太宰、故郷、同書、p318)

補註: 美知子・園子の母子が太宰の生家を訪れるのはこの時が初めて。

斜陽館

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・・私は口を曲げて、こらえた。しばらく、そうしていたが、どうにも我慢出来ず、そっと母の傍から離れて廊下に出た。・・・(中略)・・・三十四歳にもなって、なんだい、心やさしい修治さんか。甘ったれた芝居はやめろ。いまさら孝行息子でもあるまい。わがまま勝手の検束をやらかしてさ。よせやいだ。泣いたらウソだ。(太宰、故郷、同書、p324)

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「・・私(=東京の洋服屋の北さん)は、ただ、あなた達兄弟三人(=文治、英治、修治の兄弟)を並べて坐らせて見たかったのです。いい気持ちです。満足です。修治さんも、まあ、これからしっかりおやりなさい。私たち老人は、そろそろひっこんでいい頃です。」(太宰、故郷、同書、p330)

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毘沙門 – 飯詰間のアブラナが咲き乱れる区間を走る津軽21型-103。津軽鉄道 走れメロス号(21-103)と菜の花。 毎年アブラナの種を線路沿いの土手に撒いている男性の母親と名乗る人と出会って、どうやら個人でこの景色を作り出しているよう。踏切付近には鉄道ファンと思われる人集りができていた。著作権者:”Photographer: Aomroikuma (Wikipedia / Wikimedia Commons)”

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