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律子と貞子:どちらと結婚すべきか?   付録:210605付け追記:「春の盗賊」から。

2020年12月22日 火曜日 曇り

太宰治 律子と貞子 ちくま文庫版太宰治全集5 1989年(オリジナルは昭和17年2月1日)

「律ちゃん。」なぜだか、姉のほうに声をかけた。

「あら。」と、あたりかまわぬ大声を出して、買い物を店先に投げとばし、ころげるように走って来たのは、律ちゃんではなかった。貞ちゃんのほうであった。

   律子は、ちらと振り返っただけで、買い物をまとめて、風呂敷に包み、それから番頭さんにお辞儀をして、それから澄まして三浦君のほうにやって来て、三浦君から十メートルもそれ以上も離れたところで立ち止まり、ショオルをはずして、叮嚀にお辞儀をした。それから、少し笑って、 

「節子さんは?」と言った。(太宰、同書、p34)


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『律子と貞子』 結婚の相手としてどちらを選ぶか。

この問いの近似例として〜マルタとマリアを持ち出したのは、太宰の巧妙な論点すり替え。

聖書をきちんと解釈すると、イエスは、自分の宗教普及活動を聞いてくれる相手としてはマリアを選び、マリアを良しと言明した。一方、イエスは、自分の宗教普及活動をサポートしてくれるホスト役としては、マルタを選び、マルタの家で饗応(もてなし)を受けた。すなわち、マルタを良しと行動によって示した。一方、イエスは、結婚の相手としては、マルタもマリアも選ばなかった。(以下のパターンAの亜型)


「マルタとマリア、どちらがお説教をすべき相手か?」・・という聖書に書かれている問いかけを、太宰は「マルタとマリア、どちらを選ぶべきかはもうわかってますよね・・」と、結婚相手の選択という問いかけに対する答えへと、論点をすり替える。太宰の敷いた罠に、読者(この小説では三浦憲治君)は引っかからない。


聖書では、マルタとマリア、どちらかと結婚すべし。選べ!・・とイエスが迫られたわけではない。税金に関して問われたとき、ローマ帝国皇帝が任命する税吏へ税金は納めよ(カエサルのものはカエサルへ)とイエスは賢くいなした。無用に秩序を乱す煽動は行わない。同じように、ここでも、お説教はマリアに聞いてもらい、宿泊接待もてなしはマルタに整えてもらい、それぞれ適材適所で担当してもらっている。秩序は賢く上手に整えられている。


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 以前このウェブページで紹介した小浜逸郎氏の「人はなぜ結婚するのか」https://quercus-mikasa.com/archives/10997 もご参照下さい。「・・結婚はまさしく未来のエロス的生の先取り的な構成の決意であるから、それは結合の時間的展開(すなわち結合が結果する産出=自己流出)をあらかじめ予定のなかに繰り込んでいるのである。」(上記より再引用)

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さて、次は少し分析的に考え、整理してみよう。


結婚相手を選ぶ場合、

選択する(=決意する)側はどちらかという視点からの分類:

パターンA 男が女を選ぶ。

パターンB 女が男を選ぶ。

パターンC 男が女を選び、かつ、女が男を選ぶ。

パターンD その他。たとえば、中世ヨーロッパの王や諸侯の政略結婚の場合。その他、戦争・略奪や経済的理由による場合。ほかに、特殊な例として、アダムとイブ・ペアや、わが国のいざなぎ伊弉諾神いざなみ伊邪那美命ペアの場合(他に人類が見当たらず、選択の余地がなかったので、仕方なく、ないし必然運命的に結婚した)。


例:

・たとえば、安井息軒先生の場合、安井夫人が選んだのだから、パターンBである。

・今回の『律子と貞子』の場合、三浦憲治君が選んだのだから、パターンAである。

・コシ・ファン・トゥッテの場合は、やや錯綜していて難しいが、基本的にはパターンBである。つまり、最初はパターンCでハッピーとなっていた模様なのに、人為の悪戯により、女たちは男を選び直してしまう(パターンBへ転換)。いずれにせよ、天才モーツァルトの音楽があれば目出度し目出度し(ダポンテのニヒリズム)。

・漱石の『明暗』、津田と清子は最初はパターンCとなっていた模様だ。ところが、清子は男を選び直してしまう(パターンBへ転換)。

・漱石の『それから』、昔、代助は三千代を選ばなかった(パターンA)。そして、再会し、今、代助は三千代を選んだ(パターンA)。


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さて、本題に取り組んでみよう。少し分析的にアプローチする:


質問: 律子と貞子、どちらと結婚すべきか? 

答えは少なくとも以下の5通りが考えられる。


答えその1.どちらでも同じ(ニヒリズム)

Eg: ダポンテとモーツァルト・チームのコシファントゥッテ(選ぶ主体はパターンC)どちらでも幸福になれる。


答えその2 律子が良いと考え、律子を選ぶ:

Eg: 森鴎外の『安井夫人』


Eg: 『律子と貞子』の三浦憲治君


答えその3 貞子が良いと考え、貞子を選ぶ:

Eg: 『律子と貞子』の小説の語り手「私」・・少なくとも、小説の中では聖書のマルタとマリアのお話を引き合いに出して、その論点が違っていることに自らは気づかず、当然、貞子を選ぶよね・・と言っている(ように太宰は読ませている)。

「私ならば一瞬も迷わぬ。確定的だ。けれども、ひとの好ききらいは格別のものであるから、私は、はっきり具体的には指図できなかった。私は預言者ではない。三浦君の将来の幸、不幸を、たったいま責任を以て教えてあげる程の自信は無い。」(太宰、同書、p39)

注意: 太宰の小説では「語り手の『私』」イコール「太宰治という本物の人間」ではない(ことも多い)ので要注意である。ここで間違うと『恥』の女子学生のように大恥をかいて悔しがることになる。


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以上の3つの答えはそれぞれ屈折がなく、シンプルでわかりやすい。ところが、以下の二つは大きく屈折する。


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答えその4 律子が良いと考え、貞子を選ぶ:

eg: 「太宰治という本物の人間」の場合: 私は「本物の太宰」はこの「律子が良いと考え、貞子を選ぶ」と答える人生を歩んだのではないかと直感している。この屈折がどこから来るのか、そしてどこへ帰結していくのか、これから精読していきたいと思っている。

答えその5 貞子が良いと考え、律子を選ぶ:

ie, 恋愛では貞子、結婚では律子、という生き方。

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答えその6以降(現在、未分類)

財産・美貌その他付随する価値の軽重を秤にかけて男が女を選んだり、女が男を選んだり、という答え。たとえば、律子が貞子よりも美貌だから律子を選ぶ、とか、貞子がユーチューバーとして年収数億だから貞子のところにお婿入りしたいとか、現実にお嫁さん・お婿さんを選ぶ場合には、この「答えその6以降」で進む場合が多いのかもしれない。しかし、議論の進め方が濁ったものとなりがちなので、今回は深くは取り扱わないこととしたい。


太宰の『律子と貞子』を再読してみよう。たとえば、多くの読者としては一番に気になるであろう、この姉妹の容貌・・バルザックの小説ならばどれだけ多くのページが割かれることであろうか。が、この『律子と貞子』では彼女たちの容貌が詳しくは描かれていないことに気づく。


「律子は、そんな子だった。しっかり者。顔も細長く蒼白かった。貞子は丸顔で、そうしてただ騒ぎ廻っている。」(太宰、同書、p36より引用)

「・・なるほど、バスの乗客の大部分はこの土地の人らしく、美しい姉妹に慇懃な会釈をする。どちらまで? と尋ねる人もある。(同書、p39)


美しい姉妹が、面長か丸顔かはわかるが、背の高さもわからず、髪型もわからない。普通の小説らしくないのである。年齢は二人とも適齢期、ともに名門の甲府女学校卒で学歴も同じ。姉妹なので、もちろん家柄や財産なども同じ。つまり、ややもすると不純な思惑と濁った議論に陥りやすい読者に対して、できるだけ不純な要素を考慮に入れないように、余分な情報をできるだけ盛り込まないように、この小説の描写は巧妙に工夫されている。


舞台は下吉田に設定されていて、冬の1月〜2月ごろ。ならば晴れていて、富士山が目の前に大きく、美しかったのではなかろうか。

「三浦君は甲府からバスに乗って、もう雪の積もっている御坂峠を越え、下吉田に着いた頃には日も暮れかけていた。」(太宰、同書、p34)


読者は、吉田の地名から富士山の大きさを直感するが、これら風景も描写されない。

File:Fuji-Q Highland (44614891025).jpg File:Chuurei-tou Fujiyoshida 17025277650 c59733d6ba o.jpg File:Mount Fuji Radar Dome Museum s2.JPG File:Wonderful Fuji @ Fujiyoshida city walk – panoramio.jpg File:Torches burning Yoshida Fire Festival A.JPG File:Monks walk through the approach of Northern Fuji Sengen Shrine.JPG File:肉うどん(天下GO!麺富士山駅店).jpg 以上7画像を使用しUser:Halowandが作成(富士吉田市ウィキペディアから引用)

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・・というわけで、普通なら小説にならないようなこの『律子と貞子』のストーリーなのに、実に生き生きとした印象をわれわれに与えてくれるのは何故だろう。それは、貞子の活き活きとした、大いに饒舌なお喋りの活写にある。そしてそれと対照的に、おとなしく地に足をつけて生きている律子の立ち居振る舞いの描写にある。そして、同様に口数少ない三浦憲治君の微妙な心持ちの描写が心に残る。

<以下引用>
・・東京で文学をやってるんだってね、すごいねえ、貞子を忘れちゃったのね、堕落しているんじゃない? 兄ちゃん! こっちを向いて、顔を見せて! そうれ、ごらん、心にやましきものがあるから、こっちを向けない、堕落してるな、さては、堕落したな、丙種になるのは当たり前さ、丙種だなんて、貞子が世間に恥ずかしいわ、志願しなさいよ、可哀想に可哀想に、男と生まれて兵隊さんになれないなんて、私だったら泣いて、そうして、血判を押すわ、・・・・・以下略・・・(同書、p35)

・・律子は土地の乗客たちに軽くお辞儀をして、静かに降りた。三浦君のほうには一瞥もくれなかったという。降りてそのまま、バスに背を向けて歩きだした。貞子は、あわてそそくさと降りて、三浦君のほうを振り返り振り返り、それでも姉の後に附いて行った。

 三浦君のバスは動いた。いきなり妹は、くるりとこちらに向き直って一散に駈けた。バスも走る。妹は、泣くように顔をゆがめて二十メートルくらい追いかけて、立ち止まり、

「兄ちゃん!」と高く叫んで、片手を挙げた。(同書、p39)

補註: この別れの場面の描写は感動的である。思わず涙ぐんでしまう。

この物語の主人公・三浦憲治君とて、貞子の純情な愛情の表現に心動かされないわけがあるまい。その感動が若干の迷いを生み、この物語の「語り手の私」のところにも意見を求めにやって来たのである。そして、「語り手の私」は「私ならば一瞬も迷わぬ。確定的だ。」と言って、マルタとマリアの寓話を三浦君に聞かせる。

ほかの作品でも太宰と思われる語り手に、こんなふうに語る黄村先生がいた:

<以下引用>

女は、うぶ。この他には何も要らない。田舎でよく見かける風景だが、麦畑で若いお百姓が、サトやあい、と呼ぶと、はるか向こうでそのお里さんが、はああい、と実になんともうれしそうな恥ずかしそうな返事をするね。あれだ。あれだよ。あれでいいのだ。(太宰、『花吹雪』より、以前にも引用したものを再引用。)

この『花吹雪』では黄村先生の語りがあり、それを速記記録する『語り手としての私」がいて、さらに作者・太宰自身がいる。3重の入れ子構造になっていて複雑である。

私が思うに、

太宰自身は、「女は、うぶ」=「貞子が良い」とは、ストレートには思っていない。律子のような女性が良いと心の底では、そして頭の中では、明確に気づいている。しかし、「女は、うぶ」=「貞子が良い」、という生き方に吸い込まれていく止むに止まれぬ力、たとえて言うなら所謂「万有引力」に引き込まれていくのではなかろうか。先にも述べたように、「本物の太宰という人物」はこの「律子が良いと考え、貞子を選ぶ」と答える人生を歩んだのではないか。修正することになるかもしれないけれど、今の私はそう思っている。

太宰治の2番目の妻石原美知子

<以下引用> ・・なんという事だ。私は、義憤に似たものを感じた。三浦君は、結婚の問題に於いても、やっぱり極度の近視眼なのではあるまいか。読者は如何に思うや。(太宰、同書、p40)

補註: ところが、近視眼なのは三浦君ではなく、この「語り手の私」自身なのである。「語り手の私」は義憤を感じてストレート、つまり単純である。少なくとも、そのように書かれている。ところが、一方、この短篇を書いた作者・太宰自身は、律子が良いと常々はそう思いながら、けれど貞子に引き込まれていく自分を知っている。三浦君にはなれない。その自分を思って、義憤ではなく、淋しさによる悲しみに似たものを感じながら、この作品を完成させたのではなかろうか。

これはあくまで私見である。読者は如何に思うや。

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2021年6月5日 土曜日 補註追記:

太宰の「春の盗賊」https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/266_20031.html

を読むと、私の迷いはさらに深まる。

「――わが獄中吟。  あまり期待してお読みになると、私は困るのである。」・・この冒頭の言葉も謎を深める。

・・「わかった。やっぱり、変質者か。」結婚して、はじめて、このとき、家内をぶん殴ろうかと思った。・・・(中略)・・・それが、いいのか。私は、いやになった。それならば、現実というものは、いやだ! 愛し、切れないものがある。あの悪徳の、どろぼうにしても、この世のものは、なんと、白々しく、興覚めのものか。ぬっとはいって来て、お金さらって、ぬっとかえった。それだけのものでは、ないか。この世に、ロマンチックは、無い。私ひとりが、変質者だ。そうして、私も、いまは営々と、小市民生活を修養し、けちな世渡りをはじめている。いやだ。私ひとりでもよい。もういちど、あの野望と献身の、ロマンスの地獄に飛び込んで、くたばりたい! できないことか。いけないことか。この大動揺は、昨夜の盗賊来襲を契機として、けさも、否、これを書きとばしながら、いまのいままで、なお止まず烈しく継続しているのである。(<以上、青空文庫より引用終わり>)

律子 → 平凡で平穏な小市民的暮らし → 「そうして、私も、いまは営々と、小市民生活を修養し、けちな世渡りをはじめている。いやだ。」

貞子 → ロマンチック かつ 変質者(私ひとりでもよい) → もういちど、あの野望と献身 → ロマンスの地獄に飛び込んで → この大動揺!(平凡でない代わりに平穏でなく、大動揺、苦しい、悩ましい。後悔で死にそうだ。) → くたばりたい! できないことか。いけないことか。(できないことではなかったが、小市民的暮らしからは「いけないこと」とされている。苦しい。悩ましい。死にそうだ。)

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