culture & history

人はなぜ結婚するのか。

2020年9月16日 水曜日 曇りときどき雨

小浜逸郎 可能性としての家族 ポット出版 2003年(オリジナルは1988年)

子どもが生まれるという可能性は、人々が結婚の決意を固めるときにその決意の内容として必然的に承認されている。(小浜、同書、p292)

子どもを持つということは、自己の有限性をますます確かな形で確証するということである。子どもというのは、最も如実な自己産出=自己分離であるという事情からして、第二の自己であってしかも自己ではないようなものである。子どもの産出と成長にかかわることによって人は、自己の流出を経験する。というよりも、ふたりのエロス的な関係の実質の重要な部分が、子どもという他の個体の充実過程のほうに転化されていくのである。  ヘーゲルは『精神現象学』のなかで言っている、子どもとの関係においては、両親は自分の現実を他者(子ども)のうちに持ち、そのように自己が他者のうちに実現されていってしまうのを取り戻すことができないという感動(決定性)のなかに置かれている、と。つまりそういう決定性のなかに進んで身を置くということは、徐々に枯れていって死滅してゆく生命の必然を、目に見える充実過程(子どもの成長)を直接の媒介として日々受け入れていくという意味を持っている。言いかえると、自分が有限な時間存在にほかならないことは、このようにエロス的自己の流出によって最も確かな形で確認できることなのである。  さて、そういう有限性への自覚の条件は、結婚という踏み込みのなかにすでに織り込まれている。結婚とは第一に地上に降り立つ決意である。・・結婚はまさしく未来のエロス的生の先取り的な構成の決意であるから、それは結合の時間的展開(すなわち結合が結果する産出=自己流出)をあらかじめ予定のなかに繰り込んでいるのである。(小浜、同書、p293-294)

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