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クリスティーナ ・スウェーデン女王

2021年1月1日 金曜日 雪

菊池良生 戦うハプスブルク家 近代の序章としての三十年戦争 講談社現代新書1282 1995年

クリスティーナ (スウェーデン女王) ウィキペディアによると・・・<以下引用>


絶対主義化とプロテスタント主義を目指すスウェーデン政府との軋轢が彼女を苦しめたのである。スウェーデンの国益と自由主義の狭間で揺れ動いた彼女は、最終的に己の意志を貫き、退位を決意したのであった。

豊かな教養を持つクリスティーナは、グロティウスやデカルトらと交わり、彼らを宮廷に招聘している。一方、早くも20歳の時に王位を去る計画を立て、その7年後に従兄カール10世に王位を譲り、外遊を始めた。

翌1655年にインスブルックで誓絶式を行い、カトリックに改宗した。1655年12月ローマに到着し、以後ローマに居を定めフランス・ドイツ・スウェーデンを周遊した。1660年に従兄カール10世が死去、その子カール11世が5歳で即位すると、クリスティーナはすかさずストックホルムに戻り、「カール10世とその子女に王位を譲っただけなので、カール11世が亡くなった場合は復位する」と宣言した。しかし、クリスティーナはすでにカトリックに改宗しており、この宣言はスウェーデンで受け入れられるものではなかった。このため、彼女は王位継承権の放棄を再び宣言、1662年にローマに帰還。1668年、ポーランド王ヤン2世が退位し、クリスティーナはポーランド王国の国王自由選挙に名乗り上げた。彼女はカトリック信仰と結婚するつもりのないことを主張し支持を集めようとしたが、王位はマグナートのミハウ・コリブト・ヴィシニョヴィエツキが継承した。その後、ナポリ王国の王位につこうとして失敗したのち、1668年からローマに定住し、学問・芸術・文学を研究する日々を送る。1674年にはローマにアカデミー(後のアルカディア学会(英語版))を創設した。1689年、ローマで逝去。遺体はバチカンのサン・ピエトロ大聖堂に葬られた。

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ヴォルテールがたびたびクリスティーナを自著で扱い、「クリスティーナは天才的な女性であった。戦争以外に何もわきまえない国民の上に君臨するよりも学者たちと語り合うことを好み、王位を惜しげもなく捨て去ることによって名を謳われたのである。新教徒は彼女を苦しめた。ルターを信じないかぎりすべての徳は無意味であるとさえ考えられる有様である。一個の自由思想家にすぎない女性の改宗を促すことは教皇にとって易々たる仕事であったに違いない」と賞賛している(『カール12世』より)。

実際、ラテン語・フランス語・スペイン語に通じ、文学・芸術への造詣の深い才媛としてヨーロッパで有名であった。

しかしフォンテーヌブローで家臣のモナルジテ(イタリア語版)を殺させたことについては、「王位を賭して自身の哲学を実践しながら、この残忍かつ破廉恥な行為で、せっかくの哲学を台無しにしてしまった」と非難をしている(『ルイ14世の世紀』より)。

また、クリスティーナはフランスの哲学者であり数学者ルネ・デカルトに心酔し、1649年の年始より3度に渡り親書を送り、同年4月にはスウェーデン海軍提督に軍艦をもって迎え行かせ、10月にデカルトはストックホルムを訪れている。クリスティーナは政務の傍ら1650年1月より早朝5時からデカルトの講義を受けて師事した。しかしながら、デカルトは当時53歳と当時としては高齢であり、フランスでは朝寝の習慣があったため、彼には辛い日々であったとされる。真冬のスウェーデンの厳寒さと無理がたたり、クリスティーナへの講義を始めた翌月2月、デカルトは風邪をこじらせて肺炎を併発し、結果的に死去させてしまった。

Queen Christina of Sweden (left) and René Descartes (right). detail

イギリスの歴史家ヴェロニカ・ウェッジウッド(英語版)は即位直後のクリスティーナを「名ばかりの人ではないにしろ、媚びへつらいに甘く、騙されやすかったが、強情でかつ知性をもった若人だった。あの高名な父の娘として、彼女は状況に対処する勇気を持ち、(彼女の老臣たちより)もっと大胆に、あっさりと、父の政策のセンチメンタルな墨守を放棄することができた」と評している。

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クリスティーナが生まれた際、男児誕生の一時誤報が流れたこともあり、両性具有であったとされる説も支持されていたが、1943年に石棺を移動して開き、銀の仮面と王冠は発見され、プロケード地の埋葬服はほとんどなくなっていた。1965年12月の再調査によると遺体は明らかに女性のものであり、この説はクリスティーナが深い声の持ち主で男性用の靴を愛用していたこと、また結婚にあまり興味がなかったことによる根拠のない噂話に過ぎないと判断された。

幼少の頃から美しいドレスやリボン等の装飾品や着飾ることに関心がなく、洋服へのインクの付着やほつれを注意されると「そういうことは他にすることが無い者に言えば良い」と答え、頓着がなかった。

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クリスティーナ女王は、父グスタフ・アドルフの「古ゴート主義」(ゴート起源説)に則り、称号を「スヴェーア人、ゴート人、ヴァンダル人の王」(Suecorum, Gothorum, Vandalomque reginam)としていたが、三十年戦争終結時にこれを自ら放棄した。

なお「フィンランド大公」の方は「スウェーデン王」と一体不可分の称号なため、退位するまでこれを兼ねていたと考えられる。

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戯曲・映画

* 『クリスティーナ』 スウェーデン人の作家ストリンドベリの作品で、クリスティーナ女王を題材とした戯曲。

* 『クリスチナ女王』 1933年の長編映画。配給は MGM。スウェーデン出身のハリウッド女優グレタ・ガルボがクリスティーナ女王を演じた。

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