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大戦前夜1911年のハシェクが1620年の白山の戦いを語る:30年戦争とその後のボヘミア。

2021年1月1日 金曜日 雪


ヤロスラフ・ハシェク 『法の枠内における穏健なる進歩の党の政治的・社会的歴史』栗栖継訳(邦題: プラハ冗談党レポート)トランスビュー発行 2012年 (原著は、1911年頃に書かれ、紆余曲折の末1963年に出版された。当・栗栖訳は1982年版を底本とした、世界初の外国語の完訳、訳者の栗栖氏はなんと九十八歳、本訳書の完成を見ることができず2009年没。)

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補註: 菊池良生 戦うハプスブルク家 講談社現代新書 1995年 に概説されているボヘミヤ王国の記載もご参照ください。

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・・編集局に出勤したところ、私を待っていたのは党の幹部たちだった。あたかも、かつてチェコの貴族(=等族)たちがプラハ城で、マルティネツとスラヴァタを待っていたようにである。(ハシェク、同訳書、p425)(補註、1618年5月23日のデフェネストラツェ=窓からの投げ落とし。30年戦争の発端の事件。この後、白山の戦いへと続く。)

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Hinrichtung der böhmischen Rebellen auf dem Prager Altstädter Ring 1621, zeitgenössischer Holzschnitt


・・モラヴィアはもう何もかも知っているのさ。

・・モラヴィア人たちはフヴェズダの戦いで戦死しているではありませんか。

・・そいつは初耳だ。あなたはご存じないのですか。これが禁句だということを? どうです、みなさん、フェルディナント皇帝は立派なおかたじゃありませんか」

「もちろん、そうさ」私は真顔で行った。「1620年の反乱を蝮の頭を踏み潰すように鎮圧したのだもの、・・」

「でもね、旧広場であんなにも多くのチェコ人貴族(=等族)を処刑したではありませんか」

・・・・「プラハの王宮の窓から総督たちを投げ落とし、あまつさえ自国の王を退位させて、異国の王をチェコに招き入れ、自国の王の率いる二万人もの兵士を戦死させた叛徒たちに対する刑としては、軽すぎるのですよ。(補註#)」(ハシェク、同書、p52-53)


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補註: 「法の枠内における穏健なる進歩の党」が活躍したのは1911年の総選挙の折。ハシェク(1883−1923)は、当時〜28歳。

補註: フヴェズダの戦い = 白山の戦い

プラハのビーラー・ホラ(白山)にある城館のほとりで、1620年11月8日の戦い。普通「ビーラー・ホラ(白山)の戦い」と称せられている。ビーラー・ホラは白い山という意味だが、プラハ市内西部の小高いところにすぎない。フヴェズダはチェコ語で「星」のこと。

敗北した27名の貴族(等族)は、見せしめのためプラハの旧市広場で絞首刑に処せられた。(栗栖、同訳書、注釈、p55)

補註# ハシェクが「自国の王の率いる二万人もの兵士を戦死させた」といっているのは、歴史的には正しくなさそう。ただし、ハシェクは細かい数字には全くこだわらなかったようだ。ウィキペディアによると・・・

「実際の戦闘は1時間続いたにすぎず、それでボヘミア側は疲弊した。ボヘミア側が4000人を失ったのに対し、カトリック側は概算で800人を失っただけだった。」(<以上、ウィキペディアより引用終わり>)


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Memorial on Bílá hora commemorating the Battle of White Mountain in 1620. The memorial has been created in 1920.


補註: カフカもハシェクの演説を聴いて笑った、とL氏から習っている。

カフカはチェコ語も習っていて、大戦後チェコ共和国治下となっても馘首されなかった、とのこと。ウィキペディアによると・・・カフカの民族性の項には以下のような記載がある:<以下引用>


カフカが生涯を送ったプラハはチェコ人、ドイツ人、ユダヤ人の三民族が混在しており、その内の大多数はチェコ語を話すチェコ人であった。少数派のユダヤ人は、その多くがドイツ語を話したが、1900年時点の統計ではプラハの全人口45万人の内、ドイツ人、及びユダヤ人のドイツ語人口は3万4000人に過ぎなかった[63]。そしてドイツ文化に同化していたユダヤ人はドイツ人と共にドイツ文化圏の一員と見なされており、チェコ人の側から見れば両者はほとんど区別されなかった[64]。この様な中でカフカは自分をドイツの文化にもユダヤの文化[注釈 22]にも馴染めない「半ドイツ人」と見なし、他所者の様に感じていた[66]。カフカの学生時代からの友人であるフーゴ・ベルクマン、マックス・ブロートは早くからシオニズムに傾き、彼等との関係からカフカもプラハのシオニスト達との付き合いがあったが、しかしその活動自体には、あまり関心を持たなかった。1909年からプラハでシオニズムの講演を行なっていたマルティン・ブーバーと知り合い、その後もしばしば会っているが、カフカはブーバーの著作はあまり評価していない[67]。カフカが民族性の意識に目覚めるのは、1911年秋に当時プラハで公演していたイディッシュ語劇団と出会ってからである。カフカはこの時、初めて生きたユダヤ性に出会ったと感じ、劇団の主催者イツァーク・レーヴィとの付き合いに熱中し、彼らの活動を擁護する為に友人達に働きかけ、翌1912年2月18日には学生組織の主催で「ジャルゴンについて」と題する講演を行なった[68]。彼等との付き合いに触発され、この時期よりカフカはハインリヒ・グレーツ『ユダヤ人の歴史』や、マイヤー・ピネ『ユダヤ系ドイツ文学の歴史』といった書物を求めて熱心に読む様になり[69]、シオニズムの週刊誌『自衛』を購読し始めた(1917年から定期購読)[70]。1917年に喀血してからはヘブライ語の学習に身を入れる様になり、1922年にはフーゴ・ベルクマンの斡旋でプーア・ベン=トゥイムというイスラエル出身の女学生がカフカにイスラエル語(現代ヘブライ語)の家庭教師をしている。ベルクマンの誘いもあり、1923年にはパレスチナへの移住も計画していたが、病身の為、実現しなかった[71]。<以上、ウィキペディアより部分引用終わり>

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彼(=カフカ)はまたヤロスラフ・ハシェクの有名な選挙演説会にも出席していたが、その時のテーマは「選挙、政治的状況、ダーウィニズム、売春、ブルガリア王フェルディナント・コーブルク」という題で、これは「順法穏健進歩政党」(=本書の「法の枠内おにおける穏健なる進歩の党」)によって召集されたものであった。・・」「・・けれどもあの時カフカは、この柔和な微笑をたたえ、自分の内に引きこもりがちな男は明るく心から笑ったのだった。彼(=カフカ)が笑ったのを見たのはこの時だけだった。カフェ・エディソンでカフカはまだニヤニヤ笑いながらこの時の有様をフランツ・ヴェルフェルに話し、さらに親友マックス・ブロートにも聞かせてやった。・・」(ミハイル・マレシュより、本栗栖訳のハシェク本p456-457より、孫引き引用)

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ハシェクの出版人シネクが語ってくれたところではーー彼(=シネク)が『シュヴェイク』のドイツ語翻訳者を探していた時、著者(ハシェク?)の勧めででカフカにも声をかけたが成功しなかった・・とのこと。今回紹介した栗栖訳のハシェク本p456より引用)

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プラハのカフカの生家。現在は1階に小規模のカフカ博物館がある。

補註: カフカの生まれたのが1883年ということなので、ハシェクと同年齢。同じプラハの町で生きていたこと、そして二人の暮らしも運命もなんとなく交差していることに想いを馳せている。

カフカが1915年3月から部屋を借りていた「金のカワカマス館」。1917年まで、ここで一人で住んだが、現存するカフカの作品の内、この部屋で書かれたものはほとんどない。


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補註: プラハは第二次大戦でもほとんど戦災にあっていないので、旧い店や建物がよく残っている(本書、p458)とのこと。私が訪れたのはすでに35年も前の共産主義政権の時代であったが、さて、もう一度現地を訪れる機会があるだろうか。もしそんな機会があったとしたなら、いのちなりけりと懐(おもい)ながらあのヴルタヴァ川のカレル橋の上に佇んでみたいと思う。

カレル橋。

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 ・・プラハの旧市街広場に、かつて聖母マリアの像があった。その像は、ビーラー・ホラ(白い山)の戦いの後のチェコの貴族たちの処刑場(旧市街庁舎の脇。死刑執行は1621年)の真向かいに立っていた。そこに建設されたのはまさに、フェルディナント二世が神の援助により、かくも多くの反逆者(補註:27人)の首をはねさせたことを記憶させるためだった。  何世紀も後になり、フェルディナントの子孫たちはわが国チェコにおいてなんらなすことなし、という意見に達した時、この不幸な像も問題になった。(ハシェク、「神さまについての話」、p223、ハシェク短編集「不埒な人たち」飯島周編訳・平凡社ライブラリー903、2020年)

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