読書ノート

エドワード3世vsフィリップ6世:第二次英仏百年戦争

2021年3月30日 火曜日 曇り

百年来の因縁を背負ながら、若きイングランド王が取るべき選択肢は限られていた。・・1337年10月7日、エドワード3世はウェストミンスターで宣言した。フィリップ6世(ヴァロワ伯→フランス王;ヴァロア朝)に捧げた臣下の礼を撤回すると。我こそは正統なるフランス王であると。「フランス王を自称する伯の息子」にすぎないフィリップ6世には、11月1日付けで挑戦状を送りつけ、文字通りに宣戦を布告している。(佐藤賢一、英仏百年戦争、集英社新書、p64)

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 ・・イングランドは「フランス人」に征服された国だった。国中の領主貴族を、ほとんど総入れ替えするという、征服公ギョームの徹底した仕事によって、この王国には日本人の感覚にいう「外様」がいなかった。イングランドでは圧倒的に王の力が強いのだ。  ために「フランス人」の王は留守がちでも、きちんと海の向こうの王国を保持することができた。のみならず、王の不在が長引いたため、プランタジネット朝の時代にかけては、司法、行政、財政と君主個人の力量に寄らない国家システムも発展した。(佐藤賢一、同書、p67)

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 貫かれた騎士の美学・・捕虜になったフランス王・騎士王(最後の中世人)ジャン二世・・歴史的な大敗:ポワティエの戦い1356年(vs黒太子エドワード)

・・中世の王侯貴族には戦争そのものが、ほとんどスポーツ感覚だったといえば、この不可解な気軽さも理解しやすくなるだろうか。・・実際のところ、この時代の捕虜には過酷な監禁生活など無縁であり、それどころか客分としての優雅な屋敷暮らしが保証されていた。ここぞと華の騎士道が、ものをいったからである。(同書、p86)

有給制の導入で軍資金が膨張(同書、p98)

王国全土を等しく破壊と略奪の恐怖に陥れていたのは、解雇された傭兵隊の跳梁跋扈のほうだった。(同書、p87)

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 ・・王太子シャルル(ジャン二世の子、のちのシャルル5世)は三部会が使えることを発見していた。のみならず、そうした態度からは前衛的な発想の転換さえ読み取ることができる。・・・(中略)・・・無数の領地の集合体でなく、ひとつの国家としてのフランスを意識し始めていたのだ。(同書、p94)

 ・・ジャン二世の莫大な身代金こそ、改革の好機を提供するものだった。古来、国王は自らが捕虜に取られたとき、長女が結婚するとき、長男が騎士叙任を受けるとき、自ら十字軍に参加するときと、この四要件のために必要とする金子にかぎっては、課税を許されていたからである。(佐藤、同書、p99)

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 「税金の父」シャルル5世

かねて傭兵隊には休戦期に盗賊化するという難があった。それなら解雇しなければよいと、フランス王は常備軍の設置に取り組んだのだ。・・先の税政改革が常備軍の設置を可能としていた。全軍の核となるべき精鋭として、シャルル5世は2,400人の重装騎兵、600人の弩騎兵、400人の弩歩兵だけは常雇いにできたのである。・・かかる発想で軍制改革が行われ、すでにフランス王軍そのものが、生まれ変わっていたというわけである。(同書、p112)

 ・・フランス各地で重税反対の一揆が頻発するのも、この頃からの話である。1380年9月16日、フランス王シャルル5世は危篤の床で直接税の廃止を決めて、その治世に幕を下ろした。維持費が嵩みすぎるとして、ほどなく常備軍も解散された。かたわらで、ブルターニュ公ジャン4世の地位を認める第二次ゲランド条約が結ばれたのは、1381年4月4日のことだった。(同書、p116)

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