culture & history

ヴァザ家がポーランド王として君臨した1587ー1672年は、スウェーデン・ポーランド両国の間で戦が絶えない時代であった。

2021年1月10日 日曜日 曇り

渡辺克義 物語ポーランドの歴史 東欧の「大国」の苦難と再生 中公新書2445 2017年

バルト海をめぐる攻防  スウェーデンのヴァザ家がポーランド王として君臨した1587ー1672年は、スウェーデン・ポーランド両国の間で戦が絶えない時代であった。  ポーランドはスウェーデンから玉座を奪回したいと願い、一方のスウェーデンはバルト海の支配を固めることを望んだ。(渡辺、同書、p25)

補註: 上記の新書では、上記の記載の意味がよくわからず、ウィキペディアの記載を参照してみることにより、ようやく要領を得ることができた。

<以下引用>

**

ヴァーサ王朝は、スウェーデン王国(1523年 – 1654年)、およびポーランド・リトアニア共和国(1587年 – 1668年)の王朝。一時はロシア・ツァーリ国も支配した(1610年 – 1613年)


*********************************


以下はウィキペディアのカール9世の解説から引用:

カール9世:

カール9世(Karl IX,1550年10月4日 – 1611年10月30日)は、ヴァーサ王朝のスウェーデン国王(在位:1604年 – 1611年)。1599年から1604年まで摂政。グスタフ1世と2度目の妃マルガレータの子。


ヨハン3世時代: (カール9世の)同母兄ヨハンによる異母兄のスウェーデン王エリク14世廃位に協力した事で、ヨハン3世により(カール9世は)セーデルマンランド公爵に取り立てられた。ヨハン3世がスウェーデンを統治した最中、ポーランド王国との同盟を画策し、ポーランドのヤギェウォ家と婚姻を結んだ事で、1566年に誕生したヨハン3世の子シギスムンドは、1587年にポーランド王ジグムント3世として即位する。シギスムンドはカトリックに改宗しており、プロテスタント国家であるスウェーデンとは相容れず、スウェーデンの王位継承問題にも影を落とすようになった。そうした中でカール(後のカール9世)はプロテスタントであり、スウェーデンの反カトリック勢力の希望の星とされた。しかしヨハン3世とは良好な間柄であった。(補註: カール9世の兄ヨハン3世の子のシギスムンド(カールの甥)が1587年にポーランド王ジグムント3世となった。よって、グスタフ2世アドルフはポーランド王ジグムント3世の従兄弟に当たる。)


シギスムンド時代: 1592年にヨハン3世が死去すると、ポーランド王ジグムント3世となっていたシギスムンドはスウェーデン王位を継承した。しかしシギスムンドは、カトリックであり、また、ポーランドを主軸としていた為、叔父であるカールがスウェーデンの執政となった。しかし、スウェーデンではカトリックに改宗したシギスムンドに反感を強め、反カトリック勢力のリーダーとしてカールが祭り上げられる事になった。そしてカールはスウェーデン国王の代行として事実上のスウェーデン統治者となり、カトリック教会と絶縁を宣言するのである。シギスムンドは一旦はこれを認めたものの、両者の対立は避けられぬものとなり、1598年、シギスムンドはスウェーデンに上陸し、カールの統治権を剥奪した。ここに至りカールは反乱軍を組織し、ストックホルム南方リンシェーピングで両者は開戦した。結果、カールはシギスムンドを破り、スウェーデンから追放してスウェーデン王位を剥奪した。翌1599年、カールはスウェーデンの摂政に任命されたが、事実上のスウェーデンの君主となった。対外的には、1590年からのロシア・スウェーデン戦争に敗れ、1595年にリヴォニア戦争で得たエストニア以外の獲得地をロシアに返還する事となった。こうした事は、ポーランドとスウェーデンとの分裂の間隙をロシア側から突かれた結果であり、カールは後に国王となると、再びバルト地方やロシア方面への勢力の伸張を図る事となる。


国王時代:1600年、シギスムンドに協力した勢力に対し粛清(リンシェーピングの血浴)を行い、カトリック勢力を一掃した。そしてスウェーデンはルター派を国教と定め、ヴァーサ朝によるスウェーデンの統治権を確立する。国内の問題を解決したカールは、1604年、シギスムンドの異母弟フィンランド公ヨハンと協定を結び王位継承を辞退させたうえで、兄ヨハン3世と同じ様にスウェーデン王位の簒奪によって即位した。なお、カールが9世として即位したのはスウェーデンの伝承・「ゴート起源説」の正当化の為である。8世以前には明確なスウェーデン王カールが存在していた訳ではない。いずれにしろスウェーデン政府は、諸々の正当化を行いつつも結果として独立を維持することとなった。


・・・(中略)・・・

スウェーデン王となったカール9世であったが、その治世はままならなかった。国王自身が病に冒され、近隣のロシア、ポーランド、デンマークとも対立の極みにあった。ロシアは内戦となり、デンマークはスウェーデンの独立を認めず、ポーランド王家はスウェーデン王位を主張し続けていた。カール9世はスウェーデンを大国化させる事に腐心したが、ポーランドとの戦いでは惨敗を喫した(1605年、リヴォニア侵攻)。スウェーデンの財政は厳しく、軍事力も弱体化していたのである。諸問題を抱える中で、カール9世は幼きグスタフ・アドルフに強い期待を抱き、帝王教育を施し、10歳にして国政に参画させた。カール9世は晩年にロシアの内戦(大動乱)にスウェーデンを参戦させる中で没し、すでにスウェーデン軍を率いていたグスタフ・アドルフが17歳で王位を継承した。


*********************************

Attributed to Jacob Hoefnagel – Gustavus Adolphus, King of Sweden 1611-1632 – Google Art Project


グスタフ2世アドルフ:グスタフ2世アドルフ(スウェーデン語: Gustav II Adolf, 1594年12月9日(グレゴリオ暦12月19日) – 1632年11月6日(グレゴリオ暦11月16日))は、ヴァーサ朝第6代国王(在位:1611年 – 1632年)。グスタフ・アドルフとも呼ばれる。  スウェーデン王カール9世と2度目の王妃クリスティーナの息子。娘は後のスウェーデン女王クリスティーナ。グスタフ2世アドルフの時代からおよそ1世紀の間のスウェーデンは、「バルト帝国時代」と呼称されている。
*********************************

*********************************


以下は、ヴァーサ王朝 ウィキペディアの記載より引用:


ヴァーサ家は元はウップランド地方の貴族階級で、15世紀に高官級に出世した。

スウェーデン:スウェーデン王国においてグスタフ・ヴァーサは、14世紀末のカルマル同盟以来120年続いたデンマーク王権の支配に叛旗を翻し、スウェーデンを独立に導いてヴァーサ王朝を興した。その後も北方七年戦争などデンマークとの戦争が続いたが、デンマークがスウェーデンを奪回することはできなかった。1558年に開始されたリヴォニア戦争では、デンマーク=ノルウェーとドイツ騎士団のリヴォニア帯剣騎士団と結んでモスクワ大公国(ロシア・ツァーリ国)のバルト海進出を阻んだ。この時、ヴァーサ家とヤギェウォ家との婚姻によってヴァーサ家はポーランド・リトアニア共和国の王朝に迎え入れられたが、両国の宗教的不一致のため、ヴァーサ家は17世紀半ばまで内紛と抗争を繰り返すこととなった。

第3代ヨハン3世の息子シギスムンドは母親カタジナ・ヤギェロンカがポーランド王女であったため、幼くしてポーランドに送られイエズス会によって教育を施され、ヤギェウォ朝の断絶後に国王自由選挙によってポーランド・リトアニア共和国の元首(ポーランド国王兼リトアニア大公)に推戴され、ジグムント3世(ポーランド王としての名)として即位した。ヨハン3世の死後、ジグムント3世はスウェーデンに帰国し、ポーランド王を兼ねたままシギスムントとしてスウェーデン王位に即位した。シギスムントが不在の間は、叔父のカール(補註:後のカール9世)が摂政としてスウェーデンを統治した。

当時スウェーデンでは新教ルター派が広まっていた。一方、ポーランドはプロテスタントや正教徒もかなりいたものの、政治の場では相対的にカトリック教会が優位の国であった。教会の浄化と刷新を目指してカトリック改革運動をもっとも強力に推し進めるイエズス会に育てられたジグムント3世(シギスムント)は、スウェーデンをカトリックに戻すことを図った(1595年に共和国はプロテスタント信仰を禁じた)。このため、叔父カールらはジグムント3世に対する反感を強め、彼がポーランドに戻るとプロテスタント系のスウェーデン諸侯を糾合して、すぐさま反乱を起こした。

シギスムンドはカトリック系のスウェーデン諸侯とともに、こうした動機の遠征には乗り気でないポーランド議会(セイム)軍を率いて反乱討伐に再来したが敗退し、叛乱者カール(カール9世)が事実上のスウェーデン王となった(1604年に正式に即位)。

1600年にはカトリック系スウェーデン諸侯を粛清し、ルター派の国教を確立したことで、ジグムント3世との対立は決定的となった。

摂政カールの行為は、ポーランド・ヴァーサ家においては謀反であったが、スウェーデンからしてみれば、1593年のウプサラ宗教会議の決議違反を根拠とし、スウェーデンの宗教改革の一端であり、ルター派国家としての独立を願うスウェーデン人にとって、ジグムント3世の政策は受け入れられなかったのである。

また、独立を維持するためにスウェーデン人自身による四身分制議会(貴族・聖職者・市民・農民)の権威もこの時代に確立することとなる。これは、スウェーデンの王権を支えるものとなった。

この争いのため、スウェーデンとポーランドのヴァーサ家の間で反目が続き、17世紀にはスウェーデン軍がポーランド領であったリヴォニア方面に侵攻し、リガの町を落とした(スウェーデン・ポーランド戦争)。1626年には東プロイセンを制圧したが、一方、ポーランドはスタニスワフ・コニェツポルスキ将軍を登用し、戦争後期はポーランドが巻き返して戦争自体においては優位を取り戻したものの、フランスの介入によりスウェーデンがきわどく勝利した。ポーランド征服には挫折したものの、スウェーデンは事実上、東欧の大国ポーランド・リトアニア共和国からリヴォニアの大半を奪うことに成功し(1660年に正式認定)、スウェーデン領リヴォニア(英語版)として実効支配が行われた。この戦争を指導したグスタフ2世アドルフは、ヨーロッパ諸国から「北方の獅子」として知られるようになった。領土を割譲した上、グスタフ2世アドルフによってバルト海を制覇されてしまったことで、ポーランド・ヴァーサ家は名目上スウェーデン王を自称出来ても、実質的な王位の請求は断念せざるを得なくなった。

三十年戦争への出陣

グスタフ2世アドルフは三十年戦争にも介入し、ドイツでプロテスタントの盟主として、カトリックの盟主ハプスブルク家(神聖ローマ皇帝)と戦い(古ゴート主義の理念の拡大による)、フランス(補註:当時はカトリックの国であることに注意)と連携しつつハプスブルク家を追い詰めて行った。

リュッツェンの戦いでの戦死

グスタフ2世アドルフ自身はリュッツェンの戦いで戦死したが、フランスの直接介入もあって、スウェーデン軍はその後もドイツで戦いを続けた。ヴェストファーレン条約でスウェーデンは北ドイツに広大な領土を獲得、一躍北方の大国となり、ヨーロッパでの強国の一つにのし上がった(バルト帝国)。さらに北欧での宿敵関係にあったデンマークとも、三十年戦争後期にトルステンソン戦争を行い、オランダと結びデンマークを撃破した。この勝利によってスウェーデンは、北欧での覇権も打ち立てることに成功した。

しかし、クリスティーナ女王は個人的な理由から退位し、その従兄でプファルツ系ヴィッテルスバッハ家傍系のカール・グスタフ(カール10世)が即位したため、スウェーデンのヴァーサ王家は断絶し、プファルツ王朝に代わった。

プファルツ=クレーブルク家出身のカール・グスタフは、スウェーデン・ヴァーサ家の外戚であり、グスタフ・アドルフの異母姉の子であった。カール10世は王位継承を巡り、即位翌年の1655年にポーランド・リトアニア共和国と戦端を開き、その死まで戦場下にあった(北方戦争)。カール10世は、共和国には軍事的敗北を喫したものの、バルト海での優位を保ち、1660年にポーランド・ヴァーサ家のスウェーデン王位請求権を完全に放棄させると共に、自家をスウェーデンの王家として認めさせることに成功した。<以上、ウィキペディア「ヴァーサ王朝」より引用終わり>

**

補註: ヴァーサ王朝やジグムント3世の記載に関しては、新書などの記載よりもウィキペディアの記載の方がずっと詳しく、公式見解ないし定説に関する情報集めに関してはすでにウィキペディアの時代に移り変わりつつあるのを実感した。CDを集めるよりも、ユーチューブで聴くのが主流になっている現在、驚くほどのことではないのかもしれない。とはいうものの、非公式見解・非定説がどの程度バランスよく紹介されているかに関しては、難しく、やはり、あくまで参考として「ウィキペディアによると・・・」という保留付きで知っておくという姿勢が望まれる。

*****

以下もウィキペディア「ヴァーサ王朝」からの引用:

*****


*********************************

Sigismund III of Poland-Lithuania and Sweden (Martin Kober)

ポーランド・リトアニア共和国:詳細は「スウェーデン・ポーランド戦争」を参照

スウェーデン王国とポーランド・リトアニア共和国(補註:共和国とあるものの、現在の「共和国」とは意味合いが異なる。)は1563年から約300年の間戦争をする。

ポーランド・リトアニア共和国にて内戦時代の遠因は、ジグムント3世とイエズス会がロシアやバルト海域の征服事業を計画したこととされる。

ヴァーサ朝時代、当初はポーランドのヴァーサ家が連合国家の盟主として優位に立っていた。

ところがカトリックとプロテスタントの間の問題を軽視してジグムント3世が強行したスウェーデン、ポーランド・リトアニア共和国の大連邦構想は、スウェーデン国内のプロテスタント叛乱によって覆された。征服に成功したモスクワ大公国で宰相と大元帥兼任のスタニスワフ・ジュウキェフスキ率いるポーランド議会の反対を押し切り「モスクワ大公(ツァーリ)はカトリック教徒に限る」と布告をジグムント3世を出しロシア人と対立した。ポーランド議会軍が撤退した後、治安維持としてモスクワ市内に取り残されたポーランド国王軍が、モスクワの大叛乱によって籠城の末に玉砕、ポーランド・リトアニア・モスクワ共和国という大連邦構想も頓挫した(動乱時代)。

ジグムント3世(モスクワ大公国の征服に成功した)。
一時はロシア・ツァーリ国も支配した(1610年 – 1613年)

当初は平和で繁栄した国家連合の要になるであろうと考えられた、ヴァーサ家の人物を君主に担いだポーランド・リトアニア共和国は繁栄を失った。

議会制度は、貴族文化を基盤とする連帯感による統一によって成り立っていた。しかしヴワディスワフ4世の時代にあっては、共和国が巨大化し、新しい文化的背景を持つ勢力を取り込んだ。セイムの自由拒否権(リベルム・ヴェト)の濫用はヴァーサ王朝以前ではありえず、拒否権の行使は健全な議会制度の発展を阻害して行くこととなり、一定の王権に基づき議会と折衝して国家を統治してきた君主制との対立を招くことにも繋がった。ヴワディスワフ4世は、一部のマグナートと組んで王権強化を試みたが、セイムによって拒絶された。こうした政治的対立は、ヴァーサ王朝以後も継続し、共和国衰退の一原因となって行った。

宗教的にもポーランド・リトアニア共和国は、長らく宗教的寛容の時代にあったが、イエズス会との関わりから対抗宗教改革の流れに逆らえず、次第に宗教的不寛容の時代へとなって行った。

ポーランド・リトアニア共和国はスウェーデン・モスクワ両国との度重なる戦争で国家の経済が疲弊しており、ジグムント3世による征服戦争の債務返済の負担と穀物の国際相場が大きく下落したためにデフレが起こった。デフレの退治とヴァーサ家の破産回避のためにヤン2世は、ボラティーニという人物が鋳造したことから「ボラティンカ・クラウン」というあだ名を持つクラウン銀貨の大量発行に踏み切った。この超緩和的な金融政策(現在で言う量的緩和政策)により名目物価は上昇し、マイルドなインフレが起こって、名目上のデフレは退治され、表面的な経済成長は達成された。しかし、そのおかげで名目賃金が維持された一方で、低下する実質賃金との差が拡大し、農民や小地主は生活のために借金を重ねざるを得なくなった。再版農奴制により、農地を手放し安く買い取る大貴族による農地の寡占化が進み、農民の多くは大貴族に低賃金で雇われ共和国内の多くの地域が中世の農奴制のような状態に戻った。

当時、領地を手放し無産者になった者、かつ当時オスマン帝国領となっていたクリミア・ハン国での略奪行為を禁止されたポーランド臣民のウクライナ・コサックたちが、貧窮の末にワルシャワの中央政府を相手に自治(事実上はクリミア略奪の黙認)を求めて「フメリニツキーの乱」と呼ばれる大反乱を起こした。

スウェーデンとロシアがポーランド・リトアニア共和国に侵攻した。さらには、ポーランド伝統の自由主義的な政治制度に付随した欠陥(特に自由拒否権)を、近隣諸国の勢力と結託して悪用する者が現れ、彼らも外国勢力にそそのかされて、ワルシャワの中央政府に対し反乱を起こした。

これらによりポーランド・リトアニア共和国は内戦と対外戦争が重なった「大洪水時代」と呼ばれる戦国時代となった。この大洪水時代のうち、スウェーデンとの戦争を北方戦争と呼ぶ。経済政策に大失敗して国民の信頼を完全に失ったヤン2世は廃位させられ、ポーランド・ヴァーサ家は断絶し、ヤン2世はフランスで修道士となった。

たび重なる大戦争によりポーランド・リトアニア共和国は、その後のヤン・ソビェスキの中興にもかかわらず、これら一連の流れを押し止めることが出来ず、18世紀末の滅亡へ向かって本格的な衰退の時代に入った。

*****

*********************************

RELATED POST