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自分の約束は守らないチェーザレが、他人なら約束を守ってくれると考えた。つまり、致命的な過ちを犯した。

2025年4月25日 金曜日 雨(凍えるほどだ。寒い。)

サマセット・モーム 天野隆司訳 昔も今も ちくま文庫 2011年(オリジナルは1946年5月刊)

そしてボルジア家の宿敵ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ枢機卿が法王の座に座り、ジュリオ二世になった。ヴァレンティーノ公が握っていた枢機卿の票を獲得するために、ローヴェレ枢機卿はチェーザレに、教会軍総司令官に再任することを約束し、所領の安堵も確約していた。自分の約束は守らないチェーザレが、他人なら約束を守ってくれると考えた。つまり、致命的な過ちを犯した。ジュリオ二世は復讐心に燃えていた。狡猾で残忍、無慈悲、無節操な男だった。法王の座につくと、まもなく口実を見つけて公爵を逮捕させ、彼の指揮官たちが依然として確保しているロマーニャの都市や町を降伏させろと強要した。そして降伏が完了すると、公爵にナポリへの逃亡を許可した。しかしその地へ行ったチェーザレは、フェルナンド王の命令でふたたび逮捕・投獄され、すぐにスペインへ送られた。・・・以下略・・・(同訳書、p345-346)

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補註: ウィキペディアによると・・

チェーザレは灰色の目及びオレンジ色の髪の毛を持つ大変な美男子だったといわれ、後にマキャヴェッリも「容姿ことのほか美しく堂々とし、武器を取れば勇猛果敢であった」とチェーザレの印象を書き残している。

補註: ウィキペディアによると・・・

マジョーネの乱

1502年10月、チェーザレ軍の内部の傭兵隊長(コンドッティエーレ)らがチェーザレに対して反旗を翻した。

グイチャルディーニは反乱が起こった理由について、「(反乱者は)チェーザレの際限のない支配欲を恐れ、反乱者達の領土が全て教会領に属することから、将来チェーザレから攻撃される可能性を恐れたため」としている。

反乱軍(「マジョーネ連合」)はウルビーノで決起して、旧ウルビーノ公国領土を制圧した。更にベンティヴォーリオ率いるボローニャが反乱に呼応して、チェーザレが滞在するイーモラへ向けて進軍した。反乱軍が制圧したウルビーノでグイドバルドが、カメリーノでジャンマリーノがそれぞれ当主に復帰した。10月17日にフォッソンブローネでオルシーニ軍がチェーザレ軍を打ち破り、チェーザレ軍のミケロット・コレッラ英語版)は敗走、ウーゴ・ディ・カルドナスペイン語版)は捕虜となった。

当初の戦局を優位に進めた反乱軍であったが、反チェーザレを標榜した反乱軍内部の意思疎通は欠けていた。ヴィテロッツォやオルシーニ党がチェーザレ軍に属した時期にフィレンツェを攻撃した件をフランス王から弁明を求められたにも拘らずこれを黙殺したことから、フランスはチェーザレ側へと組した。また、その他の周辺の諸国(フィレンツェ等)からもチェーザレが暗黙の支持を取り付けたことや軍事面での増強を進めたことに加えて、教皇軍最高司令官としてアレクサンデル6世の威光をバックとしていることもあって、反乱軍の一部は独自でチェーザレとの和睦交渉を行った。まとまった和睦内容を巡って、ヴィテロッツォらとパオロ・オルシーニらが激しく対立し、オルシーニ一族らが個別にチェーザレとの和睦に調印するなど、結束は崩れた。グイドバルドは再びウルビーノから亡命せざるを得なくなり、ジャンマリーノはチェーザレとの交渉によってカメリーノを退去することで合意した。ボローニャはチェーザレと個別に傭兵契約を結んだことで、反乱軍から距離を置いた。反乱から約1ヵ月後にマキャヴェッリがフィレンツェ政府に対して「チェーザレが勝利するに違いないと考えている」との内容の書簡を送っており、チェーザレ優位に事態は進みつつあった。

1502年12月26日、チェーザレの側近としてロマーニャ公国内の内政を任されていたラミーロ・デ・ロルカスペイン語版)の真っ二つに斬られた遺体が、チェゼーナの広場で発見された。この事件について、マキャヴェッリは「ロルカの冷酷な統治によって領内の民衆が反感を抱いていたのをチェーザレが察知し、冷酷な統治はチェーザレの施策ではなく、ロルカの人間性によるものと思わせるために行った」と論じている。

シニガッリア事件

1502年12月31日、チェーザレは反乱側の5人のコンドッティエーレから、反乱軍が既に制圧していたシニガッリア(Sinigaglia、現:セニガッリア)で交渉を持ちかけられ、チェーザレおよび病を理由に欠席したバリオーニ以外の4人のコンドッティエーレが、シニガッリアへ軍を率いて集合した。チェーザレは穏和な態度で4人と相対して油断させ、4人が自軍から離れてシニガッリアの城内に入ったところを、ミケロットらに命じて捕縛させた。これと同時に、4人が率いた軍をチェーザレは攻撃して、これらを壊走させた。

尋問の後にヴィテロッツォ及びオリヴェロットはそれぞれ「教皇に自らの罪業の大赦を願いたい」「ヴァレンティーノ公に反逆したのはヴィテロッツォが唆したためである」の言葉を残し、反逆罪によってその場で処刑された。パオロ及びフランチェスコは即時に処刑はされず、ローマでチェーザレの弟ホフレらが指揮を取る教皇軍がジョヴァンニ・バッティスタ・オルシーニやフィレンツェ大司教リナルド・オルシーニイタリア語版)らを逮捕すると共にオルシーニ一党を討伐したのを聞いた後、1503年1月18日にカステッロ・デラ・ピエーヴェでパオロらを処刑した。なお、ジョヴァンニ・バッティスタは後に獄死、リナルドは釈放された。

チェーザレは1503年1月より、反乱に加担した一味の壊滅を掲げて進軍、ヴィテロッツォの本拠地チッタ・ディ・カステッロを陥落させ、チェーザレの誅殺から逃れたバリオーニの本拠地ペルージャでは反乱の失敗に絶望したバリオーニが逃走して、ペルージャはチェーザレへの降伏を願い出た。更にシエナもチェーザレの圧力に屈して、パンドルフォ・ペトゥルッチはフランスへと落ち延びていった(ペトゥルッチはルイ12世の干渉により1503年3月にシエナのシニョリーアへ復帰した)。バリオーニやグイドバルドもフランスへ逃れた。なお、フェルモはチェーザレの攻撃に晒されなかった。その後、ローマへ進軍してオルシーニ党の勢力を攻撃したが、フランス寄りのオルシーニ家の処遇を巡ってチェーザレはフランスと対立、その後の暗転へつながることとなった。

(中略)

アレクサンデル6世の後継教皇となったピウス3世は即位後1か月弱で死去、ピウス3世の後継となったのはかつて父と教皇の座を激しく争ったジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ(ユリウス2世)であった。その際にチェーザレは「教皇軍最高司令官」及び「ロマーニャ公」の地位の確保をユリウス2世と密約して、教皇就任を後押しした。11月、チェーザレはローマからロマーニャへの帰路についたが、密約を反故にしたユリウス2世の命によってチェーザレは捕縛され、ローマへと移送されることとなった。なお、この時のチェーザレの判断をマキャヴェッリは「誤った選択をし、チェーザレが破滅した最終的な原因となった」と記している。12月、ミケロット・コレッラ英語版)率いる軍勢がフィレンツェ共和国軍と戦ったものの敗北し、ミケロットは捕虜となった。

(中略)

レオナルド・ダ・ヴィンチは長らくにわたってルドヴィーコ・スフォルツァをパトロンとして活動していたものの、イル・モーロが没落した後の1502年8月から8か月ほどの間、建築技術監督兼軍事顧問としてチェーザレの軍と行動を共にした。レオナルドはウルビーノペーザロチェゼーナ等に滞在した後、チェーザレが本拠地としていたイーモラに入って、ロマーニャ公国の防衛体制の施策を練った。チェーザレはレオナルドを「最も親しい友人」として、ロマーニャ公国内の通行許可証を与えている。一方のレオナルドは新兵器のデッサンやイーモラでの研究結果のスケッチ画、チェーザレの肖像らしきデッサン等を残したものの、チェーザレ個人に対する評は残していない。

(中略)

ニッコロ・マキャヴェッリはフィレンツェ共和国から派遣され、チェーザレとの交渉の最前線に立ち、チェーザレの行動をつぶさに観察していた。マキャヴェッリは、チェーザレの死後、外国に蹂躙されるイタリアの回復を願い、統治者の理想像をフィレンツェのメディチ家に献言するため『君主論』を執筆した。マキャヴェッリは『君主論』の中で、「チェーザレは高邁な精神と広大な目的を抱いて達成するために自らの行動を制御しており、新たに君主になった者は見習うべき」とし、「野蛮な残酷行為や圧政より私達を救済するために神が遣わした人物であるかのように思えた」と記した。

チェーザレ・ボルジアは冷酷、残忍だと思われていたが、その冷酷さによってロマーニャに秩序を形成して、平和と忠誠をもたらす事となった。(中略)……愛情と恐怖を兼ね備えるのが最も理想的であるが、愛情は自らの利害によって簡単に破られるのに対して、恐怖は必ず降りかかる処罰の為に破られる事は無い……(後略)— マキャヴェッリ 『君主論』 第17章

上記は、マキャヴェッリによるチェーザレの評であると共に「マキャヴェリズム」を表す文章となる。チェーザレはマキャヴェリズムを具現化した代表格として位置づけられており、これがチェーザレの印象にもつながっている。

<以上、ウィキペディアより引用終わり>

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補註: チェーザレは1475年生まれなので、この小説の設定はチェーザレ27歳頃、ということになる。ちなみに、ミケランジェロも同年齢。

補註:

ウィキペディアによると・・・

マキャヴェッリの理論は「フォルトゥーナ」(Fortuna, 運命)と「ヴィルトゥ」(Virtù, 技量)という概念を用い、君主にはフォルトゥーナを引き寄せるだけのヴィルトゥが必要であると述べた。『リウィウス論』では古代ローマ史を例にとり、偉大な国家を形成するための数々の原則が打ち立てられている。全てにおいて目的と手段の分離を説いていることが著作当時において新たな点であった。共和主義者のマキャヴェッリであったが、スペインとフランスがイタリアを舞台にして戦うイタリア戦争に衝撃を受けた。彼が体験した挫折感と、独立を願って止まない情熱の存在があったからこそ、『君主論』が生まれたといわれる。マキャヴェッリは『君主論』の中で、混乱するイタリアにあって国を治めるために、自国軍創設や深謀遠慮の重要性を故事を引き合いに出して説いている。理想の君主チェーザレ・ボルジアを例示して、イタリア半島統一を実現しうる君主像を論じた。

チェーザレ・ボルジア失脚当時には、マキャヴェッリも「かつての公爵とは千年の隔たりを感じる」と冷たい評価を下しながらも、『君主論』26章では、チェーザレについて次のような言葉を残す。「今までに、ある人物の中に、神がイタリアの贖罪をあがなうよう命じられでもしたかのような、ひとすじの光が射したことがあった。だが、残念なことにこの人物は、その活動の絶頂期に運に見放されてしまったのである」。そしてそれに続く言葉は、「こうして息絶えだえのイタリアは、今自らの傷を癒してくれる人を望んでいる」であり、とどめにメディチ家に対して「今日、ご尊家がこの贖罪行動の先頭に立つ他に、イタリアの期待に応えられる人がどこにあろうか」と激励を送った。<以上、ウィキペディアより引用終わり>

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