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石原莞爾: 王道楽土五族協和の夢

2023年1月4日 水曜日

鈴木荘一 満州建国の真実 軍事の天才石原莞爾の野望と挫折 勉誠出版 2018年

陸軍四派のうち満州組: ・・対ソ戦を想定する。一国国防主義に立ち、支那とは不戦を堅持し、英米への対抗を期す。大正デモクラシーに背を向けた新興派閥。石原莞爾、板垣征四郎、多田駿など。(同書、p113)

・・満州組は・・英米への対抗を期すが、「対ソ戦を想定し、支那とは不戦を堅持する」との立場を採っている。とくに満州組のリーダー石原莞爾は支那との不戦を唱え、「日本・満州・支那の日満支三国協調による東亜連盟の構築」を企図している。その意味でリットン報告は、満州組にとっても許容範囲内にあった。(同書、p129)

少尉に任官された直後の石原莞爾と、弟の次郎。 1909年~10年ごろ http://imperialarmy.blog3.fc2.com/blog-entry-193.html

盧溝橋事件における日本陸軍の不拡大方針(同書、p158〜)

 日本陸軍中央は、(昭和十二年)七月八日未明、電報で盧溝橋事件の第一報を知ると、 一、支那との衝突を避けようとする参謀本部作戦部長石原莞爾少将ら不拡大派 二、支那を一撃して事態の解決を図ろうとする作戦課長武藤章大佐ら拡大派 が激しく対立。・・不拡大派の石原莞爾作戦部長が・・「事件の拡大を防止する為、兵力を行使することを避くべし」と不拡大を下命。(同書、p158-159)

 ・・日支紛争の拡大を憂慮した石原莞爾作戦部長は、七月十八日、  「日支戦争に突入すれば底無し沼に嵌まる。この際、北支の日本軍を満州と北支の国境である山海関まで引き下げる。近衛首相が南京へ飛び、蔣介石と日支和平を達成すべき」と意見具申申した。

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上海戦における石原莞爾の不拡大方針

 ・・船津和平工作が開始された八月九日、日支和平努力をあざ笑うように上海で、・・大山事件が発生し、上海戦(第二次上海事変)が勃発。支那事変は第二段階に入る。・・・(中略)・・・ 日本海軍は、八月十日、巡洋艦四隻・駆逐艦十六隻および海軍陸戦隊二五〇〇人を上海へ急派。海相米内光政が、同日、陸軍に派兵を要請した。  しかし陸軍参謀本部作戦部長石原莞爾は、海軍の陸軍派兵要請に対して、「上海に派兵すれば全面戦争になる。支那軍はドイツ軍事顧問団の指導を受けドイツ製武器を装備し強化されている。日本陸軍は上海・華中での作戦計画を検討したことが無い」と陸軍派兵に反対した。これに対して、作戦課長武藤章大佐は、「上海の在留邦人を保護せず、上海の在留邦人を支那兵の蹂躙に委ねるなど言語道断」と陸軍派兵を主張した。(同書、p162-163)

 ・・在留邦人を保護すべく、日本陸軍は上海へ大軍を派兵。支那事変が泥沼化するのである。

 ・・この時期、作戦部長石原莞爾は激昂して、「上海の在留邦人が危険なら、在留邦人は全員(日本へ)引揚げたらよい! 損害は一億円でも、二億円でも、補償してやればよい! 戦争するより安くつく!」と怒鳴った、と・・佐藤賢了中佐が証言している。  しかし政府内に、上海在留邦人を日本へ引揚げさせようとする者は居なかった。・・・(中略)・・・ 日本外務省は戦前も戦後も、海外紛争地からの在留邦人引揚げマニュアルを用意していないのである。(同書、p163-164)

 ・・不拡大方針の石原作戦部長は、拡大派の武藤章作戦課長との抗争に敗れて失脚し、・・石原は、同日(九月十一日)、作戦部長の辞任(発令は九月二十七日)を申し出たのである。(同書、p166)

 ・・対支和平論を唱えて参謀本部を追われた石原莞爾少将が関東軍参謀副長に左遷されて満州へ赴くと、石原の上司は関東軍参謀長東條英機中将だった。対支和平論者の石原莞爾と、対支強硬論の東條英機は激突した。石原莞爾は、以前から、「満州国を満州人・蒙古人・漢人・朝鮮人・日本人が対等に協力しあう王道楽土・五族協和の理想国家にして、共産主義浸透やソ連軍南侵を防ぐ防共国防国家に育てたい」との夢を抱き、満州国を日本の盟友にしたい、との信念を持っていた。  一方、東條英機の満州国運営の基本姿勢は、二キ三スケ・・の五人が権力の頂点に立って満州国を政治支配することだった。(同書、p173)

 ・・石原少将は、憲兵を駆使して全満州を差配する上司の東條中将を、「憲兵しか使えぬ女々しい奴」と罵倒。事毎に、東條英機を無能・馬鹿呼ばわりした。(同書、p174)

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 ・・石原莞爾は東京裁判の酒田出張法廷でGHQの判事に、「満州建国は侵略ではない。日本の行動を侵略というなら、ペリーをあの世から連れて来い。鎖国して朝鮮も満州も不要だった日本に帝国主義を教えたのはアメリカだ」と堂々と言い返した。そして石原は・・敗戦に打ちひしがれ虚脱する日本国民に、「日本の軍備撤廃は惜しくはない。日本国憲法第九条の戦争放棄の道を選ぼうではないか」と述べて祖国の経済復興を促し、自身は西山農場で開墾に従事した。(同書、p178)

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