culture & history

偽ドミトリーとマリナ・ムニシュフヴナ

https://ja.wikipedia.org/wiki/マリナ・ムニシュフヴナ より<以下引用>

サンドミェシュ県知事イェジ・ムニシェフの娘としてラシュキ・ムロヴァネ(現在のウクライナリヴィウ州)に生まれた。父イェジはロシア・ポーランド戦争における僭称者擁立計画の首謀者の一員である。計画の中枢にいたポーランド・リトアニア共和国のマグナートとイエズス会の修道士たちは、擁立した偽ドミトリー1世にマリナを娶らせることで、僭称者に対する支配力を強化しようと考えた。マリナは1604年ないし1605年にワルシャワの宮廷で偽ドミトリー1世に引き合わされ、彼と婚約した。その見返りとして、マリナにはプスコフとノヴゴロドの、父イェジにはスモレンスクとノヴホロド=シーヴェルスキーの支配権がそれぞれ譲渡されることが約束された。1605年6月、偽ドミトリー1世はモスクワに入城してフョードル2世を殺し、ツァーリに即位すると、ポーランドに使節を派遣してマリナの輿入れと対オスマン帝国軍事同盟の締結を求めた。

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父イェジはロシア・ポーランド戦争における僭称者擁立計画の首謀者の一員である。・・・(補註:イェジー・ムニーシェフは、ポーランド語版ウィキペディアによると・・・Jerzy Mniszech herbu własnego (ur. ok. 1548, zm. 16 maja 1613) – kasztelan radomski od 1582, wojewoda sandomierski od 1589, krajczy wielki koronny w 1574, żupnik ruski, starosta generalny ruski w latach 1593-1613, starosta samborski, sanocki, rohatyński, dembowiecki, starosta szczyrzecki w 1593 roku, starosta sokalski w 1564 roku, starosta drohowyski w 1578 roku, organizator i uczestnik Dymitriady. 残念ながら、私は読むことができません。ポーランド(〜ポーランド・リトアニア共和国のマグナート=大貴族の一人。娘のマリナ・ムニシュフヴナをツァーリ簒奪成功後の偽ドミトリーに実際に嫁がせていることから、きわどい投機的人物かとは推測しております。あくまで私見です。しかし、1600年当時の東欧において、周りを見回して相対的にどの程度きわどい人物であったかは、よく歴史を調べてみる必要がありそうです。)

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https://ja.wikipedia.org/wiki/偽ドミトリー1世 より<以下引用>

偽ドミトリー1世(にせドミトリーいっせい、ロシア語: Лжедмитрий I, 英語: False Dimitri I, 1582年10月19日 – 1606年5月17日)はモスクワ国家のツァーリ(在位1605年7月21日 – 1606年5月17日)。動乱時代にイヴァン4世の末子ドミトリー皇子を僭称した最初の人物で、その権利によって即位し、ドミトリー2世と数えられた。

1604年3月、ドミトリーはクラクフの王宮でポーランド王ジグムント3世に引き合わされた。国王は彼を一時的に支援したが、モスクワ大公位奪取のための直接的な援助は約束しなかった。イエズス会からの支援を仰ごうとしたドミトリーは、1604年4月17日密かにカトリックに改宗し、教皇特使ランゴーニから支持の確約を取り付けることに成功した。またイェジー・ムニーシェフ(ポーランド語版)にも助力を頼み、その代償として即位した暁にはプスコフ、ノヴゴロド、スモレンスク、ノヴゴロド・セーヴェルスキーをムニーシェフ家に渡し、彼の娘マリナ・ムニーシェフを皇妃に迎えると約束した。

簒奪

ドミトリーは多くの支持者を得て小規模な軍隊を組織し、さらにポーランド・リトアニア共和国のマグナートから約3,500名のミリシア供出を受けて、1604年6月にロシア領内に入った。南部のコサックを始めとするゴドゥノフの敵対者達が、ドミトリーのモスクワ進軍に参加した。ドミトリー軍は戦意の低いモスクワ国家軍と2度交戦し、1度目はクルスクを始め4都市を陥落させて勝利したが、2度目は大敗しかけて滅亡寸前に追い込まれた。劣勢に立たされていたドミトリーが持ち直したのは、ツァーリであるボリス・ゴドゥノフの崩御の報が入ったおかげである。ボリスの唐突な死でドミトリーを拒む大義名分を失ったロシア側は、うやむやのうちにドミトリー支持に回る者が相次ぎ、1605年6月1日(グレゴリオ暦6月10日)にはボリスの後継者フョードル2世がモスクワで逮捕された後、母親であるボリス・ゴドゥノフの妃マリヤ・スクラートヴァ=ベリスカヤと共に処刑された。6月20日、僭称者は首都モスクワに凱旋入城を果たし、自ら新たに選んだギリシア人総主教イグナチオス(ロシア語版)の手で、6月21日に戴冠式を執り行った。ドミトリーは多くの支持者を得て小規模な軍隊を組織し、さらにポーランド・リトアニア共和国のマグナートから約3,500名のミリシア供出を受けて、1604年6月にロシア領内に入った。南部のコサックを始めとするゴドゥノフの敵対者達が、ドミトリーのモスクワ進軍に参加した。ドミトリー軍は戦意の低いモスクワ国家軍と2度交戦し、1度目はクルスクを始め4都市を陥落させて勝利したが、2度目は大敗しかけて滅亡寸前に追い込まれた。劣勢に立たされていたドミトリーが持ち直したのは、ツァーリであるボリス・ゴドゥノフの崩御の報が入ったおかげである。ボリスの唐突な死でドミトリーを拒む大義名分を失ったロシア側は、うやむやのうちにドミトリー支持に回る者が相次ぎ、1605年6月1日(グレゴリオ暦6月10日)にはボリスの後継者フョードル2世がモスクワで逮捕された後、母親であるボリス・ゴドゥノフの妃マリヤ・スクラートヴァ=ベリスカヤと共に処刑された。6月20日、僭称者は首都モスクワに凱旋入城を果たし、自ら新たに選んだギリシア人総主教イグナチオス(ロシア語版)の手で、6月21日に戴冠式を執り行った。

・・・(中略)・・・

1606年5月8日、ドミトリーはマリナ・ムニシュフヴナと結婚したが、宗派の違う皇妃は婚礼にさいして正教会に改宗するという慣例を破り、マリナはカトリック信仰を許された。ドミトリーはポーランド側に譲歩して、即位後にカトリックに改宗しているから、妻に改宗を求めないのだという見方が広まった。このことはロシア正教会、大貴族や民衆の烈しい反発を招き、以前から彼に不満を持ち始めていたヴァシーリー・シュイスキーらの大貴族が、カトリック信仰とソドミーを広めたという罪でドミトリーを糾弾し始めた。ドミトリーがいまだにモスクワに駐屯させているポーランド軍の守備隊が、モスクワで頻繁に乱暴狼藉を働いていることが民衆の怒りを買っていたことも手伝い、彼ら反ドミトリー勢力は民衆の支持を受けた。婚礼から間もない5月17日の朝、反乱者がクレムリンを急襲した。ドミトリーは窓から逃げようとして脚を骨折し、反乱者の一人に見つかり殺害された。遺体は赤の広場で見せしめにされた上で焼却され、焼け残った遺灰は大砲に詰められポーランドに向けて発射された。ドミトリーの死後、一時は息子と承認したマリヤ・ナガヤは、ドミトリー皇子ではなかったと正式に否定している。

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以下は再び、https://ja.wikipedia.org/wiki/マリナ・ムニシュフヴナ より引用:

このクーデターはポーランド人の側近や随行団を含む数千人の犠牲者を出し、マリナとその父イェジは投獄された。偽ドミトリー1世の死後、マリナは皇妃の称号を剥奪されたものの命だけは助けられ、1608年6月にロシアとポーランドとの休戦条約が結ばれた後、ポーランドへ護送された。しかしイェジはツァーリの外舅という地位を諦めてはおらず、ヤロスラヴリに逃れて勢威の回復を模索した。父親の手引きによってマリナは新たな僭称者である偽ドミトリー2世の拠点トゥシノに姿を現し、そこで奇跡的に「生き延びた夫と再会を果たす」という演出がなされた後、おそらく偽ドミトリー2世とマリナは密かに結婚した。ポーランド大ヘトマンのスタニスワフ・ジュウキェフスキは回想録の中で、偽ドミトリー1世と2世の共通点は「人間であることと、簒奪者であること」以外には何もないと述べている。この結婚によって、マリナはかつての運命に再び引き戻されることになる。

1610年12月に偽ドミトリー2世が死ぬと、マリナはコサックの首領イヴァン・ザルツキーの庇護下に入った。ザルツキーはマリナが1611年1月に産んだ新生児をツァーリに推戴しようと目論んでおり、その配下の者たちはマリナの息子を「イヴァン・ドミトリエヴィチ(ロシア語版)(ドミトリーの息子)」と呼んでいたが、総主教エルモゲン(ゲルモゲン)はこの赤ん坊に「小悪党」というあだ名を付けた。1613年の夏、支援者を失ったマリナとザルツキーはアストラハンに逃れたが、既にミハイル・ロマノフが正式なツァーリに選出されており、アストラハン市民は幼い僭称者とその家族が町を出ることを望んだ。1614年、同市では小悪党一行を捕まえようとした町民が暴動を起こし、一行はステップ地帯へと逃亡した。一行は別のコサック集団と連携しようとして失敗し、1614年5月にウラル川の畔でコサックに捕まり、モスクワ政府に引き渡された。ザルツキーとマリナの幼い息子は1614年のうちに処刑され、マリナはその直後に獄死した。

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補註: 運命に翻弄されたマリナの悲劇的な一生:

このマリナの悲劇的な一生は、父の命ずるままに政略結婚の犠牲者となったものだと考えられなくもない。むしろそう考えるのが、私たち日本人の歴史感覚からは、自然かも知れない。しかし、ポーランド女性はそこまで弱い、とは限らない。「天下は乱れようとしており、当代一の才の持主でなければ救うことはできない。天下をよく安んずるのはマリナ、君である」などとマリナは高く評価されていたかも知れないではないか。たとえば、ポーランドで有名な人物鑑定家の一人は、「女史治世之賢母亂世之奸雄」(女史は治世の賢母、乱世の奸雄女傑=姦雄女傑)または「君清平之奸女賊亂世之英女傑」(君は清平の奸女賊、乱世の英女傑)と評したという話はなかったであろうか。ロシアのツァーリの座を射止めるのは、大きな野望であり、マリナにとって、女と生まれたからには、一生を賭けてみる高い目標であったのではないか。

もし、それを目指していたのであれば、カトリックに固執することなく、アンリのトンボ返しを模して2回転半、盛大に皆に祝福されながら、正教に改宗していれば、運命はどう転んでいたか、わかりはしないのである。

以上、父の横暴な命令にただただ盲目的に従っただけの女と考えるのではなく、自分の意志でリスクの大きな大きな賭に出て、そして敗れた女傑とイメージしてみた。

・・と、まあ、このように勝手な想像を駆け巡らせれば、マリナの悲劇的な一生も少しは慰められそうでもある。ポーランドは強靭な精神とフィジカルに恵まれた女傑をも数えられないほど多く輩出しているのであるから。

Boguszowicz Marina Mniszech。(作成1606年)

補註: マリナ姫の肖像画。向かって左手にはラテン文字でインペラトーリスなどと書かれている。向かって右手の背景には、双頭の鷲のバナー。https://ja.wikipedia.org/wiki/双頭の鷲 の記載もご参照ください。

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補註: ポーランドの傭兵について(要、確認)

また、マリナから視点を替えて、「いまだにモスクワに駐屯させているポーランド軍の守備隊が、モスクワで頻繁に乱暴狼藉を働いていること」にも思いを馳せてみよう。1600年頃の軍といえば、恐らくは傭兵隊長が寄せ集めた傭兵の軍団。戦争がなければ、ほぼ盗賊軍団と考えてよかろう。ロシアの大飢饉で大勢が死んだ惨劇のあと2,3年も経たないうちに、ポーランドから4000人もの穀潰し軍団がモスクワに駐留していたのでは、人民の塗炭の苦しみは容易に想像がつくのである。そして、この動乱時代、ツァーリ空位の時期さえあって、ロシアは一時ポーランドに征服されてしまう。

『ワルシャワのセイムにおけるツァーリ・シュイスキー』 ヤン・マテイコ画。ワルシャワのポーランド国会セイム)において、ジグムント3世らの前で屈従するシュイスキー

この辺りの厳しい凄まじい歴史に関しても、私としては気が進まないながら、踏み込んで調べて行かざるを得ないだろう。

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Sigismund III of Poland-Lithuania and Sweden (Martin Kober)

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