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陶淵明の固窮の節

2016年6月17日 金曜日 雨

斯波六郎 中国文学における孤独感 岩波文庫 1990年(底本は、同、岩波書店、1958年)

都留春雄・釜谷武志 陶淵明 鑑賞 中国の古典第13巻 角川書店 昭和63年 p387-398に「陶淵明における孤独感」として斯波の同書15陶淵明の抄録が掲載されている。

陶淵明の「固窮の節」と孤独

さきに、淵明の詩に見える孤独感を、社会と調和できないことから起こったものと、人生のはかなさを嘆くことから起こったものとの二つに一応わけて述べたのであるが、これから述べるのは、社会と調和できないとか、人生の無常を感ずるとか、ということを本にしながらも、しかもむしろ、それらを超克して、ただあるがままの自分そのものが所詮ひとりぼっちだという自覚から生まれたものについてである。そしてあるがままの自分そのものとは、淵明にあっては、その本領を守りつづける姿のことである。(斯波、同書、15 陶淵明、p181)

・・・以上の如き次第で、「固窮」をば、「困窮を固く守る」または「困窮にも固く守る」という意味に、淵明は使ったものと今は見るのであるが、そのいずれにしても、くわしくいえば、困窮に屈しないで、自分の信念なり主義なりを守りつづけることである。これを逆にいえば、困窮に堪えられないで信念なり主義なりを曲げてしまうということをしないのである。淵明においての困窮は、おおむね貧窮を意味するが、主義信念をすてて世渡りをうまくやることによって、その貧窮は恐らくきりぬけられたであろう。しかしそれをしないのが「固窮」である。
さてしからば淵明は、その「固窮の節」をいだいて、何ら心の動揺もなく、枯木死灰の如く平然として、窮乏に堪えつづけたのであろうか。・・しかるに、事実、しばしば「固窮の節」を守る自己を歌わざるを得なかったことは、そういう信念をもって、餓えと凍えとに打ち克ってゆかねばならぬ、自己の姿をかえりみて、そこにいい知れぬ寂しさを感じたがためである。(斯波、同書、p189-190)

(孤独感)を単なる一時的の感傷にとどめておくか、それとも、更につきすすんで深く味わい、深く考えるかは、その人その人によって異なるのである。すぐれた詩人の多くは、こうした孤独感に徹して、そのはてに、自他融合の境地にまで到達していたのではあるまいか。(斯波、同書、p212)

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