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雪の再発見:日本人は雪とも仲良しであった。

2019年12月30日 月曜日 小雨(雪ではなく雨・・この季節の札幌では珍しい。少し暖かい年末となった。ただし、明日からは猛烈に荒れる=吹雪になる、という予報である。)

富山和子 水の文化史 文藝春秋 1980年

湖水の出口は瀬田川一つしかない。その瀬田川は土砂が堆積して年々河床を上げ、湖の水捌けを悪くしていく。このため琵琶湖沿岸の住民にとっては、瀬田川の浚渫はいつの時代にも悲願であった。にもかかわらず、浚渫はなかなか許されなかった。下流淀川を守るために、常に涙をのんできたのが、上流の住民であった。淀川をおとなしい川として保証してきたものは、琵琶湖と琵琶湖住民の涙だったのである。 ・・しかしそれだけであろうか。淀川が上流に至るまでみやびさを失わせなかった秘密は、琵琶湖がこの川をおとなしくさせてきたからだけだったろうか。・・この川が上流へ遡ってもなお文化の香りを失わせぬ川でありえたのは、上流に都があったからではなくて、都を養うに足る資源が、より上流からも届けられたからであった。幸運にも、資源はより上流からやってきた。分水嶺を超えて日本海側から。そして北陸や東北は、現代の私たちが考えている以上に、はるかに豊かな土地だったのである。 ・・琵琶湖は、その日本海側の資源を引き受ける、淀川上流の窓口であった。(富山、同書、p26)

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 ・・現代社会は米に対する価値観を狂わせてしまったために、土壌という国土の資源に対する判断力まで狂わせてしまっている。工業のフィルターでしか国土を見ようとしないから、東北、北陸は貧しく暗い土地柄として映る。だが、たまに訪れる冷害や水害、そして出稼ぎさえなかったなら、そこは山の幸と平野の米と海の幸に恵まれた、実に豊かな土地であった。そして冷害も水害も、出稼ぎという不幸な現象も、土地の貧しさが原因であるよりも、経済の発展とともに社会が作り出した、社会現象といえただろう。(富山、同書、p33)

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雪の再発見: ・・だが考えてみれば、日本人が雪を邪魔者と考えるようになったのは、つい最近のことではなかったか。交通手段を陸上に頼らない明治中期までは、むしろ山深い峠の村々は、いまよりも栄えていた。・・交通手段が川から陸に変わったとき、最初にさびれていくのが山深い山村だったのである。

冬ごもりにしても同じである。プロパンも米も野菜も買う必要はなく、人も物資も現在のように忙しく移動させなくとも生活できた昔には、日本人は雪とも仲良しであった。大雨が降れば川が広がるのは当然であったように、冬が来れば雪に埋もれるのも当然のことであった。洪水のヘドロが翌年からの土壌の肥沃さを保証してくれたように、降雪もまたその年の豊作を約束する自然の贈りものであった。 ・・雪国では、屋根の勾配や屋根につける雪止めの形から、雪下ろしの時期や時間に至るまで、人々はその土地土地の条件に対応させ、肌で会得した暮らしの知恵を養ってきた。(富山、同書、p34-35)

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