culture & history

現在を否定するから現在にいっそう深くかかわる

2016年1月24日 日曜日 晴れ

溝口雄三 李卓吾 正道を歩む異端 中国の人と思想10 集英社 1985年

現在のなかに未来を求め、その未来のために現在を否定する。現在を否定するから現在にいっそう深くかかわる。

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彼ら(老荘や仏家)が李卓吾や松陰とちがうところは、李卓吾や松陰が現在のなかに未来を求め、その未来のために現在を否定しようというのに対し、老荘や仏家のほうは現在を否定はするが、それは現在の外に身を置くからのことで、現在のなかに身を置いて現在を否定しているのではないということ、いいかえれば、李卓吾と松陰は、現在を否定するから現在にいっそう深くかかわるのに対し、老荘・仏家は現在を否定するからそれにかかわろうとしないということ、ここに両者のちがいは端的にあるといえます。(溝口、同書、p57)

狂狷(きょうけん)
道にのっとって千聖の絶学を継承しようとするなら、狂狷をおいていったいだればできようか、・・・・道を伝えるという以上、彼ら以外に道を語れるものはいない。狂狷であるために道を外れるものもいるだろうが、しかしまた狂狷でなければ道につくことはできない。(溝口、同書、p63)

蠢愚(しゅんぐ)でなければ、狂癡(きょうち)にその「真」に固執できるものではない。社会のなかにいて社会を否定し、否定を通して創造のために闘うなどという非正常にまっとうなことを、しかも周りから異端視され疎外された孤絶に堪えてまでだれができるだろうか。(溝口、同書、p65)

「自賛」のなかで李卓吾は、自分の性質は偏狭で短急、顔つきは矜(ほこ)り高ぶり、「其の心は狂癡(きょうち)」だ、交際の範囲は狭く、つきあえばただならず親密になるが、もし相手をにくむとなると、その人と絶交したうえ、さらに一生その人をいためつけようとする、そして実際は暖衣飽食を欲しながら、節を守って餓死した伯夷・叔斉を気取るなど、口と腹とは大ちがいである、・・・(中略)・・・とすれば自分のようなのが、とうていいいわけがない・・・・とみずからを語っています。(溝口、同書、p60-61)

そうまでしえ彼らを前に駆り立てるものはなんなのでしょう。それは・・・未来にあるべき「真」を志向してやまない、それぞれの内なる「真」への希求です。・・・(中略)・・・「真」を希求するだけではなく、その希求を現実のものにしようと実践に踏み出し、しかもその実践がやむにやまれず狂・悖(はい)・愚・蠢(しゅん)であるとき、当事者の孤絶感の深さは、かえってそれだけ同類と思う相手との結合感を深めましょう。松陰が「童心説」に真仮の二字と眉批(びひ)をしるしたとき、その心底にあったのは、そのような結合感であったのではないでしょうか。(溝口、同書、p66-67)

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