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語意メモ 軽皇子

2016年3月9日 水曜日 曇り

小林惠子 本当は怖ろしい万葉集 歌が告発する血塗られた古代史 祥伝社 2003年

軽皇子は固有名詞か、普通名詞か?

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この時代、半島の名称の一つである三韓から「韓(かん)」を「軽(かる)」にかけ、半島で生まれた倭王の普通名詞と推定される。したがって此の歌の軽皇子は文武天皇とは限らない。私の考えでは高市皇子は耽羅島で生まれた人だから軽皇子といわれる条件を備えている。(小林、同書、p168)

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補注 軽皇子として有名なのは、木梨軽皇子(允恭天皇の第一皇子・皇太子)、孝徳天皇(軽皇子)、文武天皇(軽皇子)が挙げられる。

ウィキペディアによると・・・<以下引用>
1)木梨軽皇子(きなしのかるのみこ、生没年不詳)は、古墳時代の皇族。
允恭天皇の第一皇子、皇太子であった。母は皇后の忍坂大中津比売命(おしさかのおおなかつのひめのみこと)。同母弟に穴穂皇子(あなほのみこ、後の安康天皇)、大泊瀬稚武皇子(おおはつせのわかたけるのみこ、後の雄略天皇)など。
『古事記』によれば、允恭23年立太子するも、同母妹の軽大娘皇女と情を通じ、それが原因となって允恭天皇の崩御後に廃太子され伊予国へ流される。その後、あとを追ってきた軽大娘皇女と共に自害したといわれる(衣通姫伝説)。また『日本書紀』では、情を通じた後の允恭24年に軽大娘皇女が伊予国へ流刑となり、允恭天皇が崩御した允恭42年に穴穂皇子によって討たれたとある。
四国中央市にある東宮古墳が木梨軽皇子の墓といわれ、宮内庁陵墓参考地とされている。
2)孝徳天皇
孝徳天皇(こうとくてんのう、推古天皇4年(596年) – 白雉5年10月10日(654年11月24日))は、日本の第36代天皇(在位:孝徳天皇元年6月14日(645年7月12日) – 白雉5年10月10日(654年11月24日))。諱は軽(かる)。和風諡号は天万豊日天皇(あめよろずとよひのすめらみこと)。その在位中には難波宮に宮廷があったことから、後世その在位時期をその政策(後世でいうところの大化改新)などを含めて難波朝(なにわちょう)という別称で称されることがあった。・・軽皇子が中大兄皇子を教唆して乙巳の変を引き起こした黒幕であるという説を唱える歴史学者もいる。しかし、軽皇子が即位して後重用したのは蘇我氏系豪族が多く、今後の議論が待たれる。
3)文武天皇
文武天皇(もんむてんのう、天武天皇12年(683年) – 慶雲4年6月15日(707年7月18日))は、日本の第42代天皇(在位:文武天皇元年8月1日(697年8月22日) – 慶雲4年6月15日(707年7月18日))。 諱は珂瑠(かる)、軽(かる)。和風諡号は2つあり、『続日本紀』の707年(慶雲4年11月12日)に「倭根子豊祖父天皇」(やまと ねこ とよおほぢの すめらみこと、旧字体:−豐祖父)と、『続日本紀』797年(延暦16年)に諡された「天之真宗豊祖父天皇」(あめの まむね とよおほぢの すめらみこと、旧字体:−眞宗豐祖父)がある。・・草壁皇子(天武天皇第二皇子、母は持統天皇)の長男。母は阿陪皇女(天智天皇皇女、持統天皇の異母妹、のちの元明天皇)。父草壁は皇太子のまま亡くなり即位していないため、本来であれば「皇子」ではなく「王」の呼称が用いられるはずだが、祖母である持統天皇の後見もあってか、立太子以前から皇子の扱いを受けていたと考えられる。父・草壁が持統天皇3年4月13日(689年5月7日)に亡くなり、同10年7月10日(696年8月13日)には伯父にあたる高市皇子も薨じたため、同11年2月16日(697年3月13日)立太子。文武天皇元年8月1日(697年8月22日)、祖母・持統から譲位されて天皇の位に即き、同月17日(9月7日)即位の詔を宣した。当時15歳という先例のない若さだったため、持統が初めて太上天皇を称し後見役についた。
<以上、引用終わり>

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