読書ノート

語意メモ 日並皇子

2016年3月9日 水曜日 曇りのち晴れ

小林惠子 本当は怖ろしい万葉集 歌が告発する血塗られた古代史 祥伝社 2003年

日並皇子は一般名詞? 草壁皇子への挽歌は人違い?

大津皇子は謀反の罪で水死させられた。しかしキトラ古墳にしても、二上山にしても手厚く葬られている。大和朝廷としては大津皇子が即位していたという事実さえ抹消すればよいのである。「万葉集」の編者は人麻呂の大津皇子への挽歌は残したかった。そこで日並皇子という一般名詞にしたと推測される。・・大津皇子は人麻呂の挽歌よりみて、最初は真弓丘に葬られたのだろう。(小林、同書、p196)

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補注 日並皇子 ひなみのみこ ひなみしのみこ
ウィキペディアには日並皇子は独立した項目としては載っていない。
「日並皇子とは草壁皇子のことで、太陽と並ぶ皇子という皇太子」というのが一般の理解のようである。私見であるが、人麻呂の挽歌より後の時代になって「日並皇子」が固有名詞となったのではないか。すなわち、人麻呂の歌が余りにも有名となり、もともと普通名詞であった日並皇子という言葉がそこに詠われている日並皇子を特定的に指して使われるようになり、結果、人麻呂の挽歌より後の時代には日並皇子は固有名詞となって語り継がれたのではないか。つまり、人麻呂以後、日並皇子という背番号(普通名詞)はいわば永久欠番(固有名詞化)とされたのである。
 一方、前述の軽皇子という綽名(あだな)も木梨軽皇子以後永久欠番となってしかるべきである。木梨皇子の悲恋のお話しは誰にとっても強烈であり、聞いた人は一生忘れることはできないだろう。「軽皇子」という言葉に木梨軽皇子の悲恋の亡霊がつきまとわないことは考えられない。ところが、孝徳軽皇子の折にも一見ニュートラルに使われ、さらにまた、文武軽皇子に至るまで永久欠番にならなかったことからみて、木梨軽皇子の悲話は、文武軽皇子当時(七〇〇年頃)に至るまで有名ではなかったであろう。あるいは、有名な話であったとすれば、その悲話には「軽皇子」という言葉自体が登場していなかったことが考えられる。つまり、木梨軽皇子という名前以外の名前で呼ばれる人物が登場していた可能性もある。詳細はさておき、軽皇子という言葉は、「書紀」の編纂時代(七二〇年頃)に至るまで普通名詞として流布し続けていたと推定して良いだろう。これに関しては、なお、後に詳しく考察すべき宿題としたい。

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