読書ノート

「カノッサの屈辱」後も続く皇帝と教皇の争い

2020年11月23日 月曜日(祝日) 曇り時々晴れ、午後3時頃から降り続く雪、積もるかもしれない。寒い。

菊池良生 神聖ローマ帝国 講談社現代新書1673 2003年

カノッサ

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カノッサ城

・・ランペルトの年代記通りだとすれば事件はグレゴリウス(イルデブランド=教皇グレゴリウス7世)の完膚なきまでの勝利に終わったはずである。しかしそうはならなかった。熾烈な対立は再燃する。  ハインリッヒ(=4世、ザリエリ家王朝、ドイツ王在位年1056-1106、神聖ローマ帝国皇帝在位年1084−1106) の「カノッサの屈辱」はあくまでもその場しのぎの芝居に過ぎなかった。ハインリッヒはまたしても皇帝権を振りかざした。グレゴリウスはハインリッヒを再び破門する。これに対してハインリッヒはドイツの司教たちをけしかけグレゴリウスを廃位させ、対立教皇クレメンス三世を擁してローマになだれ込んだ。グレゴリウスは聖天子城に籠城し、四年以上にわたって抵抗する。彼は皇帝軍に対して南イタリアのノルマン人をローマに引き入れる。・・しかし皇帝軍の代わりにローマに姿を現したルッジェーロ・グイスカルド率いるノルマン軍がとんでもない代物であった。・・・以下略・・・(菊池、同書、p79)

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ローマ教皇グレゴリウス7世

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ハインリッヒ四世

カノッサの屈辱(カノッサのくつじょく、ドイツ語: Gang nach Canossa、イタリア語: Umiliazione di Canossa)

ウィキペディアによると・・・

カノッサの屈辱(カノッサのくつじょく、ドイツ語: Gang nach Canossa、イタリア語: Umiliazione di Canossa)は、聖職叙任権をめぐってローマ教皇グレゴリウス7世と対立していたローマ王ハインリヒ4世が、1077年1月25日から3日間に及んで雪が降る中、カノッサ城門にて裸足のまま断食と祈りを続け、教皇による破門の解除を願い、教皇から赦しを願ったことを指す。また、カノッサ事件とも呼ばれる。


・・・(中略)・・・


ハインリヒ4世は教皇がアウクスブルクでの会議に参加する前に贖罪するため、北イタリアへ向かった。そこで会議に向かう途中の教皇が、トスカーナ女伯マティルデの居城カノッサ城に滞在していることを知った。1077年1月、突然現れたハインリヒ4世に教皇は戸惑い、捕縛を恐れて城から出ようとしなかった。ハインリヒ4世は武器をすべて置き、修道士の服装に身をつつんで城の前で教皇に赦しを求めた。教皇は破門を解く旨を伝え、ローマへ戻った。ハインリヒ4世はドイツに戻ると直ちに反対派の諸侯を制圧し王権を確立した。その後、再び叙任権をめぐって両者は争うが、今度はハインリヒ4世が軍勢を率いてイタリアに乗り込みローマを囲んだ。教皇は辛くも包囲を脱出し、1085年にイタリア南部のサレルノで客死した。叙任権闘争は、ドイツ南部のヴォルムスで叙任権は教皇にあることを定めた協約(ヴォルムス協約)が成立する1122年まで続いた。


後世への影響:この事件は叙任権闘争、ローマ教皇対ローマ王及び皇帝の長期に渡る抗争の一事件でしかないが、この後ローマ教皇庁では皇帝ですら教皇に跪いたと教皇権の優位性の宣伝に使われた。一方16世紀になると、ドイツのプロテスタントは反教皇の立場からこの事件を取り上げた。19世紀には民族主義と反カトリック主義の高まりの中でビスマルクが、この事件をドイツの屈辱として取り上げるなど、主に文化闘争の文脈において政治的宣伝に利用された。ヨーロッパでは現在でも「カノッサの屈辱」は「強制されて屈服、謝罪すること」の慣用句として用いられている事が多い。<以上、ウィキペディアより引用終わり>

カノッサの屈辱 
ハインリヒ4世(中央)、トスカーナ女伯マティルデ(右)、クリュニー修道院長(左)

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クリュニー修道院: ウィキペディアによると・・・

クリュニー修道院(クリュニーしゅうどういん、正式名称はサン=ピエール・エ・サン=ポール・ド・クリュニー修道院。フランス語: Abbaye de Saint-Pierre et Saint-Paul de Cluny)は、当時のブルグント王国内で現在のフランス・ブルゴーニュ地方のソーヌ=エ=ロワール県・クリュニーに909年9月11日(910年とする説もある)、アキテーヌ公ギヨーム1世により創建されフランス革命まで存続したベネディクト会修道院である。
概要:
修道院は創建後、ただちに教皇により認可された。初代院長ベルノーは修道生活立て直しのため「聖ベネディクト会則」の遵守を定めた。これが、その後、修道会での僧侶の生活の一切の根本となる重要な戒律となった。クリュニー修道院は、中世にクリュニー改革とよばれる修道会改革運動の中心となり、最盛期には管轄下におく修道院1200、修道士2万を数えた。またその典礼の壮麗なことでも知られた。927年から1156年がその最盛期にあたり、5人のきわめて高名で影響力のある修道院長を輩出した。その最後にあたるペトルス・ヴェネラビリスはクレルヴォーのベルナルドゥスからその修道院の華美を非難された。このころからクリュニーの凋落が始まってゆく。すなわち、簡素で素朴な自給自足的生活を重んじるシトー会系の修道士などから批判を受けることになった。

クリュニー修道院の聖堂は3期に渡って建築された。第1期の”クリュニーI”と呼ばれる初代の建物は、初代院長ベルノーの指揮の元に915年から927年に掛けて建設されたと見られる小規模な聖堂であった。第2期の”クリュニーII”と呼ばれる建築は、恐らくその権勢に相応しいものが要求されたと見られ、981年から1040年に掛けてクリュニーIの横に建設された。さらにそのすぐ後の1088年から1130年に掛け、恐らくクリュニーIを取り壊して、”クリュニーIII”と呼ばれる建物が建設される。この建物の拡張は13世紀まで行われ、最終的な聖堂の大きさは入り口から後陣までの長さが約190メートル、高さが約40メートルという巨大なものであった。(ちなみにパリノートルダム大聖堂は長さが約130メートル)

・・・以下略・・・<以上、ウィキペディアより引用終わり>

かつてのクリュニー修道院聖堂跡に唯一残された南翼

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グレゴリウス7世: ウィキペディアによると・・・

教皇はそのころ、会議に参加すべくローマを出てマントヴァに至った。ハインリヒ4世はブルゴーニュを経て北イタリアへやってきた。彼はロンバルディア諸侯の歓迎を受けたため、武力で教皇を屈服させようかとも考えたが、その後の混乱を考慮して、教皇の滞在するカノッサに赴いて直接謝罪を行うことにした。

このハインリヒ4世の教皇への直接謝罪という出来事はすぐに知れ渡ることになる。いわゆる「カノッサの屈辱」といわれる出来事である。教皇は迷った。政治的に考えれば、王を許したところで自分に何のメリットもない。王が以前、自らの危機において服従を誓ったものの、状況が好転すると手のひらを返すように教皇に敵対したことを考えれば許すことによって招かれる状況は予想できるものだった。しかし、罪のゆるしを乞う人物を無視することは彼の聖職者としての良心が許さなかった。皇帝は許され、破門を解かれた。王の破門が解除されたことを受けて教皇はローマに戻り、ドイツ諸侯は落胆した。

しかし王が許されたといっても、叙任権をめぐる問題は何も解決していなかった。ハインリヒ4世は破門解除にともなって王位剥奪も無効化されたと考えたが、教皇は王位剥奪を保留することで彼に歯止めをかけようと考えていた。2人が再び争うことは避けられなかった。・・・以下略・・・

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カノッサ: ウィキペディアによると・・・
アダルベルト・アットーにはじまるカノッサ家は所領を集積し、孫のボニファーチオの代にはトスカーナ辺境伯を合わせ、トスカーナからロンバルディア一帯にまたがる領地を持つ大貴族となった。
カノッサの屈辱1052年にボニファーチオが暗殺されると、カノッサ城を含む広大なその所領は一人娘のマティルデによって継承された。神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世と教皇グレゴリウス7世との対立(叙任権闘争)の中で、マティルデは教皇の主要な支持者の一人であった。

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マティルデ・ディ・カノッサ: ウィキペディアによると・・・

マティルデ・ディ・カノッサ(Matilde di Canossa, 1046年? – 1115年7月24日)は、トスカーナ女伯。

・・ローマ教皇グレゴリウス7世とハインリヒ4世との争いでは一貫して教皇側を支持し、1077年にグレゴリウス7世がアウクスブルクでのドイツ諸侯会議へ向かう途中、ハインリヒ4世の接近を知りカノッサに避難してくると、これを保護し「カノッサの屈辱」事件となる。ハインリヒ4世が反撃を始めると教皇派として皇帝派と戦うが、1080年にモデナ近辺の戦いで敗れ、トスカーナを失う。1081年にさらに大部分の所領を失うが、グレゴリウス7世とドイツ諸侯との連絡役として活躍する。1085年にグレゴリウス7世が亡くなると、後を継いだウィクトル3世を支持し、1090年にバイエルン公ヴェルフ2世と結婚する。ハインリヒ4世は再びイタリアに侵攻してきたが、1092年にカノッサ近くで敗れ撤退する。1095年頃ヴェルフ2世と別れたが、これは、ヴェルフ2世の父ヴェルフ1世が皇帝側についたことによるとも、マティルデとの間に後継者が得られる可能性が低く、また、マティルデ自身が1080年頃にその所領を教会に寄進することを明らかにしており、ヴェルフ家にとって、マティルデの死後にその遺領の相続が期待できなくなったためとも言われている。1099年にフィレンツェの伯グイディー家のグイード・グエッラを養子にしたが、1108年までに解消した。1115年に後継者が無いまま亡くなり、聖ベネデット・ディ・ポリネーロ修道院に埋葬された。マティルデの遺領は教皇領、皇帝領となったが、領域内の各都市はその後自立の方向に向かい、北イタリアの都市国家群が形成されることになる。・・・以下略・・・<以上、ウィキペディアより引用終わり>

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