読書ノート

アブデュルハミト二世: 日本に軍艦エルトゥールル号を派遣。

2020年11月22日 日曜日 雨

小笠原弘幸 オスマン帝国 繁栄と衰亡の600年史 中公新書2518 2018年

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ハギア・ソフィア大聖堂 周囲の尖塔はオスマン帝国時代のもの

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アブデュルハミト二世のパン・イスラム主義

・・オスマン帝国のスルタンは、全世界におけるムスリム共同体の指導者たるカリフ位も兼ねる存在である−−−すなわち「スルタン=カリフ」であることがもっとも強調されたのは、彼(=アブデュルハミト二世)の時代である。対外関係における軍事力の行使を慎重に避けていたアブデュルハミトにとって、ムスリム諸国に影響力を及ぼすことのできるスルタン=カリフの権威は、重要な外交カードであったのだ。  彼は、列強の侵略に晒されている中央アジアや内陸アフリカのムスリム諸国に、カリフとして積極的に使節を派遣した。日本に軍艦エルトゥールル号を派遣したのも、この政策の一環である。同艦は、日本への道中、東南アジアのムスリム諸国においてアブデュルハミト二世の政策の喧伝に努めた。エルトゥールル号は、帰路、和歌山県串本沖で嵐に遭い沈没したものの、往路において十分にその役割を果たしていたといえよう。イスラムの聖地であるメッカ巡礼のために敷設されたヒジャーズ鉄道の費用が、帝国内外のムスリムからの寄付で賄われたのは、イスラム世界に対するアピールの最大の成果であった。(小笠原、同書、p252)

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エルトゥールル号遭難事件: ウィキペディアによると・・

1890年9月16日21時ごろ、折からの台風による強風にあおられたエルトゥールル号は紀伊大島の樫野埼に連なる岩礁に激突し、座礁した機関部への浸水による水蒸気爆発が発生した結果、22時半ごろに沈没した。これにより、司令官オスマン・パシャドイツ語版)をはじめとする600名以上が海へ投げ出された。

救難活動

樫野埼灯台

樫野埼灯台下に流れ着いた生存者のうち、約10名が数十メートルの断崖を這い登って灯台にたどりついた。灯台守応急手当を行なったが、お互いの言葉が通じないことから国際信号旗を使用し、遭難したのがオスマン帝国海軍軍艦であることを知った。

通報を受けた大島村(現在の串本町)樫野の住民たちは、総出で救助と生存者の介抱に当たった。この時、台風によって出漁できず食料の蓄えもわずかだったにもかかわらず、住民は浴衣などの衣類、卵やサツマイモ、それに非常用のニワトリすら供出するなど、生存者たちの救護に努めた。この結果、樫野の寺、学校、灯台に収容された69名が救出され、生還に成功した。その一方、残る587名は死亡または行方不明という大惨事となった。遭難の翌朝、事件は樫野の区長から大島村長の沖周(おきしゅう)に伝えられた。

・・・(中略)・・・

エルトゥールル号殉難将士慰霊碑(和歌山県串本町)

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日本海軍コルベット艦である「比叡」と「金剛」が遭難事故の20日後の10月5日、東京の品川湾から出航し、神戸港で生存乗員を分乗させて1891年1月2日にオスマン帝国の首都・コンスタンティノープルまで送り届けた。

・・・以下略・・・ <以上、ウィキペディアより引用>

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