読書ノート

アブデュルハミト二世の退位とレシャトの即位(1909年)

2020年11月22日 日曜日 曇りのち午後は雨(降り続く)

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小笠原弘幸 オスマン帝国 繁栄と衰亡の600年史 中公新書2518 2018年

イスタンブールのスカイライン

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 ・・しかしこの反革命の動きに対し、将軍マフムト・シェヴケト・パシャが統一派に味方し、サロニカから「行動軍」と称する革命擁護の兵を挙げてイスタンブルに進軍、蜂起を鎮圧することに成功した。・・・(中略)・・・・・代わって六四歳で即位したのは、アブデュルハミト二世の弟レシャトである。  レシャトは、一四五三年にイスタンブルを征服したメフメト二世に倣って、即位にあたり「メフメト」を名乗るよう要請された。行動軍は、自分たちをイスタンブルの二度目の征服者になぞらえていたからである。こうして、レシャトはメフメト五世として即位した。即位にあたって彼は、イスラム法と憲法、そして立憲政や国民の利益を守ることを誓約し、議員たちにようる忠誠の誓い(バイア)も執り行われた。  法意見書、忠誠の誓い、そしてイスラム法という伝統的な道具立てによる正統性と、立憲政と議会という近代的な価値観にもとづく正統性の組み合わせからなる即位劇は、再出発した立憲君主制にふさわしいものだったといえよう。  レシャトは政治的野心を持たない一方で、学芸に深い理解を示した。歴史愛好家であった彼の主導で、一九〇九年にはオスマン歴史協会が設立され、近代的な意味での歴史研究が初めて行われるようになった。また彼は、バルカンを中心に帝国各地を巡幸し、帝国臣民の人心掌握に努めてもいる。(小笠原、同書、p262)

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 憲法改正

・・一九〇九年に内閣不信任案によって大宰相が罷免されたことは、議会が大宰相に優越する力を持つことを象徴する出来事だった。すなわち、第二次立憲政において、君主と大宰相府の権力は低下し、それに代わって議会という新たなアクターが登場したのである。  しかしその陰で、イェニチェリ軍団の廃止以降、ながらく政治的主張をしてこなかった軍が再び影響力を増していたことも看過できない。若手将校を中心メンバーとして活動する統一進歩委員会や、マフムト・シェヴケト・パシャに代表される高級軍人は、陰に陽に影響力を発揮し、議会政治の運用とその健全な発展を不安定にしていた。こうした政軍関係は、軍部によるクーデタをある種の政治文化とするトルコ共和国にも、受け継がれることになるだろう。(小笠原、同書、p264)

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アヤソフィア 6世紀に正教会の大聖堂として建てられたが、後にモスクに変わった。現在は博物館

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