2020年11月19日 木曜日 雨時々曇り
小笠原弘幸 オスマン帝国 繁栄と衰亡の600年史 中公新書2518 2018年
北西アナトリアという舞台 一三世紀末、北西アナトリア。イスラム世界の果てにして、キリスト教世界の果てでもある辺境の領域。のちオスマン帝国と呼ばれる国家を築くことになる集団の濫觴(らんしょう)は、ふたつの世界の果てが重なりあうこの領域にあった。・・・(中略)・・・オスマン朝という国家の性格を語るうえで、この辺境に成立したという事実は、大きな重みをもっている。このころの北西アナトリアは、辺境における日常的な戦闘活動とたえざる聖戦(ガザー)、一見それと矛盾するかのようなムスリムとキリスト教徒の混交と共闘が見られる、混沌のスープともいうべき雰囲気を持った世界であった。(小笠原、同書、p18)
・・六七四年、ムスリムたちは帝国(=ビザンツ帝国)の奥深くまで攻め込み、帝都コンスタンティノポリスを包囲するに至った。しかし、巨大な城壁と、「ギリシャ火」と呼ばれる兵器(詳細は伝存していないが、一種の火炎放射器だったという)にはばまれ、攻略することはかなわなかった。預言者ムハンマドの教友であるアイユーブはコンスタンティノポリスの城壁のもとで殉教し、ムスリム軍はアナトリアから撤退した。アナトリアはなおしばらく「ローマの地」−−−アナトリアは、アラビア語で「ルーム(「ローマ」の意)と呼ばれる−−−でありつづける。(小笠原、同書、p20)
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