culture & history

ローマはもう一つのローマによって滅ぼされた。

イスタンブールのスカイライン

2020年11月18日 水曜日

田中創 ローマ史再考 なぜ「首都」コンスタンティノープルが生まれたのか NHKブックス1265 2020年

金角湾

・・(ユスティニアヌス帝の治世に)征服したイタリアや北アフリカでも混乱は続いた。とりわけイタリアでは東ゴートの残存勢力が再び王を擁立して反抗を始め、一時はイタリア半島全体に再び覇権をうちたてるまでに至った。・・結局、五五三年に東政府はゴート勢力の打倒に成功するものの、一連の再征服戦争はイタリア全土を巻き込む泥沼の戦争となった。その征服戦争に疲弊したイタリアに、東政府と同盟関係にあったランゴバルト人たちが入り込み、各地を蚕食して自らの勢力圏を築き上げ、イタリアの戦乱はなおも続くことになった。・・これ以後、長くイタリアは世界史の舞台での中心的役割を失うことになる。

 結果論ではあるが、ローマを滅ぼしたのは何者かといえば、それはゲルマン人以上に、東のローマ帝国であっただろう。水道橋などのインフラは度重なる包囲戦で傷つき、ミラノなど北イタリアの主要な都市は何度も略奪され、主だった貴族たちはコンスタンティノープルなどへ避難した。なにより、旧都ローマの歴史と権威すら新都に奪われ、旧都ローマの守り手たるローマ教会も、以後は東の皇帝の顔色をうかがいながらの首都とイタリアの運営を余儀なくされた。・・東方出身のローマ司教が次々と現れる六〜七世紀は、独立的な活動を著しく制限されたという点で、ローマ教会にとっての試練の時期となる。支配の女王たる古代都市ローマの姿は遂になくなってしまった。皮肉なことに、ローマはもう一つのローマ(=コンスタンティノープル)によって「滅ぼされた」のである。(田中創、同書、p237)

東ローマ帝国末期の国章「双頭の鷲」 画像はコンスタンティノポリス総主教庁の正門に今も掲げられているもの

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